【 2009年04月07日-19:57 のつぶやき 】
■ 上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -2-
【はじめに】
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
<前回まで>
だが、猜疑心と好奇心と期待感を綯い交ぜにした感情が、俺の中に二次発酵中のパン生地のように膨れあがってきて、俺はまた余計なことを言った。
「なんでもできる、なんでもできるんだよな?」
「そうね。例えば……」
そう言うと彼女は通学鞄にしては妙に洒脱な黒い革バッグから一冊のメモ帳を取り出すと、手際よく空きページを開いて、そこにボールペンで何かを描きだした。
描いていたものが仕上がったのか、満足げに肯くと、今度はそのページをメモ帳から引きちぎって、くしゃり、と握りしめる。
と、次の瞬間、唐突に、まさに唐突に、彼女の手には妙にアンティークじみた装飾が施された手鏡が握られていた。まるで中世の欧州貴族の令嬢あたりか、西洋おとぎ話のお姫様が使うような、そんな感じのデザインのものだ。
そんなものが、絵本やキッズアニメのそれのように『ボン!』と煙が出て、それが晴れたら出てきた――というわけでも、目くらましのような強烈な光の中から出てきたわけでもなく、ただただ、唐突に現れた。
思わずタネやシカケを探そうと目を見開いたが、明らかに徒労だった。なにしろ本当に一瞬のことだったのだ。
「……まるで手品だな」
「ご期待に添えなくて残念だけど手品じゃないわ。夢の中では、これが現実なのよ。あたしが手鏡の絵を描いてイメージして、そしてそれが実体化する。これも『夢使い』の力の一つ」
彼女は手鏡を覗き込んで、自分の前髪や耳にかかった長く黒い髪を整えながらそう言うと、今度はくるりと鏡面を俺の方へと向けて言った。
「これが第一歩。見える? 自分の顔」
確かに見える。驚いたままの表情で固まってしまっている、学生服を着た若い男の顔がそこには映っていた。
だが、自分の顔かどうかと問われると、若干自信がない。見覚えがあるかないかと言われれば、見覚えはあるとハッキリ言えるのだが……。
「やれやれ、重症ね……。うん、それでも第一歩目であることには変わりないわ。あなたがここに居着いてしまった理由、そして『あの子』が気になる理由。それを自分自身で洗い出せば、抜け落ちてしまった記憶も、あなた自身がどこの何者なのかも、きっとわかるわ」
彼女はそう言い切ったものの、俺はどうにも腑に落ちなかった。
確かに、俺がこのベンチに居続けている時間帯(そして気がついたら、またベンチに座っているのだが……)は、確かにあの子が下りホームに訪れて電車に乗るまでの時間帯だ。
そしてそれを延々と繰り返しているというのならば、おそらく、こいつが言うとおり『あの子』と俺の現状にはなんらかの関係があるのだろう。
だが、それを関連づけてしまうのは、あまりにも性急に過ぎないだろうか。
『あの子』は確かに俺の好みだ。守ってあげたくなるような感じもするし、その、なんだ、あの子を見ていると胸が締めつけられるような感じさえする。
だから、ずっと『あの子』を見ていたのだが……。
「ああもう、じれったいわねえ。あなた自分自身が何者なのか、どうしてここにいるのかわからないんでしょ? そしてどうしてここから動けないのかも。ここで何をしたかったのか何をすべきなのかもわからないんでしょ? それなのに『あの子』だけには強く関心を惹かれる……そしたらそんなの簡単じゃない『あの子』を知る以外に解決の糸口はないのよ。それでもまだグダグダ言うつもり? 一生ここ動けずに夢を見続けて、現の肉体を衰弱させていくだけでいいわけ?」
彼女は形のいい両の眉をきゅいっと吊り上げて、そう一気にまくし立てた。
それから今度は、そんな自分を落ち着かせるように、一呼吸をおくと言い聞かせるかのように、ゆっくりと語り出した。
「思い出してみて。あなたはこのベンチから駅を行く人々を見続けてきた。特に下り側ホームのあの子を。これは間違いないわね? そして気がつくとまた、同じ時間に同じ事をしている。その間の記憶はない……。そしてその前後の記憶もない。でもね、あの子の事以外にも憶えていることがあるんじゃないかしら。たとえば、たまたま覗き込んだ新聞の見出しとか、このあたしの存在とか、ね」
……言われてみれば確かにそうだ。この女には何度も出会っている。といっても今日ほど長く話したことはないが。最初はちらりとこっちを見ただけで、こっちも視線を感じて見返したという程度だったのだが、その後は視線があったり、今日の朝一番みたいに軽口を叩くような真似をしてきたりするようになったんだ。
それに駅の風景や電車の時間帯、新聞の見出しなんかのこともいくつかは憶えていた。
そうだ、こいつの言うとおりなのだとすれば、夢と現、記憶と現実の輪の中に囚われているにも関わらず「あの子」と「こいつ」だけは、いつだって記憶に残っている。
「それら全てがヒントなの。夢に顕れる暗示なのよ。あなたが目を覚ますのに必要な、ね。まぁあたしの場合は、勝手に介入してきたって部分もあるんだけれどね。でもあたしがあなたに気づき、あなたがあたしに気づかなければ、今日こうして話をしていることもなかったはずよ。それはわかるでしょう?」
それから、ふうと気を抜くような吐息を口から出すと、彼女は続けた。
「こんな能力を持ってはいるけど、あたしは現実主義者なの。でも敢えて言うわ。これらは全て必然なんだって。使いたくない言葉だけど、そうすべき運命なんだってね……。そうでなきゃこんな面倒くさいこと、あたしだってしたくないわよ」
そう言い終わると、彼女はベンチの背もたれに思い切り身体を預けて、蛍光灯が明滅する天井を見上げてから、今度は逆に身体を折りたたんで、全身の力が抜けたような大きな溜め息を吐くと、下から覗き込むように言った。印象的な眉毛の右側だけを、ゆるりと挙げて。
「――で、あなたはどうするの? どうしたいの?」
躊躇はなかった。説得されたとか言いくるめられたとか、そういうことではなく、それしか縋るものがなかったというものではなく、彼女の言葉の一つ一つが、すとんすとん、と俺の中に吸い込まれていったから……理由をつけるとしたら、そんな感じだろう。
「……そう、だよな。お前の言う通りにしてみるよ。俺にも他に方法とか思いつかねえし……」
俺がそう応えると、今度は左右の眉を水平よりちょっと上に、くっと挙げて目を細めると、
「ふんっ。そうやって最初っから素直に言うこと聞いてればいいのよ。全く男のクセにグダグダグダグダしてるんだから……」
そう言いながら彼女は再びメモ帳に何かを走り書きしはじめた。
一枚、二枚、三枚。
「よし、準備完了っと。じゃあまずは……」
彼女が一枚目のメモをくしゃりと握りしめると、今度はその両手には巨大な、それこそ巨大な、マンガやアニメでしか見たことがないようなハンマーが握られていた。黒光りする鎚の横腹には、ご丁寧に重量まで書いてある。
もしこれが書いてある通りの重量なのだとしたら、絶対に持ち上げることなんかできやしないだろう。なにしろ『1t』と書いてあるんだからな。
「別に危なくはないと思うけど、一応出来るだけ離れてなさい」
そう言いながら彼女はいとも簡単に超巨大ハンマーを振り上げると、俺が可能な限りベンチから離れたのを確認する余裕すら見せて、一気にそいつをベンチに振り下ろした。
どう考えたって普通の女子高生(?)の白く細い腕が、そんなものを振り回せるわけがない。よしんば振り回すことができたとしたって、そんなものでベンチが一撃のもとに、文字通り粉砕されるわけがない――。
そんな現実離れした光景が実際に目の前に繰り広げられたら、きっと誰もが口をあんぐりと開けた後、心を落ち着けようと努力しながら、こう思うだろう。
『ああ、これは夢なんだ』ってな。
おまけにハンマーで粉砕されたベンチは跡形もなく消え去っちまったんだぜ。夢か手品か、タチの悪いジョークショーかってところだ。
試しに歩いてみると、いつもならベンチから一メートルくらいしか動けずに、それ以上離れようとすると、まるでゴムで引っ張られるかのようにベンチに戻されていた現象が、嘘みたいになくなっている。
「ふう、これでとりあえずはOKね。ま、ベンチはあとできちんと直すとして……次はっと……」
そんなわけで、あんぐりと口を開けたままの俺を尻目に、超巨大ハンマーを放り投げると、二枚目のメモを取り出して下りホーム側に向かって投げ捨てた。
夢、なにしろ夢だからな。もうなんだってありなんだ。
線路上に投げ捨てられた二枚目のメモは次の瞬間、上りと下りのホームを水平一直線に結ぶ臨時通路になっていた。
「なにしてんの、彼女の学校、下り方面なんでしょ? 陸橋渡って行くの面倒くさいから、さっさと来て」
