■ 上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -3-

【はじめに】
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
<前回まで>

 私立本城寺学園女子高等学校の校舎屋上は、昼休みの間は解放されているようだった。
 転落事故防止のためだろう、ベージュ色のフェンスは高く張り巡らされているが、バドミントンかバレーボールかなにかのコートラインが敷かれていたり、各所に植え込みがあったりと、なかなかに洒落た感じだ。そしてベンチもいくつか設置されていた。
 そのベンチの内の一つに、コーサカはちょこんと座ると、しばらくそこから見える風景を、じっと見つめてから、手の甲でごしごしと涙を拭った。
 膝の上には水色のナプキンに仕舞い込まれた弁当。どちらかといえば細身の彼女が食べるには大きいような気がしないでもない。
 膝の上でナプキンの包みを解いて、弁当箱の蓋を外すと、まごうことなき弁当がそこに現れた。彼女自身が作ったものなのか、彼女の母親が作ったものなのかはまではわからなかったが、それでもしっかりとした「てづくりのおべんとう」だ。
 が、やはり彼女が食べるには少々多いように感じる。
 彼女は箸箱から箸を取り出すと、きっちりと合掌して「いただきます」と言ってから弁当に箸を伸ばそうとしたが、思い起こしたように箸をおくと、胸ポケットをまさぐって生徒手帳を取りだして、その表紙を開いた。
 俺はそんな彼女の動作を彼女の正面に立って至近距離から見ていたのだが、手帳の中身が気になって、慌ててベンチの後ろへと回り込んで中を覗き込んだ。
 
 私立本城寺学園女子高等学校
 1―C
 香坂紗香

 生徒手帳の一ページ目には所属証明として彼女の名前とクラス番号が丁寧な字で、そう書かれていた。
 コーサカ……サヤカ……?
 なんとも違和感があった。
 違う、サヤカじゃない。
 
『よう新入部員。お前の名前、これなんて読むんだ?』
『え、その、えっと……なんて読むと思います?』

 再び耳の奥の奥に甦る声、今度は会話だ。片方は俺の声で、片方は彼女の声。
 随分懐かしいような記憶のような気がする。
 だが、そんなことよりも、もっと驚くべきものがそこにはあった。
 パスケースのようになっている生徒手帳のカバー。その裏に挟まれていた一枚の小さな写真……というか写真シールだろうか?
カードサイズで、ハートマークやLOVEなどのスタンプなどで賑やかに装飾されているそこに写っていたのは、最高に幸せそうな笑みを浮かべている二人の若い男女だった。
 一人は間違えようもなく香坂紗香本人で、今の悲しげな表情からは考えも着かないほど明るい笑顔で笑っている。
 そしてもう一人は……。
 
『これが第一歩。見える? 自分の顔』

 駅のホームで、あいつの言った言葉が脳内に何度も何度もリフレインされる。
 あの時認識した自分の顔、あれが自分の顔なのだとしたら(いや実際そうなんだろうが……)、信じられないことに、香坂紗香の隣で心底嬉しそうに笑っているのは――。
 誰あろう俺自身だった。
 パニックだ、混乱だ、いや大混乱だ。
 あまりの衝撃に俺は思わずへたり込んでしまった。
 奔流のように様々な会話の記憶が脳内にフラッシュバックしてくる。
 
『ん〜……サヤカ?』
『あははっ、残念でした。スズカって読むんです。よく読み間違えられますけどね』
『スズカ、か。いい名前だな、字面もいいし』
『えっ……あの、ありがとうございます……先輩の名前も、ちょっと珍しいですよね。……ステキだと思いますけど……』
『えっ……あ、ああ、爺ちゃんがつけたんだってよ』

『先輩、動かないで下さいよ。デッサンとれないじゃないですか』
『色々な角度から見て、あとは想像と好意で描きゃいいんだよ。実物より男前にな』
『中世の画家じゃないんですから、私には無理な注文はきけませんよ?』
『じゃあ後で俺が修正するわ』
『それじゃ、あたしの作品じゃなくなっちゃうじゃないですかぁ』

『先輩、卒業式もうすぐですね』
『ああ、そうだなー。卒業記念になんとか仕上げたいけど間に合うもんだかねえ』
『そしたら春休みも来て続ければいいじゃないですか』
『お前ね、受験という嵐を乗り越えて、ようやく手に入れた、ほんっの少しの自由な時間を引退した部活に注げってのかぁ?』
『でも、来てくれたら、紅茶とお菓子ぐらいなら用意しますよ。手作りですけど』
『毒入りでなけりゃ来てやるよ』

『先輩……えっとその、卒業おめでとうございます』
『ん、ああ。卒業っつっても、まだ作品描き上がってないから、ちょくちょく来るけどな』
『でも、あの、その、卒業式って今日だけなんですよね』
『まぁ、普通はそうだな』
『せ、先輩! その、えと、あの、第二ボタン下さいっ!』

