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ヒトコトなつぶやき:
ちょびっとだけ。
Twitterのタイムラインで、ぼくが愛読している某まとめサイトで取り上げられていたことが少し気になったことがあるので、書いておく。メモのようなものなので、読み飛ばしてくだされ。
太平洋戦争末期の日本軍が行った所謂「特攻」についてだけれど、「お国のために死んでいった」の「お国のため」というのが色々解釈がわかれるところだと思う。戦争という熱狂と洗脳教育、命令絶対服従と集団ヒステリーという狂気の果てに「お国のため」にそれをしていったと学んだり知ったりしていた人が多いと思うし、それは一つの事実だと思う。
けれどぼくが知らされた事実はちょっと違う側面があった。戦争末期、日本はもう負け戦が決まっていて、このままでは国土も国民も蹂躙されてしまう可能性が高かった。全面降伏して敗戦国となったあとには荒廃しか残っていないであろうという絶望感しかなかった。
空に海に野に「特攻」のみならず命を散らしていった先人達は、そうなってしまうであろう後の世の日本に生きる人々、遺す人々に、自分達の散りざまをもって、二度とこんなことを繰り返してはいけない、と。そして苦しくなるであろう戦後にあっても、最後まで諦めなかったという形で、日本人としての矜持を持ち続け、復興の糧として欲しい、と。そんなことを願っての「お国のため」に散っていった。
つまり、先人達のそれは当時の熱狂と狂気の果てにあったという「お国のため」ではなく、後の世の「お国のため」に命を散らしていったのだということ。これがぼくが知らされた、ちょっと違う事実の側面。
別に隠されているわけでもなんでもなくて、否が応でも耳目に入ってくる教科書や授業の内容だけでは届かないところに、こういう色々な事実の側面は転がっている。ぼくは死んだじいさんから聞かされたことや、先人達の遺書をまとめたものからこうした見方を得た。
物事には色々な側面からみた事実がある。それだけの話です。まぁ読み流してね。
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[2018
年
03
月
02
日-
23
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48
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