俺の顎と口は、最早「閉じる」という動作を忘れてしまったんじゃなかろうか。
言われるがままに『臨時通路』を渡って下りホームに辿り着くと、彼女は三枚目のメモを通路に放った。と、次の瞬間その通路は、まるで手品に使われるフラッシュペーパーのように一瞬にして燃え上がって消えてしまった。
いよいよ手品や奇術の類にしか思えなくなってきたが、やはり夢なんだから、なんでもありってことなんだろう。そう考えて受け止めるぐらいしか、今の俺にはできなくなっていた。
「えーと、今の時間はっと……うん、一〜二時間ってとこね」
「すまんが、あまりにも立て続けに色々なことが起こり過ぎて、混乱しているんだが」
「まぁそれでいいんじゃない? 別に無理に理解することはないの。『これは夢なんだ』って思えば大抵のことはスルーできるでしょ?」
この女は一体俺をどうさせたいんだろうか――そんな基本的な疑問に立ち返らなくてはいけないほど、俺は衝撃と疑問と混乱とが三竦みになって、すっかり思考停止してしまっていた。
◇ ◆ ◇
「ねぇ、大体でいいんだけど、彼女がホームに来てから見送るまでどれくらいの時間、あの子のこと見てたの?」
急な質問に思わず考え込んでしまったが、大体一時間ぐらいだと告げると、彼女は得心したように、
「うん、やっぱり一時間……いや、一時間半くらいってとこかな」
と言いながら、メモ帳にまた何かを描きあげると、メモ帳からそのページを引きちぎり、俺の目を下から覗き込むようにして、真剣な顔をして続けた。
「少し難しい話をするわ。理解しなくてもいいから、頭に入れておいて頂戴。人間の睡眠にはどんな状態であっても周期があるの。そして夢使いといえども、その周期をコントロールすることはできないわ。そしてその周期によって夢使いの力も変動するの。そしてその周期は三時間単位。今朝はたまたまなのか……必然なのか、あたしの力が強く使える周期と、あなたの周期とが重なっているから、ここまでのことが出来るの」
彼女の真剣な眼差しと口調に、俺も神妙に肯く。
「でも、その周期を外れてしまったら、全てはおしまい。あなたはまた夢現の輪の中へ戻されて、いつものように夢の中のあなたの記憶はリセットされるわ。カケラくらいは残るかもしれないけれど……。で、あたしはあなたに話しかけることくらいしかできなくなるでしょうね。つまり、また次に周期が重なるときまで、なにもできなくなるってこと。よくそれを覚えておいてね」
「今の時間ってのはかなり貴重なタイミングなんだってことはよくわかった。でも、その周期とやらが、次に重なることがあるのなら、今回失敗しても次があるんじゃないのか?」
「楽観的過ぎるし、自分本位過ぎる考え方ね。今日はたまたま周期が合ったし、あたしの気が向いたから、ここまでしているだけのことなのよ。それにあなたが記憶をリセットされ続けているだけで、あたしの方はあなたに、この説明をこれまでも何度かしているのよ」
全く驚きだった。ここまで十数分程は話し込んでいるはずだが「今の俺」には全て初耳なことばかりだった。記憶がリセットされるというのは、こういうことなのか……。
俺が愕然としている間に彼女は自分の腕時計を確認しながら言った。
「今は『夢』に比重をおいているから時間の流れが少し違うのだけれど、『現』の時間でいうと、今は午前十時四十五……今、四十六分になったわ。あたしがあなたの『夢』で力を強く行使できるのは、あなたが『あの子』を見ていた一時間を周期である三時間から引いた時間だけなの」
「すると二時間はまだ何でもありってことか?」
「そうね。さっきから話している間で十分か十五分はロスしているけど、やっぱり一時間半くらいかしら。それでも余裕をみて九十九分以上はまだあるわね。その間に、あなたはあなたのできることをして、あなた自身が何者なのか、抜け落ちてしまっている記憶のヒントだけでもいいから探さなくちゃいけない。いいわね?」
「……参考までに聞かせてもらいたいんだが、その時間を過ぎるとどうなる?」
「別に。強制的にここに戻ってくるだけね。そして何も掴んで来ることができなかったとしたら……ついでに『朝』に戻るわ。あなたは今日の『今』までの記憶をリセットされてね。夢現の輪に囚われているっていうのは、そういうことなの。そして最初からやり直し……ができればいいんだけどね」
「できないのか?」
俺は深刻な眼差しで彼女の瞳を見返した。
「できないことはないだろうけど、次の周期がいつになるかわからないし、またイチからあなたを説得してどうこうっていうのは、正直面倒くさいからやりたくないわ。そもそも勘違いして欲しくないんだけど、あたしたち「夢使い」は別にボランティアで通りすがりの『夢現の住人』の手助けをしているわけじゃないんだからね。ちゃんと現実の世界にも自分の生活があるし、あなたみたいな存在に、そうそういつまでも関わっていられないわけ」
随分辛辣な言い方ではあるが、今日という日が、彼女の言う『夢現の輪』から抜け出せるチャンスならば、できる限りのことをすべきなんだろう。
俺はそう思って、ゆっくりと肯いた。
「OK? じゃ、左手出して」
言われるがままに左手を出すと、彼女は先ほど何かを描いていたメモを握りつぶしてから、妙に古臭いというか、骨董品屋のガラクタ箱の片隅から引っ張り出したような、見たこともないデザインの腕時計(?)を取りだして、俺の左手首に巻き付けた。
文字盤のあるべきところには漢数字で「九十九」とあり、その周りを秒針が回っている。秒針の回転に合わせて一桁目の「九」が「八」へと変わろうとしているところから察するに、時計というよりはタイマーといったところだろうか。
「今、あなたが身につけた瞬間からカウントダウンは始まっているわ。一応余裕はあるはずだけど、できればここが零になる前に、自分自身を取り戻す何かを掴んで戻ってらっしゃい。それとこれ」
そう言って渡されたのは五枚目のメモ用紙だった。
「零になる前に、戻って来たくなったら使うための札よ。使い方は簡単、あのベンチ……って、今は粉砕しちゃったけど。あのベンチをよく思いうかべて、それを手に握りしめて一言唱えればいいの『我を彼の地へ』ってね」
「便利なもんだな」
俺は驚きに若干の皮肉というスパイスを隠し味に加えながら言った。まぁ夢ならなんでもありなんだろうが、ここまでくるとさすがに苦笑の一つもしたくなる。
「そ、夢だからね。でも行き道はそうはいかないわよ。だってあたし『あの子』がどこの学校に通っているのか知らないもの」
「確か二つか三つ先の駅近くの女子高だったと思うんだが……」
「そう、それならまぁなんとかなるわね。でもクラスとかわかるの? 現の世界での時間なら、向こうは確実に授業中よ?」
そう言われりゃその通りだ。白昼堂々女子校に学生服の男が侵入するのは、明らかに不審だし、そもそも入れるかどうかもわからない。警備員がいるだろうしな。
「ああ、そういうことじゃなくて、探している時間があるかってこと。現の世界では、あなたの姿は誰からも見えないわ。あたしみたいな夢使いか、その素質のある人でもいない限りはね」
思考を先読みされたようで面食らったが、それなら安心だ。彼女を信用するなら、だがね。
抜け落ちる前の記憶が確かなら、そんなマンモス校ってわけでもなさそうだし、予想通り一年生なのだとしたら、あっても一学年数クラス分を探すだけで見つけられるだろう。
それに……他の生徒達に紛れていても一目でわかるはずだ。他の誰かと見間違えることはない。それだけは自信があった。
「ロマンチックな賭けにでるのもいいけど、カウントダウンを忘れないでね。こんな面倒なこと、本当に二度としたくないんだから」
また思考の先読みだ。耳まで赤くなるような恥ずかしさに口をぱくぱくとさせて、なにか反論しようと思ったものの、彼女は再びメモ帳に向かって何かを描いているようで、全くこちらを気にしていない。ちっ、放置プレイかよ。
やがて描き終えたのか、千切ったメモ用紙を線路に投げ込んでから両掌をパンと叩き合わせると、唐突に周囲の風景が様々な色を取り戻し、そして場内アナウンスが流れた。
『間もなく、二番線に武蔵徳山行き下り電車が参ります――』
そして間もなく下り電車がホームに滑り込んできて、電動油圧式の扉を俺の目の前で開けた。
ここから先は後戻りなんかできない――さぁ『覚悟』を決めようぜ、俺。
「さ、行きなさい。降りる駅を間違えるとタイムロスになるから気をつけてね。それじゃ九十九分後か……それより前に、また会いましょ」
そんな言葉を聞き終えるか終えないかの内に扉は閉まり、俺の人生を賭けた無賃乗車は、大型の草食動物が唸るような低いモーター音を響かせながら、ゆっくりと動き始めた。
俺と、俺自身の『覚悟』を乗せて。
タイムリミットまで、あと九十六分十三秒――。