『これからはスズカも受験生だな。まぁ一足先に高校行ってる俺から言わせてもらうとだな、受験は地獄だぜ? 志望校、本城寺にするんだろ?』
『うん、あそこなら通うのも、そう大変じゃないし。美術部が結構有名だから』
『スズカらしい選び方だな。でも大丈夫なのかよ判定とかどうなんだ?』
『そのあたりは一足先に受験地獄をクリアした立派な先達が助けてくれるんでしょう? ね、せ・ん・ぱ・い!』

『ちょっと判定が悪かったくらいで、そこまでヘコむなよ。大丈夫だって。これくらいなら、今からでも、いくらだって挽回できるってばよ』
『で、でも面談でも、ランク落とした方がいいって……』
『加藤かよ……気にすんな、あいつはいつもそうやって安パイ切らせようとしてるだけなんだ。今回はたまたまだって! 次であいつのでけえ鼻の穴開かしてやれよ!』
『ぐすっ……あれ以上開いたら気持ち悪いよぉ……』

『あのさ、スズカ。こういうのどうだ?』
『ん?なぁに?』
『お前本城寺受かったら、上り下りは違うけど、俺等一緒の駅使うわけじゃん』
『うん、そうだね』
『だからさ、ちょっと朝の時間合わせたりしてさ、毎日デートしようぜ』
『えー? ふふっ! 線路挟んでぇ?』
『そりゃ、その時によりけりだけどさ。俺がそっちに行ってもいいし、お前に上りホーム来てもらってもいいしさ。時間的には俺の方が少し早いのかな』
『そっかぁ、そういうのもいいかもね。帰りも時間合わせたりして』
『そっそ、名案だろ?』
『そうね。面白そう。でも寝坊しないでよ? あ、そうだ、いいこと思いついちゃった』
『ん? なんだよなんだよ』
『んー……まずは受かってからでないと、文字通り絵に描いた餅だからね。受かったら話すわよ。ね?』
『っだよ……気になるなあ……』

『やったな! スズカ! あるよ! お前の番号! おめでとう! やべー、俺まで泣きそうなんだけど!』
『あ、ありが、ありがとう! ありがとう! 見間違いじゃないよね! 本当にあるよね!』
『大丈夫だよ、俺の眼の良さ知ってんだろ? なんなら肩車してやろうか?』
『きゃっ! ちょっ……ちょっと! スカート! スカートめくれちゃうから!』

『あそこさ、下り側ホームの後ろ、桜のでっけーのがあるんだよ。満開になったら、ベンチで花見しようぜ! そ・れ・と! 例の約束、忘れんなよ?』
『大丈夫だよー! この一年間頑張ったのは受験勉強だけじゃないんだからね!』

『えっと……スズカ……本当に、本当に頑張ったな。改めて、おめでとう……な』
『うん……ありがとう……大好き……』

 記憶の奔流に押し倒されるようにへたれ込んでいた身体に鞭をいれるかのようにして起き上がったのだが、俺はまだ混乱していた。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。
 足を引きずるようにして彼女……スズカの前に回ると、彼女は弁当を半分ほど残して蓋を閉じているところだった。
 それから生徒手帳、いやその写真を胸に抱きしめると、
「……本当はこれ、あたしのお弁当じゃないんだからね……でも毎日作って待ってるから……きっと帰ってきてね……ソウ君……待ってるからね」
 そう呟いた、恐らくは、あの『駅』の方を見つめて。
 
 ――そして俺は『全て』の大半を思い出した。
 
 彼女は、中学時代俺の一つ下の後輩で、同じ美術部員だったこと。
 そして名前のことをきっかけに親しくなり、俺の卒業を機に付き合い始めたこと。
 一年間、デート代わりに彼女の受験勉強に付き合いながら過ごした日々のこと。
 落ち込んだときに提案した企画の数々。受かったらやろうと交わした約束の数々。
 そして一緒に手を繋いで、ここ、本城寺学園にやってきた合格発表の日のこと。
 
 そして……自分の名前も。
 
 だが、どうしても思い出せないことがあった、なんで俺の本体は眠りこけているのだろうか。話から察するに『何か』があって、俺は眠り続けているらしい。しかももう二週間になるという。確か、スズカのクラスメイトがそう言っていた。
 二週間前といえば……俺はさっき教室を覗き込んだときに黒板に書かれていた今日の日付を思い出し、そこから逆算した。
 四月の頭。そうだ、スズカが先に入学式を迎え、俺は数日遅れで二年度の始業式を迎えるはずだった……。
 朝、駅でスズカから弁当を受け取って……上りの電車に乗って……JRに乗り換えて……そこから先はどう頭を捻っても思い出せなかった。
 記憶の奔流の奥底に心を向けると、なにか強大な金属をひしゃげたような轟音と騒音、悲鳴が聞こえたような気がして、俺は怖ろしくなって考えるのを止めた。
 やがて、スズカはナプキンで元通りに弁当箱を包むと、ベンチから立ち上がった。
 同時に十二時半、午後の予鈴を告げるチャイムが屋上にも鳴り響く。
 左腕のタイマーを見ると、残りは僅か一分、いや五十八秒になっていた。
 未だ鳴り響き続けているチャイムの中、屋内へと続くドアに手をかけたスズカに、俺は無駄だとはわかっていても、声をかけずにはいられなかった。
「スズカ! 俺、絶対に戻ってくるから! あの『駅』に、この現実に!」
 残り時間三十秒。スズカは何かを感じたのか、ノブを回しかけた手を止めて振り返った。
 残り時間二十五秒。俺は制服の胸ポケットから、あの女にもらったメモを取り出して握りしめると呟いた。
「絶対に、絶対に帰ってくるからな。もう少しだけ、もう少しだけ待っていてくれ――『我を彼の地へ』――」
 