◇ ◆ ◇
車内はごく普通の見慣れた……というか、記憶のどこかで見覚えのあるものだった。
そりゃそうだ。同じ鉄道会社で上りと下りで内装が全然違っていたら笑ってしまう。一体どんな差別だよってな。
ここはあいつの言う『夢』と『現』の比率で言うならば、『現』側なのだろう。他にも何人かの乗客がいる。だが、彼らには俺の姿は見えていないのだろう。
いや、都会(というほど都会でもないことは言うまでもないローカル線なんだけどな)特有の無関心というヤツなのかもしれない。見えていても気づかないフリをしているとか、寝たふりをしているとかな。
試しに、優先席でウタタ寝をしていやがる営業廻り中と思しき不埒なサラリーマンの膝小僧でも蹴飛ばしてみようかと思ったが、熟考の末にやめておくことにした。
よしんば俺の蹴りがスカっと通り抜けたのならそれはそれでOK。そして当たりはしたものの俺の姿が見えないならば半分OKだが、当たった上に姿まで見られたらケンカを売られるのは確実だからな、リスクが大き過ぎる。
そういうわけで、俺は彼女に言われた『周りの人からは見えないはずよ』という言葉に半信半疑の気持ちを持ったまま、ごく普通の乗客として振る舞うことにした。無賃乗車だがね。
一駅を通り過ぎ、二駅目が近づいたとき、俺は車内アナウンスに耳を澄ませた。
『次は桜富士前、次は桜富士前でございます』
駅名には確かに聞き覚えがあったが、車内アナウンスでは近くにどんな施設があるかまでは紹介してくれない。バスならば聞きたくもないスポンサーのアナウンスも流れるんだがな。
ゆっくりと減速しつつホームに滑り込む車窓から、俺は目を凝らして案内板を見ようとした。
どの方面の出口から出れば、どこの施設のある方面に出られるというくらいの表示はあるだろうと思ったからだ。
しかし、残念ながら高校名が書かれた表示は見つけることができなかった。
一応ホームにも降りてみて、数秒間を捜索に費やしたのだが、俺の視力が落ちているか、とんでもない見落としをしていない限り、目標物にその文字は見つけられず空振りに終わったので、俺は大急ぎで車内へと戻った。
ならば残る可能性は次の駅だ。俺の抜け落ちまくった記憶の中でも『二つか三つ先の駅の女子高』という部分には不思議と自信があった。
左腕のタイマーを見ると、既に残りは八十三分四十六秒となっていた。
電車の中じゃどうしたって急ぎようもないが、急がなくてはと気持ちは急くばかりだ。
目的地により近い降り口は進行方向側なのか、それとも逆方向側なのかも駅に着いてみなければ判断がつかない。
どうにも所在なくなった俺は、ちょうど中央の車両のドア前に移動し、気持ちだけはスタート前のスプリンター状態で佇んで、列車が駅に着くのをジリジリしながら待った。
やがて列車は次第に減速し、次の駅名をアナウンスする。どこかで聞き覚えのあるような駅名、そしてどういうわけか見覚えがあるような風景が車窓の後方に流れていく。
――間違いない。この駅で間違いないはずだ。
動体視力を駆使して、まだ停まりきらない車内から施設案内の掲示板を睨め付け……あった。
『西側出口 本城寺学園女子高等学校』
確かに、間違いない。
(よし……)。
俺は気分だけではなく身体もスプリンターモードに切り替え、扉が開くのを待った。西側出口はホームを左方向だ。
残り時間は七十八分と少し。七ゾロ目でダッシュスタートとは縁起もいいじゃないか。
いや、全く関係ないことはわかっているのだが、そんなものにでも縋ってゲンを担ぎたいような気分だったのだ。今の俺は増援や応援もないまま孤軍奮闘するに等しい状態だからな。
俺は扉が完全に開き終える油圧音を聞き終わるよりも速く、ドアの隙間から車両を飛び出すと、西側出口目がけて一気に駆け出した。
会うんだ。
『あの子』に。
会えるんだ。
『あの子』に。
取り戻すんだ、抜け落ちてしまった自分の記憶を。
そして戻るんだ。現の世界へ――。
息を荒げながら改札に辿り着くと、俺ははたと疑問にぶち当たってしまった。
あの女が言うには、今の俺は『他の人からは見えない存在』だという。だが電車に乗れたと言うことは物質には触ることができるわけで(実際手すりに掴まることもできた)……無賃乗車をクリアするには強敵が一つ待っていた。
ヤツの名は自動改札。
コイツをクリアするにはアクション映画なみに助走をつけ、片手をついて飛び越えるか、誰か他の人が通る後ろをピタリとついて通り抜けるかの二択ってことになるのだろう。
圧倒的にカッコよく、そして時間短縮もできるのは前者だが、ヘタにどこかに引っかかろうモノなら警報ブザーが鳴ったりしかねないのではないだろうか。
だが、この時間帯のローカル線の下りは利用者も少なく、ダッシュで駆けてきてしまったために、今、改札前には俺一人だ。そして時間は少しでも無駄にしたくない。
結局、俺は意を決すると、助走をつけて自動改札本体に手をついて、バーの上を飛び越した。
「やべー今の俺ちょっとかっこよくね?」なんて心の中で少し思ったりもしたが、やっていることが無賃乗車ってのが情けない。まぁそこはすぐに忘れることにしたけどな。
タイムリミットまで、あと七十五分〇三秒――。
◇ ◆ ◇
学校はすぐに見つかった。駅を出て左に続く緩やかな坂。その上には、やはりどこかで見覚えのある茶色い校舎があった。
あそこだ。俺は再び駆け足で緩やかな坂道を駆け上りはじめた。左右に広がる風景にもやはりどこか覚えがある。多分、俺はここに来たことがあるんだ。
でもいつ? なんで学生服を着ている男である俺が女子高に? そこまではさすがにまだ思い出すことはできなかった。
校門前に辿り着くと警備員らしきおっさんが立ってはいるが、校門横の通用口は開いていた。
俺は(おそらく)気配を消す必要もないのに、そーっとそこを通り抜けると、本城寺学園女子高等学校内の敷地へと足を踏み入れることに成功した。
校門から続くポプラ並木。ここにも見覚えがあった。何故か妙に胸が躍るような、それでいて締めつけられるような、相反した感覚が胸中に甦る。
その感覚は一歩一歩と歩みを進めるたびに強まるようだった。
俺は一体ここでなにをしたんだろう? それとも『女子高』という禁断の園に足を踏み入れたことに、昂揚したり不安になったりしているのだろうか。
わからない。全くわからない。
だが、一つだけわかることがあった。
それは、ここには確実に『あの子』がいて、俺は『あの子』に会うことで、現状を抜け出す糸口を掴むことができるという『確信』が強くなっているということだった。
掲示板などが立ち並ぶ校舎前のエントランスに辿り着くと、先ほどの相反した奇妙な感覚はピークに達した。そしてどういうわけか安堵感と喜びに似たような感覚に取って代わる。
『――ったな! ――でと――! これで――やくそ――』
フラッシュバックの様に耳の奥の、さらに奥に小さく響いたのは自分の声だった。
合わせて何人もの女子のざわめきが重なる。一体これはなんなんだろう。これから一つ一つ手がかりを拾う度に、こんな感覚が重なっていくのだろうか。
少し不安にはなったものの、俺は意を新たにして校舎内へと足を踏み入れた。
清潔に保たれ、ワックスがかけられたリノリウムの床を土足で駆け回るというのは、若干気が咎めないでもなかったが、どうやら足跡が着くようなこともなければ足音がすることもないようだとわかると、俺はさっそく『あの子』の教室を探そうと、生徒玄関周辺を歩き始めた。
だが、デパートじゃあるまいに、ご丁寧に各階の案内板があるわけもない。
そんな当たり前のことに気づかないあたり、相当気が急いているのだな、と、改めて左腕のタイマーを見ると、残り時間は六十八分ちょうどになるところだった。急がなくてはならない。
――考えろ。普通の高校ならば、一年生の教室は最上階にあるはずだ。多分。少なくとも俺の記憶ではそうだ。この学校が特別でもない限り間違いはないだろう。
いずれにせよ、一番上からしらみ潰しに探していけばなんとかなるはずだ。
そう考えた俺は、中央階段と思しき階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
一階踊り場には大きな鏡がおいてある、二階、教室が居並び生徒の声は聞こえない。教室の扉の上には『2―A』と書かれている。ここは二年生の教室階という解釈で間違いなさそうだ。
二階踊り場、さまざまな部活やら委員会かなんかの勧誘ポスターが生徒会許可の印章付きで奇妙なまでにきっちり整理されて貼られていた。他に気になるものはない。
そして三階。外から見たときに最上階だと思っていた場所に、俺はようやく辿り着いた。
一気に駆け上がって来た割りには、不思議と激しい息切れはなかった。どうやら俺はそこそこ運動ができるヤツだったようだ。それとも、これも夢だからなのだろうか?
しかしここまでの間に、あのポプラ並木やエントランス前で感じたような感覚は皆無だった。ただひたすらに見知らぬ校舎を駆け回っている。そのまんま、そんな感じしかしない。
中央階段から見るに、三階の一般教室は六つのようだ。廊下側の窓はありがたいごとに磨りガラスでもなんでもなく、教室内を覗き込める。扉上の表示は『1―A』。BINGOだ。
が、一番最初の教室にはどうも彼女の姿はないようだった。
二番目の教室、ここにもいない。
三番目の教室はちょっと様子が違った。生徒も教師も誰もいないのだ。
ガランとした教室を覗き込んでみると、黒板に丸っこい文字で『C・D合同体育! グラウンドにて』と書いてある。
念のため『1―D』と書かれた四番目の教室を覗き込んでみたのだが、こっちも同じような状況だった。つまりここの二つのクラスは現在グラウンドにいるということなのだろう。
なんとなく「いないだろうな」という予感を感じながら、五番目と六番目の教室も一応覗いてみたのだが、やはり『あの子』はいなかった。
となると答えは簡単だ。
『あの子』はC組かD組で、現在は体育の授業中ってことなんだろう。D組の半端に開いていた扉を音を立てないようにそっと開けて中に入ってみる。
いや、別に置き引きをしようだとか、無人の女子高生の教室というシチュエイションを利用して変態的犯罪行為をしようとかそういうわけではなく、教室からグラウンドが見えないものかと考えたのだ。
窓際の席に近づき、窓から外を見る。二色のジャージがグラウンドで動き回っているのが見えたが、さすがにこの距離からでは、どれが『あの子』かまではわからない。
やはり行くしかないか。いや、最初からそのつもりだったのだが。
出がけに黒板上の時計を見上げると、長針と短針は十一時三十五分前後を示していた。そして俺の左腕のタイマーは残り五十三分四十五秒。
『あの子』を探す余裕は十分にあるだろうが、全てを知り、記憶を取り戻すことができるのかは、まだまだわからない。
顔を見るだけで全てを思い出すことが出来るなら、今朝でもできたはずだ。
すっぽりと抜け落ちてしまっている俺の何か。そして俺の全て。それを取り戻すのに、いやヒントだけでも手に入れるのに、この時間は短いのだろうか、それとも長いのだろうか。
ただただ不安にかき立てられて、俺は校舎を飛び出した。
タイムリミットまで、あと五十二分十一秒――。
◇ ◆ ◇
女子更衣室。
それは禁断の花園だ。しかも女子高の女子更衣室ともなれば、秘中の秘。禁断の花園中の禁断の花園だ。
無論のこと男子禁制であり、覗きたい気持ちはあれども、二つの理由で覗いてはいけないという場所でもある。
一つは社会道徳的なものであり、一つは女の本性を見るのが怖いという男性特有の気持ちからくるものであることは、今更言うまでもないだろう。
で、今の俺はというと、その扉の前にしゃがみ込んで聞き耳を立てるという、なんとも不格好というか情けないというか、そんな姿勢で、中から聞き漏れてくる会話をなんとか拾おうとしていた。
「ったくさー。メシ前にバレーとかやってらんないよねー」
「ホントだよー。部活の連中とかマジになり過ぎだっての。ヒザ擦りむいちゃってソンガイバイショー請求しちゃおっかなー」
そんなやりとりの後に、派手でけたたましい笑い声がかぶる。
女の園の実態は大声で無遠慮だという人生の真理を一つ知った気分だったが、そんなことは今はどうでもよかった。
体育の授業に出ているはずの『あの子』を探しにグラウンドに出た俺だったが、見つけることはできたものの、彼女の名前を知ることはできなかったのだ。これには面食らった。
さすがは私立高校といったとこだろうか。彼女らが着ていたジャージは、中学やそこいらの公立とはワケが違った。
遠くからでも判別できるような、クラスとネーム入りのゼッケンを貼り付けたものなどではなく、胸元にネーム刺繍が施してあるものだったのだ。
あれではかなり近距離まで接近しなければ読み取ることができない。姿が見えないとはいえ、ボールや人が飛び交うバレーボールの授業中に特攻をかける気には、さすがになれなかった。
それでも一応、彼女の名字だけは、おおよそ知ることができた。
「コーサカ! サクマ! コート入れ!」
と、ガタイだけでなく声まで野太い体育教師が指示を出したときに先に立ち上がったのが『あの子』だったのだ。
だから恐らく八割から九割の確率で彼女の姓は『コーサカ』で間違いないはずだ。
そしてそれは、コーサカという名前と彼女の顔が、俺の脳内で一致したときに沸き上がってきた感覚、朝下り側ホームのベンチに座る彼女を見ているときの思いを数十倍に濃縮したような感覚が証明してくれた。
コーサカ、コーサカ。どんな字なのか、そして下の名前がなんなのか。
それがわかれば、また一つ俺はヒントを掴むことができるのだろうという、ほぼ確信に近い思いを沸き上がらせて、俺は今、この女子更衣室前にいるのだった。
誰かが彼女と話をすれば、もしくは彼女の話をすれば、他にもヒントが拾えるかもしれない。そんなわけで、扉の下に着けられた換気口の横格子越しに耳をそばだてているのだ。
「昼飯どーするー?」
「あたしめんどくさいから着替えたらそのまま学食行くわー」
「サクマはー?」
「あたしもそーするー。今日A定トンカツだっけ? まーた体重増えんなー」
「じゃあ、あたしも弁当持ってそっち行くわー。席確保よろしくねー」
「コーサカはどうすんの?」
「……あ、あたしは……」
これが彼女の声だ。ドア越しなのでで、くぐもって聞こえてはいるが、それでも聞き間違いようのない声。どういうわけか懐かしささえ感じる声だ。
「バッカ! コーサカはいつものとこに決まってんじゃん!」
「そ、そっか、ごめんコーサカ。あたしそゆとこまだ気がまわんなくってさ……」
「ううん、気にしないで。あたしこそ、付き合い悪くってごめんね……」
「もう二週間だっけ……カレシ」
「うん……」
「今日は晴れてるしさ、屋上も開放されてるし、きっといつもより届くよ……早くよくなるといいね……」
「うん……ありがとう……」
「ちょっ……! 泣かないでよコーサカぁ!」
「ごめ、ごめん……」
しばらくの間、重苦しくなるような沈黙が換気口から漏れてきた。
カレシ? 二週間? 早くよくなるといいね? 一体どういうことだろう。
『あの子』、コーサカにはカレシ、つまり恋人がいるってことなんだろうか。
そしてそのカレシとやらは病かなんかに倒れているのだろうか。で、そのために友人達と昼食を共にしない? 一体どういうことなんだろう。
そしてそんな会話を聞いた俺もなにかがおかしかった。
「気になる好みの子」、それが最初に彼女に抱いた感情だったし、彼女を見続けるキッカケになったはずだった。
それは言い換えれば恋慕にも似た想いであったことは否定しない。むしろ、その想いはこうして動き始めてから今に至るまでの間、彼女の姿をグラウンドで見つけたときにも高まる一方だった。
にも関わらず。にも関わらずだ。その相手にカレシがいるという情報を得ても、俺は全く傷ついていないのだ。普通ならショックを受けたり、諦めにも似た感情でガックリとなるべきところなんだろうが、全くそういった感情が沸かない。
それどころか、胸が締めつけられるような途方もない切なさと、申し訳ないというような、罪の意識や焦燥感。そんな感情ばかりが溢れかえって、俺はいてもたってもいられなくなり、ドアの前から身体を起き上がらせると、自分の制服の胸を掴んで廊下の壁にもたれかかった。
胸が苦しい。苦しくてどうしようもなかった。これもまたヒントなのだろうか。
だが、いずれにせよまだ動かなくてはならない。
『あの子』、コーサカは一旦教室に帰って持参した弁当を持って屋上に行くらしい。ならば先回りして教室に戻っておくのがベストだろう。
姿が見えなくなっているとはいえ、中の誰かが扉を開けた瞬間に女子更衣室を見てしまうようなことは避けたいし、今はとてもじゃないがそんな心境じゃなかった。
俺は四時間目終了のチャイムを聞きながら、更衣室前を後にした。
タイムリミットまで、あと二十九分四十二秒――。
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
<前回まで>
だが、猜疑心と好奇心と期待感を綯い交ぜにした感情が、俺の中に二次発酵中のパン生地のように膨れあがってきて、俺はまた余計なことを言った。
「なんでもできる、なんでもできるんだよな?」
「そうね。例えば……」
そう言うと彼女は通学鞄にしては妙に洒脱な黒い革バッグから一冊のメモ帳を取り出すと、手際よく空きページを開いて、そこにボールペンで何かを描きだした。