 タイムリミットまで、あと十二秒――。
 
 ◇ ◆ ◇ 

 空間が、というか風景が、ぐにゃり、と、ねじ曲がったような感じがして、気がつくと俺は薄暗い『あの駅』のホームにいた。まさに夢でも見ていたような気分だ。いや、夢の中で夢を見ていたような気分、の方が正確だろうか。とにかくまだ昂揚していたし、混乱もあった。
「どうやら間に合ったみたいね。おかえりなさい。それにその様子だと……どうやら成果はあったようね」
 黒い髪が風に流されるのを抑えながら、少女は今まで見せたこともないような笑みを静かに口元に浮かべて、そう言った。
「ああ、おかげさんで、自分が何者で何をすべきで何をしたいのかも取り返してきたよ」
「じゃ、もう未練はないわね?」
「未練?」
 どういうことだ? 未練、未練なら沢山あるぞ。俺はまだまだスズカと一緒にいたいし、スズカの弁当だって食べたいし、高校にはダチも待っているし、家族だって待っているし。そういう未練なら山盛りだ。
「ああ、言い方が悪かったわね。『ここ』でのことよ。夢現の夢での未練ね」
「な、なんだ。心臓に悪いような言い方するなよ。俺はなんだ、その、今までのお前の『夢使い』だのなんだのの言葉は全部嘘っぱちで、お前は実は死に神かなんかで、この世の未練を断ち切れずにいた俺を満足させて、天国やら地獄やらに送り込むのかなんてことまで思っちまったじゃねーか」
「あら、そういう演出でもよかったかもしれないわね」
 平気な顔をして、とんでもないことをいいやがる。
 夢の中でのこいつはやりたい放題なんだってことは自分自身で体験したばかりだしな。下手なことを言わない方がよさそうだ。触らぬ神に祟りなしってな。
「賢明な判断ね。さて、じゃさっさと現に戻りましょうか」
「ああ、でもその前に……一個だけどうしても思い出せないことがあるんだ」
「なんであなたが眠り続けているかってこと、でしょう?」
 もう、こいつの先読みには慣れた俺は、ただ黙って首肯した。
「そうね、それは現に戻ればわかることだし、別に今思い出す必要はないことよ。ヘタに思い出しても魂に傷がつきかねないしね」
 俺は自分が記憶の奔流の奥底を覗き込もうとしたときの恐怖を思い出して身震いし、また黙って首肯した。
「さて……じゃあ、ちょっと派手に戻りましょうか。現の世界に」
 そういうと彼女は、バッグから今度はメモ帳ではなくケータイを取りだして、誰かの番号を呼び出すと、なにがしかのやりとりをしているようだった。
「……いいからさっさと来なさい。どうせ昼寝しているんでしょ? こっちは朝から大変だったんだから、少しは手伝いなさい! いいわね!」
 最後の方は明らかに命令口調でいうと、ケータイを折りたたんでバッグに仕舞い込んで、やれやれといった素振りで長い髪をかき上げた。
 と、数秒もしないうちに、俺の背後から若干暢気な声が聞こえてきた。振り返ると、彼女と同じ制服を着た少女がこちらへ歩いてくるところだった。
「おはよーさんですー」
「おはよーさんですぅ〜、じゃないわよ。あたし今日は力使い過ぎて疲れてるの。それに午後の授業には出たいしね。最後に乗り物用意するから、あなたが彼を現へ連れて行ってあげて」
 そう一気に言われた長身でショートカットの謎の少女は、眠そうに瞼を擦ると、
「まーったく……いっつも人使いが荒いんだから……あなたも随分な目に遭わされたんじゃない?」
 と、意味ありげな視線で悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
「余計なやりとりはしないでいいの! さっさとやるわよ!」
 そう言うと彼女は再びメモ帳に何かを描き、一つは長身の少女に、一つは上り線路の上に放り投げた。
 と、次の瞬間、線路の上には妙にレトロというかなんというか、どうみても蒸気機関車にしか見えないものが現れ、長身の少女は、受け取ったメモを折りたたんで両掌でパンッと挟むと、それまでの黒いセーラー服から、藍色を基調とした別の制服に、その姿を変えていた。
 如何にも蒸気機関車の車掌らしい上下に、金モールのついた制帽まで着いている。
「……ちょっとぉ……あんまりにもシュミに走り過ぎなんじゃないのぉ……?」
 愚痴めいた感想を述べる短髪の少女だったが、長髪の少女は一切気にせず、
「るっさいわね。さっさと運転しなさいよ。で、あなたはさっさと乗る!」
 俺は、その言葉に背中を叩かれるようにして、自動ではないドアを開けると、対面四人がけの席に座り込んでガタつく窓を開け、黒髪の少女と車両越しに正対した。
 その黒曜石のような瞳と視線を重ねると、何かを言おうとした言葉が中々でてこない。まどろっこしさにむずむずしていると、彼女はなんとも不思議な微笑を口元に浮かべて言った。
「次は現で。そうね、多分またこの駅で会うことになると思うわ。その時はちゃんと本体ごと来なさいよ? 今日のことは貸しにしておくから、覚悟しておきなさい……憶えていられたらね」
 何事か言い返そうと口を開こうとした瞬間、若干空気を読まない警笛がホームに鳴り響いた。
「そんじゃー出発するよぉー」
「って、え? 出発ってどこに?」
「まーまー着けばわかるから。あーあと、トンネルに入るまでには窓閉めてねー」
 そう言い終わらない内に、蒸気機関車はスチーム音も高らかにゆっくりと動き始めた、上り路線を始発駅へ向かって――それがどこの始発駅なのかはわからなかったが。
 俺は、慌てて窓を閉めようとしながら、ホームから見送ってくれている黒い髪の少女に叫んだ、
「名前! もう一度名前教えてくれ! 帰っても忘れないように!」
 そうだ、彼女の名前を忘れてはいけない。なにしろまだ礼も言っていないのだから。
 SLの加速は鈍いとはいえ段々と距離が離れていく。おまけにスチームとピストンの音が俺の声を掻き消しそうになったが、何とか俺の声は彼女の耳に届いたようだった。
 