描いていたものが仕上がったのか、満足げに肯くと、今度はそのページをメモ帳から引きちぎって、くしゃり、と握りしめる。
と、次の瞬間、唐突に、まさに唐突に、彼女の手には妙にアンティークじみた装飾が施された手鏡が握られていた。まるで中世の欧州貴族の令嬢あたりか、西洋おとぎ話のお姫様が使うような、そんな感じのデザインのものだ。
そんなものが、絵本やキッズアニメのそれのように『ボン!』と煙が出て、それが晴れたら出てきた――というわけでも、目くらましのような強烈な光の中から出てきたわけでもなく、ただただ、唐突に現れた。
思わずタネやシカケを探そうと目を見開いたが、明らかに徒労だった。なにしろ本当に一瞬のことだったのだ。
「……まるで手品だな」
「ご期待に添えなくて残念だけど手品じゃないわ。夢の中では、これが現実なのよ。あたしが手鏡の絵を描いてイメージして、そしてそれが実体化する。これも『夢使い』の力の一つ」
彼女は手鏡を覗き込んで、自分の前髪や耳にかかった長く黒い髪を整えながらそう言うと、今度はくるりと鏡面を俺の方へと向けて言った。
「これが第一歩。見える? 自分の顔」
確かに見える。驚いたままの表情で固まってしまっている、学生服を着た若い男の顔がそこには映っていた。
だが、自分の顔かどうかと問われると、若干自信がない。見覚えがあるかないかと言われれば、見覚えはあるとハッキリ言えるのだが……。
「やれやれ、重症ね……。うん、それでも第一歩目であることには変わりないわ。あなたがここに居着いてしまった理由、そして『あの子』が気になる理由。それを自分自身で洗い出せば、抜け落ちてしまった記憶も、あなた自身がどこの何者なのかも、きっとわかるわ」
彼女はそう言い切ったものの、俺はどうにも腑に落ちなかった。
確かに、俺がこのベンチに居続けている時間帯(そして気がついたら、またベンチに座っているのだが……)は、確かにあの子が下りホームに訪れて電車に乗るまでの時間帯だ。
そしてそれを延々と繰り返しているというのならば、おそらく、こいつが言うとおり『あの子』と俺の現状にはなんらかの関係があるのだろう。
だが、それを関連づけてしまうのは、あまりにも性急に過ぎないだろうか。
『あの子』は確かに俺の好みだ。守ってあげたくなるような感じもするし、その、なんだ、あの子を見ていると胸が締めつけられるような感じさえする。
だから、ずっと『あの子』を見ていたのだが……。
「ああもう、じれったいわねえ。あなた自分自身が何者なのか、どうしてここにいるのかわからないんでしょ? そしてどうしてここから動けないのかも。ここで何をしたかったのか何をすべきなのかもわからないんでしょ? それなのに『あの子』だけには強く関心を惹かれる……そしたらそんなの簡単じゃない『あの子』を知る以外に解決の糸口はないのよ。それでもまだグダグダ言うつもり? 一生ここ動けずに夢を見続けて、現の肉体を衰弱させていくだけでいいわけ?」
彼女は形のいい両の眉をきゅいっと吊り上げて、そう一気にまくし立てた。
それから今度は、そんな自分を落ち着かせるように、一呼吸をおくと言い聞かせるかのように、ゆっくりと語り出した。
「思い出してみて。あなたはこのベンチから駅を行く人々を見続けてきた。特に下り側ホームのあの子を。これは間違いないわね? そして気がつくとまた、同じ時間に同じ事をしている。その間の記憶はない……。そしてその前後の記憶もない。でもね、あの子の事以外にも憶えていることがあるんじゃないかしら。たとえば、たまたま覗き込んだ新聞の見出しとか、このあたしの存在とか、ね」
……言われてみれば確かにそうだ。この女には何度も出会っている。といっても今日ほど長く話したことはないが。最初はちらりとこっちを見ただけで、こっちも視線を感じて見返したという程度だったのだが、その後は視線があったり、今日の朝一番みたいに軽口を叩くような真似をしてきたりするようになったんだ。
それに駅の風景や電車の時間帯、新聞の見出しなんかのこともいくつかは憶えていた。
そうだ、こいつの言うとおりなのだとすれば、夢と現、記憶と現実の輪の中に囚われているにも関わらず「あの子」と「こいつ」だけは、いつだって記憶に残っている。
「それら全てがヒントなの。夢に顕れる暗示なのよ。あなたが目を覚ますのに必要な、ね。まぁあたしの場合は、勝手に介入してきたって部分もあるんだけれどね。でもあたしがあなたに気づき、あなたがあたしに気づかなければ、今日こうして話をしていることもなかったはずよ。それはわかるでしょう?」
それから、ふうと気を抜くような吐息を口から出すと、彼女は続けた。
「こんな能力を持ってはいるけど、あたしは現実主義者なの。でも敢えて言うわ。これらは全て必然なんだって。使いたくない言葉だけど、そうすべき運命なんだってね……。そうでなきゃこんな面倒くさいこと、あたしだってしたくないわよ」
そう言い終わると、彼女はベンチの背もたれに思い切り身体を預けて、蛍光灯が明滅する天井を見上げてから、今度は逆に身体を折りたたんで、全身の力が抜けたような大きな溜め息を吐くと、下から覗き込むように言った。印象的な眉毛の右側だけを、ゆるりと挙げて。
「――で、あなたはどうするの? どうしたいの?」
躊躇はなかった。説得されたとか言いくるめられたとか、そういうことではなく、それしか縋るものがなかったというものではなく、彼女の言葉の一つ一つが、すとんすとん、と俺の中に吸い込まれていったから……理由をつけるとしたら、そんな感じだろう。
「……そう、だよな。お前の言う通りにしてみるよ。俺にも他に方法とか思いつかねえし……」
俺がそう応えると、今度は左右の眉を水平よりちょっと上に、くっと挙げて目を細めると、
「ふんっ。そうやって最初っから素直に言うこと聞いてればいいのよ。全く男のクセにグダグダグダグダしてるんだから……」
そう言いながら彼女は再びメモ帳に何かを走り書きしはじめた。
一枚、二枚、三枚。
「よし、準備完了っと。じゃあまずは……」
彼女が一枚目のメモをくしゃりと握りしめると、今度はその両手には巨大な、それこそ巨大な、マンガやアニメでしか見たことがないようなハンマーが握られていた。黒光りする鎚の横腹には、ご丁寧に重量まで書いてある。
もしこれが書いてある通りの重量なのだとしたら、絶対に持ち上げることなんかできやしないだろう。なにしろ『1t』と書いてあるんだからな。
「別に危なくはないと思うけど、一応出来るだけ離れてなさい」
そう言いながら彼女はいとも簡単に超巨大ハンマーを振り上げると、俺が可能な限りベンチから離れたのを確認する余裕すら見せて、一気にそいつをベンチに振り下ろした。
どう考えたって普通の女子高生(?)の白く細い腕が、そんなものを振り回せるわけがない。よしんば振り回すことができたとしたって、そんなものでベンチが一撃のもとに、文字通り粉砕されるわけがない――。
そんな現実離れした光景が実際に目の前に繰り広げられたら、きっと誰もが口をあんぐりと開けた後、心を落ち着けようと努力しながら、こう思うだろう。
『ああ、これは夢なんだ』ってな。
おまけにハンマーで粉砕されたベンチは跡形もなく消え去っちまったんだぜ。夢か手品か、タチの悪いジョークショーかってところだ。
試しに歩いてみると、いつもならベンチから一メートルくらいしか動けずに、それ以上離れようとすると、まるでゴムで引っ張られるかのようにベンチに戻されていた現象が、嘘みたいになくなっている。
「ふう、これでとりあえずはOKね。ま、ベンチはあとできちんと直すとして……次はっと……」
そんなわけで、あんぐりと口を開けたままの俺を尻目に、超巨大ハンマーを放り投げると、二枚目のメモを取り出して下りホーム側に向かって投げ捨てた。
夢、なにしろ夢だからな。もうなんだってありなんだ。
線路上に投げ捨てられた二枚目のメモは次の瞬間、上りと下りのホームを水平一直線に結ぶ臨時通路になっていた。
「なにしてんの、彼女の学校、下り方面なんでしょ? 陸橋渡って行くの面倒くさいから、さっさと来て」
俺の顎と口は、最早「閉じる」という動作を忘れてしまったんじゃなかろうか。
言われるがままに『臨時通路』を渡って下りホームに辿り着くと、彼女は三枚目のメモを通路に放った。と、次の瞬間その通路は、まるで手品に使われるフラッシュペーパーのように一瞬にして燃え上がって消えてしまった。