「私の名前は――ユメジ。コトガワユメジよ」
 
 そして列車はパワーを高め終えたのか一気に加速してホームを滑り出した。ショートカットの車掌(?)に指示されたように慌てて窓を閉め切ったが、車窓のガラス越しに見える景色は、まるで俺の知らない、全く見覚えのない奇妙な風景ばかりだった。
 美術の教科書で見た、怪しい髭のおっさんが描いたような世界とでもいえばいいのだろうか。
 ねじ曲がった樹木、室内灯がモールス信号のように光りながら溶けた飴細工の様になったビル、明滅しながら螺旋に回転する街灯。
 コートなのかマントなのかわからない漆黒の外套に身を包んだ人の群れ。雪景色のように白い風景なんかも、車窓から流れては後方へと溶けては消えていった、
 やがて車窓から見える景色は、途端に漆黒に塗りつぶされ、俺はトンネルに入ったのだと理解した。
 やがてトンネルを抜ける気配が伝わってくる。光が差し込んできたのだ。
 だが光は昼や朝のそれの光にしては強過ぎた。光と言うよりは圧倒的な『白』だ。
 目を細め、窓から顔を背けても『白』は容赦なく流れ込んできた。
「そろそろ着くよー」
 暢気な車掌のアナウンスに、心の中で「一体どこに着くんだよ」とツッコミを入れつつ、俺は『白』に飲み込まれるような感覚を感じながら、固く固く瞼を閉ざして身を任せた――。
 