いよいよ手品や奇術の類にしか思えなくなってきたが、やはり夢なんだから、なんでもありってことなんだろう。そう考えて受け止めるぐらいしか、今の俺にはできなくなっていた。
「えーと、今の時間はっと……うん、一〜二時間ってとこね」
「すまんが、あまりにも立て続けに色々なことが起こり過ぎて、混乱しているんだが」
「まぁそれでいいんじゃない? 別に無理に理解することはないの。『これは夢なんだ』って思えば大抵のことはスルーできるでしょ?」
この女は一体俺をどうさせたいんだろうか――そんな基本的な疑問に立ち返らなくてはいけないほど、俺は衝撃と疑問と混乱とが三竦みになって、すっかり思考停止してしまっていた。
◇ ◆ ◇
「ねぇ、大体でいいんだけど、彼女がホームに来てから見送るまでどれくらいの時間、あの子のこと見てたの?」
急な質問に思わず考え込んでしまったが、大体一時間ぐらいだと告げると、彼女は得心したように、
「うん、やっぱり一時間……いや、一時間半くらいってとこかな」
と言いながら、メモ帳にまた何かを描きあげると、メモ帳からそのページを引きちぎり、俺の目を下から覗き込むようにして、真剣な顔をして続けた。
「少し難しい話をするわ。理解しなくてもいいから、頭に入れておいて頂戴。人間の睡眠にはどんな状態であっても周期があるの。そして夢使いといえども、その周期をコントロールすることはできないわ。そしてその周期によって夢使いの力も変動するの。そしてその周期は三時間単位。今朝はたまたまなのか……必然なのか、あたしの力が強く使える周期と、あなたの周期とが重なっているから、ここまでのことが出来るの」
彼女の真剣な眼差しと口調に、俺も神妙に肯く。
「でも、その周期を外れてしまったら、全てはおしまい。あなたはまた夢現の輪の中へ戻されて、いつものように夢の中のあなたの記憶はリセットされるわ。カケラくらいは残るかもしれないけれど……。で、あたしはあなたに話しかけることくらいしかできなくなるでしょうね。つまり、また次に周期が重なるときまで、なにもできなくなるってこと。よくそれを覚えておいてね」
「今の時間ってのはかなり貴重なタイミングなんだってことはよくわかった。でも、その周期とやらが、次に重なることがあるのなら、今回失敗しても次があるんじゃないのか?」
「楽観的過ぎるし、自分本位過ぎる考え方ね。今日はたまたま周期が合ったし、あたしの気が向いたから、ここまでしているだけのことなのよ。それにあなたが記憶をリセットされ続けているだけで、あたしの方はあなたに、この説明をこれまでも何度かしているのよ」
全く驚きだった。ここまで十数分程は話し込んでいるはずだが「今の俺」には全て初耳なことばかりだった。記憶がリセットされるというのは、こういうことなのか……。
俺が愕然としている間に彼女は自分の腕時計を確認しながら言った。
「今は『夢』に比重をおいているから時間の流れが少し違うのだけれど、『現』の時間でいうと、今は午前十時四十五……今、四十六分になったわ。あたしがあなたの『夢』で力を強く行使できるのは、あなたが『あの子』を見ていた一時間を周期である三時間から引いた時間だけなの」
「すると二時間はまだ何でもありってことか?」
「そうね。さっきから話している間で十分か十五分はロスしているけど、やっぱり一時間半くらいかしら。それでも余裕をみて九十九分以上はまだあるわね。その間に、あなたはあなたのできることをして、あなた自身が何者なのか、抜け落ちてしまっている記憶のヒントだけでもいいから探さなくちゃいけない。いいわね?」
「……参考までに聞かせてもらいたいんだが、その時間を過ぎるとどうなる?」
「別に。強制的にここに戻ってくるだけね。そして何も掴んで来ることができなかったとしたら……ついでに『朝』に戻るわ。あなたは今日の『今』までの記憶をリセットされてね。夢現の輪に囚われているっていうのは、そういうことなの。そして最初からやり直し……ができればいいんだけどね」
「できないのか?」
俺は深刻な眼差しで彼女の瞳を見返した。
「できないことはないだろうけど、次の周期がいつになるかわからないし、またイチからあなたを説得してどうこうっていうのは、正直面倒くさいからやりたくないわ。そもそも勘違いして欲しくないんだけど、あたしたち「夢使い」は別にボランティアで通りすがりの『夢現の住人』の手助けをしているわけじゃないんだからね。ちゃんと現実の世界にも自分の生活があるし、あなたみたいな存在に、そうそういつまでも関わっていられないわけ」
随分辛辣な言い方ではあるが、今日という日が、彼女の言う『夢現の輪』から抜け出せるチャンスならば、できる限りのことをすべきなんだろう。
俺はそう思って、ゆっくりと肯いた。
「OK? じゃ、左手出して」
言われるがままに左手を出すと、彼女は先ほど何かを描いていたメモを握りつぶしてから、妙に古臭いというか、骨董品屋のガラクタ箱の片隅から引っ張り出したような、見たこともないデザインの腕時計(?)を取りだして、俺の左手首に巻き付けた。
文字盤のあるべきところには漢数字で「九十九」とあり、その周りを秒針が回っている。秒針の回転に合わせて一桁目の「九」が「八」へと変わろうとしているところから察するに、時計というよりはタイマーといったところだろうか。
「今、あなたが身につけた瞬間からカウントダウンは始まっているわ。一応余裕はあるはずだけど、できればここが零になる前に、自分自身を取り戻す何かを掴んで戻ってらっしゃい。それとこれ」
そう言って渡されたのは五枚目のメモ用紙だった。
「零になる前に、戻って来たくなったら使うための札よ。使い方は簡単、あのベンチ……って、今は粉砕しちゃったけど。あのベンチをよく思いうかべて、それを手に握りしめて一言唱えればいいの『我を彼の地へ』ってね」
「便利なもんだな」
俺は驚きに若干の皮肉というスパイスを隠し味に加えながら言った。まぁ夢ならなんでもありなんだろうが、ここまでくるとさすがに苦笑の一つもしたくなる。
「そ、夢だからね。でも行き道はそうはいかないわよ。だってあたし『あの子』がどこの学校に通っているのか知らないもの」
「確か二つか三つ先の駅近くの女子高だったと思うんだが……」
「そう、それならまぁなんとかなるわね。でもクラスとかわかるの? 現の世界での時間なら、向こうは確実に授業中よ?」
そう言われりゃその通りだ。白昼堂々女子校に学生服の男が侵入するのは、明らかに不審だし、そもそも入れるかどうかもわからない。警備員がいるだろうしな。
「ああ、そういうことじゃなくて、探している時間があるかってこと。現の世界では、あなたの姿は誰からも見えないわ。あたしみたいな夢使いか、その素質のある人でもいない限りはね」
思考を先読みされたようで面食らったが、それなら安心だ。彼女を信用するなら、だがね。
抜け落ちる前の記憶が確かなら、そんなマンモス校ってわけでもなさそうだし、予想通り一年生なのだとしたら、あっても一学年数クラス分を探すだけで見つけられるだろう。
それに……他の生徒達に紛れていても一目でわかるはずだ。他の誰かと見間違えることはない。それだけは自信があった。
「ロマンチックな賭けにでるのもいいけど、カウントダウンを忘れないでね。こんな面倒なこと、本当に二度としたくないんだから」
また思考の先読みだ。耳まで赤くなるような恥ずかしさに口をぱくぱくとさせて、なにか反論しようと思ったものの、彼女は再びメモ帳に向かって何かを描いているようで、全くこちらを気にしていない。ちっ、放置プレイかよ。
やがて描き終えたのか、千切ったメモ用紙を線路に投げ込んでから両掌をパンと叩き合わせると、唐突に周囲の風景が様々な色を取り戻し、そして場内アナウンスが流れた。
『間もなく、二番線に武蔵徳山行き下り電車が参ります――』
そして間もなく下り電車がホームに滑り込んできて、電動油圧式の扉を俺の目の前で開けた。
ここから先は後戻りなんかできない――さぁ『覚悟』を決めようぜ、俺。
「さ、行きなさい。降りる駅を間違えるとタイムロスになるから気をつけてね。それじゃ九十九分後か……それより前に、また会いましょ」
そんな言葉を聞き終えるか終えないかの内に扉は閉まり、俺の人生を賭けた無賃乗車は、大型の草食動物が唸るような低いモーター音を響かせながら、ゆっくりと動き始めた。
俺と、俺自身の『覚悟』を乗せて。
タイムリミットまで、あと九十六分十三秒――。
◇ ◆ ◇
車内はごく普通の見慣れた……というか、記憶のどこかで見覚えのあるものだった。
そりゃそうだ。同じ鉄道会社で上りと下りで内装が全然違っていたら笑ってしまう。一体どんな差別だよってな。