 ◇ ◆ ◇

 強烈な眩しさにに目を焼かれまいと強く目を閉じた俺だったが、瞼越しにも『白』は押し寄せてきた。まるで白色LEDの懐中電灯を瞼に押し当てられているように。
 それが途端に、ふと和らぎ、俺は網膜に焼き付けられた『白』の残像を消そうと目を瞑ったまま強く瞼を閉じたり弛緩させたりを繰り返したあとで、ゆっくりを目を開けようとした。
 が、なかなか瞼が開かない、糊付けでもされているかのようだ。
 いつの間に目脂がついたのやら、と右手で瞼を擦ろうとしたのだが、右手を動かそうとした瞬間にとんでもない激痛が右手から右肘を通り、右肩から右頚部を貫通して、脳天を直撃した。
 どれだけ身体を酷使した翌日の筋肉痛でも、ここまではならないだろうというほどの痛みだ。
 仕方なく薄目を開けるようにして、ゆっくりゆっくりと目を開ける。
 視界も狭いので中々焦点が合わなかったが、それでも努力し続ける間になんとか現状の半分か三分の一程度を把握することができた。
 まず解ったこと。俺は仰向けに寝かせられているようだ。それも布団じゃなくてベッドだな。
 そして、とりあえず狭い視界の中で眼球を動かして捉えられる範囲のものを見てみると……まずこの部屋が、白系一色にまとめられていると言うことがわかった。
 それに――なんだこりゃ点滴か? 俺はぎしぎしと音を立てそうなほどゆっくりと顔を動かして、なんとか視界を広げると、ベッドの傍らには、テレビドラマなんかで見たことがある、金属製の柱とそれにぶら下がったパックが見えた。
 で、そこから管が通っていて……その先は……あ、やっぱり点滴なんだな、なんていう風に俺は変な風に納得しつつ「いやいや、そうじゃねえだろ」と、ツッコミをセルフサービスする。
 そうなのだ。さっきまで駅のホームにいて、そして妙にレトロな列車に乗せられて、トンネルを抜けて真っ白な『白』に入って行って――それが突然、見知らぬ場所のベッドに寝かされてるわけで――そりゃあ「ああ、点滴打たれて寝かされているんだー」なんて納得して終わりにしてしまっていいはずがあろうわけもない。
 よし、整理しよう。
 点滴を打たれており、ベッドに寝かされている。飾りっ気もなく、ほぼ白一色に統一された部屋に、独特の臭い。
 多分ここは病院かどっかの個室だということはなんとなくわかる。
 臭い、そうだ。臭いもある。視覚もちゃんと機能しているし(まだ半開きだが)、身体を動かそうとしたときの衣擦れの音も聞こえた。聴覚もOKだ。
 口の中はカラカラってほどではないが、舌がざらつくほど乾いているし、若干苦いような感覚がある。うん、味覚もOKってことなんだろう。つまり五感は問題なし、ってことだ。
 だが、全身が筋肉痛のように凝り固まっているし、他にも痛みがあるところが複数ある。まぁそれでも手足の感覚はあるし、布団を引っぺがしたら「うわ! 俺の下半身がねえ!」ということも無さそうだ。
 加えていうならば、周りを見渡そうと首を起こしたときに、重力も嫌というほど感じた。
 なるほどここまでは正常だ。あいつが言っていた『現』、そして『肉体』に帰ってきたってことなんだろう。
 しかし整理すべき問題はそれだけじゃない。今が何月何日の何時で(カーテンから透ける明かりから、まぁ昼間だということくらいはわかるが)、ここはどこの病院で、そもそもなんで俺がこんなところにいるのか……などなど、わからないことは大盛り山盛りてんこ盛りだ。
 そして切実な問題が一つ二つ。一つはやはり喉が渇いているということ。それと……生理的な問題が少々。えーと、つまり、トイレに行きたい。
 これ起きられるんだろうか。っていうか起きてもいいもんなんだろうか。
 全身が酷い筋肉痛のように痛むが、四肢をもそもそと動かしてみた感じでは、動けないことは無さそうだ。しかし自分の身体がどうなっているのかわからないというのは、非常に不安だ。不安だし、今はかなり切実だ。
 かといって、俺ももう十六歳。この場で禁を失するわけにもいかない。
 すっぽり抜け落ちている以前の記憶では、病院のベッドには枕元にナースコールなるものがあるはずで、それを押せば看護師さんが駆けつけて、なにくれとなく世話をしてくれることになっているはずだった。ということはトイレに行くのを介助してくれるかもしれない。
 場合によっては尿瓶に……という、十六歳・思春期真っ盛りの青少年にとっては、恥刑に他ならない結果になるかもしれない可能性は否定できないが……ええい、背に腹は代えられない。
 俺は再び全身筋肉痛のような痛みを歯を食いしばって堪えながら、ギシギシと寝返りを打つように枕元をまさぐって目的のモノと思しきスイッチを見つけると、必死の思いで手を伸ばして、そのボタンを押した。
 数秒後に聞こえたのは、頭上のスピーカー越しの応答。聞き覚えのない女性の声で「どうしましたー?」と訊かれたわけだが、さてなんと応えたモノかと考えつつ、とりあえず普通に「トイレに行きたいんですが……」と伝えた。
 いやはや、その時の自分の嗄れた声に驚いたがね。
 すると、その数秒後になにか物音が聞こえて、今度は慌てたような声で「わかりました、すぐ行きますね!」と同じ女性の声が返ってくる。
 まぁ、こっちとしても急いでくれるに越したことはないんだが、スピーカー越しの声からさえも察せられる慌てぶりには、少々戸惑いを感じた。
 それでも生理現象の方は一安心……となるはずだったのだが、それからは、そりゃあもうパニックの連続だった。
 記憶を失っていた俺に状況を説明してくれる医師やら、化粧もまともにしないですっ飛んできたらしい母ちゃんに、仕事場から直行してきたという親父、それに妹。
 みんながみんな口を揃えて「奇跡だ、奇跡だ」なんて言っているが、なんだってんだ全く。こっちは目が醒めたばっかりで、なにがなんで奇跡なのか、さっぱりわかりゃしない。
 ああ、これは全くの余談だが(本来なら、これこそが本題だったんだけどな……)俺の生理現象がどう処理されたかについては、絶対にツッコんでくれるなよ?
さて、そんなこんなで喜びに溢れまくった複数人と、一人だけ取り残されてぽかんとしている俺、という状態でも、それなりに現状を認識することはできた。
 なんでも俺は通学中の電車が脱線して起こした大事故というか大惨事の被害者の一人、ということらしい。
 病院に運び込まれたときは、全身を強く打ちつけ、擦過傷やら裂傷やらで出血はしていたものの、奇跡的に骨折や臓器などに異常はなかったそうだ。
 だが頭を強く打ったらしく、いわゆる「意識不明の重体」だった……とのことだった。
「もう二週間も意識がなかったんだよー!」
 ベッドに縋り付くようにして嗚咽しながら言う妹の言葉で、どれぐらい意識不明の重体期間が続いていたのかは理解できた。なるほど、二週間ね。
 全身打撲に二週間寝っぱなしじゃあ身体もギッシギシになるわけだ。
 周りがパニックになっている中、俺は妙に冷静にそんなことを考えていた。
「そうだ! お兄ちゃんが意識を取り戻したって連絡しないと!」
「んあ……? 誰にだよ」
「なに言ってんのよ! 香坂先輩にだよお! 自分のカノジョなんだから一番に知らせないとじゃない!」
 そうだ……スズカに、スズカに電話しなきゃな。あんなに心配させてたんだし。
 俺は『夢現』の中で見てきたスズカの行動や心境を思うと、あの『駅』を出たときのような、いてもたってもいられない気持ちを取り戻しはじめていた。
「母さん、俺のケータイって、今どこにあんの?」
 吸い飲みから水を飲ませてもらったものの、まだ嗄れが残る声で母親に尋ねる。
「えっ……多分あんたの部屋においてあると思うけど……」
「そっか……そりゃそうだよな」
 そりゃ二週間も入院してりゃ、当たり前と言えば当たり前のことだ。
 さて、どうしたものか。
 そもそも病院でのケータイの使用は禁止されているような気がするし、まぁそれはロビーあたりにあるだろう公衆電話から、あいつのケータイにかけてもいいんだが、残念なことに番号を覚えていない。いつもカバンにいれてあるメモ帳には書いてあるはずなんだが、それも今は自宅にあるんだろう。
 第一、ケータイを含め、俺の荷物が無事なのかどうかも不明だ。意識を取り戻した後、事故当時の新聞を見せられたんだが、その破壊状況にはかなりぞっとさせられたからな。
 そんなことを考えていると、一応気を利かせたつもりか、窓際に行ってケータイで誰かと話をしていた妹が振り向いて、
「香坂先輩、すぐ来るって!」
 と、嬉しそうなキンキン声を出した。その大声は、情緒的にも肉体的にもガツンと響いて、思わず顔をしかめそうになったが、それと同時に、俺はなんとなく自分の耳が赤くなっていく音を聞いたような気がした。
 