ここはあいつの言う『夢』と『現』の比率で言うならば、『現』側なのだろう。他にも何人かの乗客がいる。だが、彼らには俺の姿は見えていないのだろう。
いや、都会(というほど都会でもないことは言うまでもないローカル線なんだけどな)特有の無関心というヤツなのかもしれない。見えていても気づかないフリをしているとか、寝たふりをしているとかな。
試しに、優先席でウタタ寝をしていやがる営業廻り中と思しき不埒なサラリーマンの膝小僧でも蹴飛ばしてみようかと思ったが、熟考の末にやめておくことにした。
よしんば俺の蹴りがスカっと通り抜けたのならそれはそれでOK。そして当たりはしたものの俺の姿が見えないならば半分OKだが、当たった上に姿まで見られたらケンカを売られるのは確実だからな、リスクが大き過ぎる。
そういうわけで、俺は彼女に言われた『周りの人からは見えないはずよ』という言葉に半信半疑の気持ちを持ったまま、ごく普通の乗客として振る舞うことにした。無賃乗車だがね。
一駅を通り過ぎ、二駅目が近づいたとき、俺は車内アナウンスに耳を澄ませた。
『次は桜富士前、次は桜富士前でございます』
駅名には確かに聞き覚えがあったが、車内アナウンスでは近くにどんな施設があるかまでは紹介してくれない。バスならば聞きたくもないスポンサーのアナウンスも流れるんだがな。
ゆっくりと減速しつつホームに滑り込む車窓から、俺は目を凝らして案内板を見ようとした。
どの方面の出口から出れば、どこの施設のある方面に出られるというくらいの表示はあるだろうと思ったからだ。
しかし、残念ながら高校名が書かれた表示は見つけることができなかった。
一応ホームにも降りてみて、数秒間を捜索に費やしたのだが、俺の視力が落ちているか、とんでもない見落としをしていない限り、目標物にその文字は見つけられず空振りに終わったので、俺は大急ぎで車内へと戻った。
ならば残る可能性は次の駅だ。俺の抜け落ちまくった記憶の中でも『二つか三つ先の駅の女子高』という部分には不思議と自信があった。
左腕のタイマーを見ると、既に残りは八十三分四十六秒となっていた。
電車の中じゃどうしたって急ぎようもないが、急がなくてはと気持ちは急くばかりだ。
目的地により近い降り口は進行方向側なのか、それとも逆方向側なのかも駅に着いてみなければ判断がつかない。
どうにも所在なくなった俺は、ちょうど中央の車両のドア前に移動し、気持ちだけはスタート前のスプリンター状態で佇んで、列車が駅に着くのをジリジリしながら待った。
やがて列車は次第に減速し、次の駅名をアナウンスする。どこかで聞き覚えのあるような駅名、そしてどういうわけか見覚えがあるような風景が車窓の後方に流れていく。
――間違いない。この駅で間違いないはずだ。
動体視力を駆使して、まだ停まりきらない車内から施設案内の掲示板を睨め付け……あった。
『西側出口 本城寺学園女子高等学校』
確かに、間違いない。
(よし……)。
俺は気分だけではなく身体もスプリンターモードに切り替え、扉が開くのを待った。西側出口はホームを左方向だ。
残り時間は七十八分と少し。七ゾロ目でダッシュスタートとは縁起もいいじゃないか。
いや、全く関係ないことはわかっているのだが、そんなものにでも縋ってゲンを担ぎたいような気分だったのだ。今の俺は増援や応援もないまま孤軍奮闘するに等しい状態だからな。
俺は扉が完全に開き終える油圧音を聞き終わるよりも速く、ドアの隙間から車両を飛び出すと、西側出口目がけて一気に駆け出した。
会うんだ。
『あの子』に。
会えるんだ。
『あの子』に。
取り戻すんだ、抜け落ちてしまった自分の記憶を。
そして戻るんだ。現の世界へ――。
息を荒げながら改札に辿り着くと、俺ははたと疑問にぶち当たってしまった。
あの女が言うには、今の俺は『他の人からは見えない存在』だという。だが電車に乗れたと言うことは物質には触ることができるわけで(実際手すりに掴まることもできた)……無賃乗車をクリアするには強敵が一つ待っていた。
ヤツの名は自動改札。
コイツをクリアするにはアクション映画なみに助走をつけ、片手をついて飛び越えるか、誰か他の人が通る後ろをピタリとついて通り抜けるかの二択ってことになるのだろう。
圧倒的にカッコよく、そして時間短縮もできるのは前者だが、ヘタにどこかに引っかかろうモノなら警報ブザーが鳴ったりしかねないのではないだろうか。
だが、この時間帯のローカル線の下りは利用者も少なく、ダッシュで駆けてきてしまったために、今、改札前には俺一人だ。そして時間は少しでも無駄にしたくない。
結局、俺は意を決すると、助走をつけて自動改札本体に手をついて、バーの上を飛び越した。
「やべー今の俺ちょっとかっこよくね?」なんて心の中で少し思ったりもしたが、やっていることが無賃乗車ってのが情けない。まぁそこはすぐに忘れることにしたけどな。
タイムリミットまで、あと七十五分〇三秒――。
◇ ◆ ◇
学校はすぐに見つかった。駅を出て左に続く緩やかな坂。その上には、やはりどこかで見覚えのある茶色い校舎があった。
あそこだ。俺は再び駆け足で緩やかな坂道を駆け上りはじめた。左右に広がる風景にもやはりどこか覚えがある。多分、俺はここに来たことがあるんだ。
でもいつ? なんで学生服を着ている男である俺が女子高に? そこまではさすがにまだ思い出すことはできなかった。
校門前に辿り着くと警備員らしきおっさんが立ってはいるが、校門横の通用口は開いていた。
俺は(おそらく)気配を消す必要もないのに、そーっとそこを通り抜けると、本城寺学園女子高等学校内の敷地へと足を踏み入れることに成功した。
校門から続くポプラ並木。ここにも見覚えがあった。何故か妙に胸が躍るような、それでいて締めつけられるような、相反した感覚が胸中に甦る。
その感覚は一歩一歩と歩みを進めるたびに強まるようだった。
俺は一体ここでなにをしたんだろう? それとも『女子高』という禁断の園に足を踏み入れたことに、昂揚したり不安になったりしているのだろうか。
わからない。全くわからない。
だが、一つだけわかることがあった。
それは、ここには確実に『あの子』がいて、俺は『あの子』に会うことで、現状を抜け出す糸口を掴むことができるという『確信』が強くなっているということだった。
掲示板などが立ち並ぶ校舎前のエントランスに辿り着くと、先ほどの相反した奇妙な感覚はピークに達した。そしてどういうわけか安堵感と喜びに似たような感覚に取って代わる。
『――ったな! ――でと――! これで――やくそ――』
フラッシュバックの様に耳の奥の、さらに奥に小さく響いたのは自分の声だった。
合わせて何人もの女子のざわめきが重なる。一体これはなんなんだろう。これから一つ一つ手がかりを拾う度に、こんな感覚が重なっていくのだろうか。
少し不安にはなったものの、俺は意を新たにして校舎内へと足を踏み入れた。
清潔に保たれ、ワックスがかけられたリノリウムの床を土足で駆け回るというのは、若干気が咎めないでもなかったが、どうやら足跡が着くようなこともなければ足音がすることもないようだとわかると、俺はさっそく『あの子』の教室を探そうと、生徒玄関周辺を歩き始めた。
だが、デパートじゃあるまいに、ご丁寧に各階の案内板があるわけもない。
そんな当たり前のことに気づかないあたり、相当気が急いているのだな、と、改めて左腕のタイマーを見ると、残り時間は六十八分ちょうどになるところだった。急がなくてはならない。
――考えろ。普通の高校ならば、一年生の教室は最上階にあるはずだ。多分。少なくとも俺の記憶ではそうだ。この学校が特別でもない限り間違いはないだろう。
いずれにせよ、一番上からしらみ潰しに探していけばなんとかなるはずだ。
そう考えた俺は、中央階段と思しき階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
一階踊り場には大きな鏡がおいてある、二階、教室が居並び生徒の声は聞こえない。教室の扉の上には『2―A』と書かれている。ここは二年生の教室階という解釈で間違いなさそうだ。
二階踊り場、さまざまな部活やら委員会かなんかの勧誘ポスターが生徒会許可の印章付きで奇妙なまでにきっちり整理されて貼られていた。他に気になるものはない。
そして三階。外から見たときに最上階だと思っていた場所に、俺はようやく辿り着いた。
一気に駆け上がって来た割りには、不思議と激しい息切れはなかった。どうやら俺はそこそこ運動ができるヤツだったようだ。それとも、これも夢だからなのだろうか?
しかしここまでの間に、あのポプラ並木やエントランス前で感じたような感覚は皆無だった。ただひたすらに見知らぬ校舎を駆け回っている。そのまんま、そんな感じしかしない。
中央階段から見るに、三階の一般教室は六つのようだ。廊下側の窓はありがたいごとに磨りガラスでもなんでもなく、教室内を覗き込める。扉上の表示は『1―A』。BINGOだ。
が、一番最初の教室にはどうも彼女の姿はないようだった。
二番目の教室、ここにもいない。
三番目の教室はちょっと様子が違った。生徒も教師も誰もいないのだ。
ガランとした教室を覗き込んでみると、黒板に丸っこい文字で『C・D合同体育! グラウンドにて』と書いてある。
念のため『1―D』と書かれた四番目の教室を覗き込んでみたのだが、こっちも同じような状況だった。つまりここの二つのクラスは現在グラウンドにいるということなのだろう。
なんとなく「いないだろうな」という予感を感じながら、五番目と六番目の教室も一応覗いてみたのだが、やはり『あの子』はいなかった。
となると答えは簡単だ。
『あの子』はC組かD組で、現在は体育の授業中ってことなんだろう。D組の半端に開いていた扉を音を立てないようにそっと開けて中に入ってみる。
いや、別に置き引きをしようだとか、無人の女子高生の教室というシチュエイションを利用して変態的犯罪行為をしようとかそういうわけではなく、教室からグラウンドが見えないものかと考えたのだ。
窓際の席に近づき、窓から外を見る。二色のジャージがグラウンドで動き回っているのが見えたが、さすがにこの距離からでは、どれが『あの子』かまではわからない。
やはり行くしかないか。いや、最初からそのつもりだったのだが。
出がけに黒板上の時計を見上げると、長針と短針は十一時三十五分前後を示していた。そして俺の左腕のタイマーは残り五十三分四十五秒。
『あの子』を探す余裕は十分にあるだろうが、全てを知り、記憶を取り戻すことができるのかは、まだまだわからない。
顔を見るだけで全てを思い出すことが出来るなら、今朝でもできたはずだ。
すっぽりと抜け落ちてしまっている俺の何か。そして俺の全て。それを取り戻すのに、いやヒントだけでも手に入れるのに、この時間は短いのだろうか、それとも長いのだろうか。
ただただ不安にかき立てられて、俺は校舎を飛び出した。
タイムリミットまで、あと五十二分十一秒――。
◇ ◆ ◇
女子更衣室。
それは禁断の花園だ。しかも女子高の女子更衣室ともなれば、秘中の秘。禁断の花園中の禁断の花園だ。
無論のこと男子禁制であり、覗きたい気持ちはあれども、二つの理由で覗いてはいけないという場所でもある。
一つは社会道徳的なものであり、一つは女の本性を見るのが怖いという男性特有の気持ちからくるものであることは、今更言うまでもないだろう。
で、今の俺はというと、その扉の前にしゃがみ込んで聞き耳を立てるという、なんとも不格好というか情けないというか、そんな姿勢で、中から聞き漏れてくる会話をなんとか拾おうとしていた。
「ったくさー。メシ前にバレーとかやってらんないよねー」
「ホントだよー。部活の連中とかマジになり過ぎだっての。ヒザ擦りむいちゃってソンガイバイショー請求しちゃおっかなー」
そんなやりとりの後に、派手でけたたましい笑い声がかぶる。
女の園の実態は大声で無遠慮だという人生の真理を一つ知った気分だったが、そんなことは今はどうでもよかった。
体育の授業に出ているはずの『あの子』を探しにグラウンドに出た俺だったが、見つけることはできたものの、彼女の名前を知ることはできなかったのだ。これには面食らった。
さすがは私立高校といったとこだろうか。彼女らが着ていたジャージは、中学やそこいらの公立とはワケが違った。
遠くからでも判別できるような、クラスとネーム入りのゼッケンを貼り付けたものなどではなく、胸元にネーム刺繍が施してあるものだったのだ。
あれではかなり近距離まで接近しなければ読み取ることができない。姿が見えないとはいえ、ボールや人が飛び交うバレーボールの授業中に特攻をかける気には、さすがになれなかった。
それでも一応、彼女の名字だけは、おおよそ知ることができた。
「コーサカ! サクマ! コート入れ!」
と、ガタイだけでなく声まで野太い体育教師が指示を出したときに先に立ち上がったのが『あの子』だったのだ。
だから恐らく八割から九割の確率で彼女の姓は『コーサカ』で間違いないはずだ。
そしてそれは、コーサカという名前と彼女の顔が、俺の脳内で一致したときに沸き上がってきた感覚、朝下り側ホームのベンチに座る彼女を見ているときの思いを数十倍に濃縮したような感覚が証明してくれた。
コーサカ、コーサカ。どんな字なのか、そして下の名前がなんなのか。
それがわかれば、また一つ俺はヒントを掴むことができるのだろうという、ほぼ確信に近い思いを沸き上がらせて、俺は今、この女子更衣室前にいるのだった。
誰かが彼女と話をすれば、もしくは彼女の話をすれば、他にもヒントが拾えるかもしれない。そんなわけで、扉の下に着けられた換気口の横格子越しに耳をそばだてているのだ。
「昼飯どーするー?」
「あたしめんどくさいから着替えたらそのまま学食行くわー」
「サクマはー?」
「あたしもそーするー。今日A定トンカツだっけ? まーた体重増えんなー」
「じゃあ、あたしも弁当持ってそっち行くわー。席確保よろしくねー」
「コーサカはどうすんの?」
「……あ、あたしは……」
これが彼女の声だ。ドア越しなのでで、くぐもって聞こえてはいるが、それでも聞き間違いようのない声。どういうわけか懐かしささえ感じる声だ。
「バッカ! コーサカはいつものとこに決まってんじゃん!」
「そ、そっか、ごめんコーサカ。あたしそゆとこまだ気がまわんなくってさ……」
「ううん、気にしないで。あたしこそ、付き合い悪くってごめんね……」
「もう二週間だっけ……カレシ」
「うん……」
「今日は晴れてるしさ、屋上も開放されてるし、きっといつもより届くよ……早くよくなるといいね……」
「うん……ありがとう……」
「ちょっ……! 泣かないでよコーサカぁ!」
「ごめ、ごめん……」
しばらくの間、重苦しくなるような沈黙が換気口から漏れてきた。
カレシ? 二週間? 早くよくなるといいね? 一体どういうことだろう。
『あの子』、コーサカにはカレシ、つまり恋人がいるってことなんだろうか。
そしてそのカレシとやらは病かなんかに倒れているのだろうか。で、そのために友人達と昼食を共にしない? 一体どういうことなんだろう。
そしてそんな会話を聞いた俺もなにかがおかしかった。
「気になる好みの子」、それが最初に彼女に抱いた感情だったし、彼女を見続けるキッカケになったはずだった。
それは言い換えれば恋慕にも似た想いであったことは否定しない。むしろ、その想いはこうして動き始めてから今に至るまでの間、彼女の姿をグラウンドで見つけたときにも高まる一方だった。
にも関わらず。にも関わらずだ。その相手にカレシがいるという情報を得ても、俺は全く傷ついていないのだ。普通ならショックを受けたり、諦めにも似た感情でガックリとなるべきところなんだろうが、全くそういった感情が沸かない。
それどころか、胸が締めつけられるような途方もない切なさと、申し訳ないというような、罪の意識や焦燥感。そんな感情ばかりが溢れかえって、俺はいてもたってもいられなくなり、ドアの前から身体を起き上がらせると、自分の制服の胸を掴んで廊下の壁にもたれかかった。
胸が苦しい。苦しくてどうしようもなかった。これもまたヒントなのだろうか。
だが、いずれにせよまだ動かなくてはならない。
『あの子』、コーサカは一旦教室に帰って持参した弁当を持って屋上に行くらしい。ならば先回りして教室に戻っておくのがベストだろう。
姿が見えなくなっているとはいえ、中の誰かが扉を開けた瞬間に女子更衣室を見てしまうようなことは避けたいし、今はとてもじゃないがそんな心境じゃなかった。
俺は四時間目終了のチャイムを聞きながら、更衣室前を後にした。
タイムリミットまで、あと二十九分四十二秒――。