 ◇ ◆ ◇

「まだ絶対安静なことには変わりないですから。なるべく手短にお願いしますね」
 閉じかけの扉から顔を覗き込ませるようにして、看護師さんそういって少し微笑みながら個室を出て行った。
 走ってきたのだろうか、息を荒げながら文字通り病室に飛び込んできたスズカは、俺がベッドから片手を上げてみせると、ぐっと胸のあたりを抑えて、泣き顔のような笑顔のようななんともいえない表情をしてみせてから、結局溢れ出すのを抑えられないように涙を零して、床にへたり込んでしまった。
 そんなスズカを支える妹と「心配かけたねえ。でもほら帰って来たのよぅ」などと貰い泣きしながらスズカを抱きしめるマイマザー。
 おいおい、それらは全部俺の役目じゃないのか、などとツッコミたくもなったが、身体がどうにもいうことを利かないので、俺は二週間ぶりに『肉眼』で見るスズカの姿、そして部屋に入ってきた瞬間にそれとわかる彼女の匂いに、なおさら『帰ってきた』のだと実感して――目から謎の液体を少しだけ零した。
 
「……」
「……」
 
 しばらくしてスズカが落ち着きを取り戻し、医師やナースさんが部屋を出て、家族も変な気を利かせたものか(いや、ヘンでもないか)、それなりに気を利かせてくれた結果、今現在、この個室には俺とスズカの二人だけという状況が続いている。
 ベッドサイドのパイプイスに腰掛けてからというもの、二人分の無言の時間が流れていた。
 お互いなにをどう話していいものかわからないのだろう。俺は俺で、さっき『見て』きたことを突然話すわけにもいかないし、かといって「よう、久しぶり」なんて軽く言うのも不適当に思えて、結局無言を垂れ流していた。
 彼女の方も、何をどう話していいのかわからないのだろう。体調を気遣ってくれているのかもしれないし。どこかの歌手の詞じゃないが言葉にならないのだろう……俺もだが。
 それでも先に口を開いたのはスズカの方だった。
「……ソウ君、痛い?」
「ああ、痛いね。さすがに二週間も寝っぱなしだったからな、身体中がギシギシだよ」
 苦笑いを作って、それでも極力明るい声で応える。
「だよね……ホントによく頑張ったよね……帰ってきてくれて……よかっ……」
 そこまで言うとスズカは口元を両掌で押さえ込むようにして、嗚咽を漏らすまいとしながら、再び涙を零しはじめた。
 なんて言えばいいんだろう。うまい言葉がでてこない。
「ただいま」とは言ってやりたいんだが、タイミングが掴めない。
 必死に嗚咽を止めようとしているスズカに、言葉を出すキッカケを掴もうとでもするように、俺はきしむ右手をベッドから持ち上げて、スズカに差し出した。
「ソウ君……!」
 口を抑えていた手を解いて、俺の手を支えるように、大事なものを守るかのように、両手で握りしめるスズカ。
「……あったかいな」
「……うん、ソウ君の手、ちゃんと温かいよ」
「ああ、それもそうだけどさ。スズカの手が、な」
 生きているのだという実感が、彼女の手の温もりと、少しの湿り気を通じて、俺の心の奥底まで伝わってくる。それはとても幸せな感覚だった。
「スズカ」
「ん……なぁに?」
「――ただいま」
「……っ……おかえり、おかえりソウくん……っ……」
 
 ◇ ◆ ◇ 

 さて、それからがまたパニックの連続だった。
 意識を取り戻したものの、やはり頭を強く打っていることから検査検査の連続でへとへとになったり、二週間の寝たきり生活や打撲などで弱った身体を元に戻すべくリハビリや治療なんぞをやらされたりで、まだしばらくは入院生活が続いた。
 しかもその最中に、今度はマスコミの取材だ。
 なにしろ満員電車の脱線という大事故にして大惨事だ。負傷者は俺を含めて三桁を越えたそうだし、亡くなった方もいると後で知った。
 そんな中で『意識不明の重体』だった若者が意識を取り戻して社会復帰しようというのだから、マスコミとしても取り上げたくもなるってものなんだろう。
 そういう社会的意義やら、マスコミ側の気持ちはわからんでもないが、本調子でないところに続けざまに取材に来られるのは、やはり気疲れするというものだ。
 おまけに、それが記事になった途端、どこの誰からかも解らぬ花束やら贈り物やら「悲劇の中の奇跡で生き残った命を大事にしてください」などという若干説教がましい差出人不明の手紙やらが山と届き、俺の病室はどう考えても場違いなまでに賑やかな状態になってしまった。
 高校のクラスメイトや、中学の後輩達からの千羽鶴や寄せ書きなんかは、賑やかであっても、ありがたいものではあったが、なにを勘違いしたものか、どこぞのボランティア団体を名乗る組織から、巨大なクマのぬいぐるみまで贈られてきたときには、さすがに閉口させられた。
 そんな俺の入院生活だったが、母親とスズカが代わる代わる(というか、後半は殆どスズカだけだったが)しっかりとサポートしてくれたおかげで、俺は若干不自由になってしまった身体を元に戻す作業に集中できたし、四月の内に退院出来る運びとなった。
 そして迎えた退院当日。学校にも挨拶に行くため、久しぶりに制服に腕を通した俺は、病院玄関前まで見送りにきてくれた看護師さん達から花束を受け取った。
 傍らにはスズカがついてくれている。この後は、このまま二人で、まずは俺の自宅へ行って適当に手荷物を置き、その後『あの駅』まで行って、彼女は二限目から授業を受け、俺も学校に出向いて適当に挨拶をして早退してくるつもりだった。
 拍手と祝いとねぎらいの言葉に送られてタクシーに乗り込もうとしたとき、院内から一人のナースさんが花束をもって駆けつけてきた。
 大概の花束は既に親父に頼んで、昨日の内に持って帰ってもらったはずなのだが、置き忘れでもあったのだろうか。
「ちょっと待って! 今これ、届いたの。あなた宛よ! 時間指定でついさっき届いたの!」
 大事なことだから二度言ったのだろうか。タクシーの窓越しに受け取った花束は、墨で染めたような黒薔薇に深紅の薔薇が一輪囲まれているという、シンプルだが若干奇妙なものだ。
 だが、その奇妙な花束は、漆黒のセーラー服や鞄や靴に身を包んだ中で、鮮烈な印象的を与える血で染めたような紅いスカーフ――という、あの少女の姿を俺の脳裏に描かせるには十分過ぎるものだった、
 花束に挟み込まれるようにして入っていた小さな封筒を開けると、そこにはメッセージカードがあり、三つの言葉が書かれていた。
 
『おはよう おかえりなさい ――ユメジ』

 俺は自分の予感が的中したことに苦笑すると、そのメッセージカードを制服の胸ポケットに仕舞い込み、ぽんと掌で叩いてから、運転手に行く先の住所を告げた。
「……ところで、その花束、誰からだったの?」
「ああ、えっと……」
 どうにも説明に困ってしまって頭を掻く俺。
 夢と現の境を行き来する奇妙な力を持った人間――夢使い――そんな説明をしても、スズカにはわからないだろうし、そんな説明の仕方をするつもりもない。
 慎重に言葉を選んでいると、スズカは頭の上に小さいクエスチョンマークを浮かべたまま小首を傾げて俺の思案顔を覗き込んでいる。
 俺はそんな彼女の頭を「なにも心配することなんかないんだ」とでも言い聞かせるよう、ぽむぽむと撫でるように叩いてやってから、こう言った。
「二週間前……いや、リハビリで入院してた期間を含めなくっちゃだから四週間前かな? そのくらいのときに世話になったヤツからだよ」
「ふうん……そっか、でもさ、ソウ君。黒い薔薇って結構高いんだよ?」
「へぇ。そういうもんなのか。でもあんま趣味よくねーよな、コレ」
「ひっどーい! でも、確かにちょっと退院のお祝いの花にしてはそう……かもね」
 言いながらくすくすと笑うスズカ。
 そんななんでもない会話が、開け放したタクシーの窓から流れ落ちていくのを横目に、俺はあの「謎の少女」ことユメジが、夢の中だけでなく現実の中にちゃんといるのだということに、妙な感覚――多分ちょっとした期待感に似た何かを覚えて、そんな自分に若干驚いていた。
 やがてタクシーは俺の自宅を経由して駅前に着いた。
 久しぶりに使う定期を自動改札の読み取り機に通して、俺はそのまま上りホームへ。
 今度はちゃんとカラダごと、あのベンチへと向かった。そして後に続いたスズカは、改札を抜けると階段を昇って対面側の下りホームの同じベンチへと小走りに急ぐ。俺が『そこ』に着くのに合わせるように。
 やがて対面側のベンチに、少し息を弾ませて、頬を上気させたスズカの姿が現れた。
 その背後には、今年の春は寒かったから、少しばかり遅咲きだったのだろう。まだ八分ばかり花をつけてくれている桜が春風に揺られて、その花びらを舞い散らせていた。
 スズカはベンチ前に立っている俺に大きく手を振ってみせる。まるで嬉しくて仕方の無いように身体を跳ねさせるようにして。俺はそんなスズカに小さく手を振り返しながら、
「ああ、帰って来られて本当によかったなぁ」
 などと改めて実感していた。
 
 やがて上り列車がやってくるアナウンスと軽快な電子音がホームに鳴り響く。中途半端な時間なので、他に利用客はどうにも少ないようだ。でも、他に多くの客がいたって構わなかった。
 俺は電車がホームに近づいてくる音を聞きながら、白線のギリギリの場所まで進むと、向かい側のスズカに声をかけた。迫り来る鉄の車輪が鉄のレールを削る音に負けないくらい大きな声で。
 
「――スズカ!」
「なあに、ソウ君?」

 深呼吸を一つ、肺に溜め込んだ空気と共に様々な想いを込めて。

 そしてもっと、そう、もっと大きな声で。

「また明日、駅でな!」
 
 ◇ ◆ ◇ 

 そんな男女のやりとりを駅前喫茶店の窓越しに見ている少女達。
 ショートカットの娘が言う。
「結局タダ働きじゃないのよ。人まで呼び出しといてさ。花束代だって安くなかったんじゃないの? あんたにしちゃ珍しいじゃない、こんなの」
「まぁね、でも普段使う駅にあんなのがいたんじゃ落ち着けないでしょ。だから」
 俯いた拍子に流れるように零れた黒髪を、白皙の指で耳の裏にかき上げた長髪の少女が、自分の用意していたセリフを語り終えるのを遮るようにして、対面の一人の少女が言った。
「なに、ひょっとして惚れたわけ?」
「ばっかじゃないの? コブツキなんて真っ平ゴメンなのわかってるでしょ?」
 多少苛ついたような声で、眉をきつくして黒髪の少女は早口でまくし立てる。
「……ま、まぁね、じゃあでもなんでよ? 『あたし達』の中でも結構ガメつ……しっかりしてるあんたが、タダ働きなんてねぇ……」
 その剣幕に気圧されたかのように長身を縮めながら、ショートカットの少女は、語尾を霧の中に隠してしまうかのように、か細く呟いた。
 そんな少女の発言を無視するかのように、駅前から走り去ったタクシーを見送り終えると、ゆっくりとティーカップをソーサーに戻した少女は、再び零れた長い黒髪を指で弄びながら、長身の少女の問いに対する応えを出した。
「ねぇ……こんな話知ってる? 臨死体験をした者は、何か特別な力を持って帰ってくるっていうの」
「ああ、うん。『あたしら』の中にも、そういう子いるしね」
「そう、しかもその体験に『あたし達』が介入したら、どうなるのか……興味ない?」
「……ひっど! あんたそんな自分の興味のためだけに、あんだけのことしたの?」
 黒髪の少女はくつくつと喉を鳴らすように笑うと、言葉を続けた。
「まぁ、それはこれからのお楽しみ。でもひょっとしたら、新戦力になるかもしれないわけだからね。だから、これはタダ働きじゃないのよ。そうね……貸しイチってとこかしら……?」
 そう言いながら、さも可笑しそうに微笑んだ少女は、
「さ、行きましょ。二限目からでも出席はしておくに越したことはないわ。今後も『仕事』で潰れたら、さすがに単位とれなくなるしね。裏工作も留年なんてのも、ごめんだわ。あ、あとここの支払で、あの時の借りはチャラにしてね」
「ええーっ……やれやれ、ほんっとおっかない女だよ、あんたは」
 伝票を手にとって席を立った黒髪の少女を追うようにして、長身の少女も席を立つ。
 レジで領収書を受け取った少女が喫茶店を出ると、春風が彼女の黒く細く長い髪を嬲った。
 軽く目を細めて流れる髪を手で抑えながら、少女は誰ともなく呟く。
 口元にほんの少しの笑みを浮かべて。
「そう、お楽しみは、これから――ね……」


<了>

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