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■ 電車大男。
――ざせき、どこかたのむ。
唐突だが僕は椎間板ヘルニア持ちだ。随分緩解した方ではあるが、一時期は大きな音がするだけで苦痛に顔を歪ませ、脂汗をたらりたらりと流すほどだった。そのくらいの椎間板ヘルニア持ちだ。
腰痛が酷いときは電車に乗ることが出来なかった。まず椅子に座れたとしても、発進停止の時の負荷がきつい。横揺れはとんでもない痛みをもたらすのだ。
さらに少しは快復してきた状態でも座れない可能性があるので電車は避けていた。優先席というモノが世の中にはあるのだが、なにしろ腰痛というのは外から見てもわからない。
足にギプスをしていたり松葉杖をしていたりすれば、優先席で「すみませんよろしいですか」と云うことも可能だが、腰痛はそうもいかないのだ。腰痛ベルトを二枚重ねにした上に、ウエイトトレーニング用の腰椎固定ベルトを巻いていても、外からはわからないのだ。だからもっぱら移動手段はバイクにしていた。
そして今、僕は腰痛に加えて右足を捻挫している。昨年のクリスマスイブに一人で華麗なる大開脚&大転倒を披露したときにやってしまったものだ。幸いにも骨は折れていなかったが、未だに腫れているし、痛い。
この状態ではバイクには乗れない。バランスを崩したとき、そうでなくとも停車するときに足をつくわけだが、これが角度によってはものすごく痛いのだ。
オマケに僕のバイクはビッグスクーターなので、バイク乗りの必須テクニックであるニーグリップ(膝で車体を締め付けて安定させるテクニック)が出来ない。その代わりに尻とフットスペースに設置した足で車体を安定させるのだが、それも出来ないのだ。
というわけで、ここのところの移動手段はやむなくバスと電車となっていた。そして事件は起きたのである。それは昨日の埼京線での出来事だった。
恵比寿から川越行きの埼京線各駅停車に乗り込んだ僕は、案の定座ることができなかった。ちなみに長時間揺れる足場に立っていると、まだ非常に足が痛い状態なので、なんとか吊革とポールのダブルハンドリングポジションをゲットする。これで幾分かはラクになる、あとは新宿あたりで座れることを祈るばかりだった。
しかし車内は乗り降りの激しい新宿を過ぎても一向に空く気配を見せず、次に乗り降りの激しい池袋を過ぎても変わらず、それより最悪な事に降車率より乗車率が上回るという状況になってしまった。
人の波に押されて、仕方なく僕は右手だけでポールに捕まるドアサイドに移動した。この時点で既に右足首は悲鳴を上げ始めていた。さらに右足首に負担をかけまいと頑張っていた左足にも鈍い痛みが走り始め、赤羽に着く頃には腰にまで痛みが出始めていた。
おそらく僕は一駅ごとに顔色と表情を悪化させていっていたことと思う。恵比寿での新年会、そのほろ酔い気分な上機嫌をトップとしたら、浮間舟渡の僕は5人殺った上にクスリの効果が切れて罪の意識とフラッシュバックに精神を蝕まれている犯罪者といった感じであったと思う。
僕がそんな風に痛みと戦っている間にも電車は走り続ける。しかし席は一向に空く気配を見せない。電車は戸田公園に着き、数人がここで下車したものの空席までの距離は、僕の身体状況から体感換算すると200mほどの距離にあり、あっさりと他の乗客に座られてしまった。
電車は戸田市の上をひた走り、蕨市を超えて僕のホームタウンであるさいたま市へと入った。しかしここでも間の悪いことに、武蔵野線が乗り入れる武蔵浦和駅で、またまた乗客が大勢乗り込んできたのだ。
ホームに滑り込んだ車両の窓の向こうにホームに並ぶ多くの人々を見た瞬間から、僕は世界中のありとあらゆるモノに呪詛の言葉を唱え続けていたが、無論のこと効き目はなかった。ぱらぱらと降りる乗客。そして怒濤の如く乗り込んでくる乗客。ドアサイドから、さらに奥へと押し込まれる僕。そして…
――むぎゅう。
右足を、踏まれた。
いや、確かにスムーズに奥へと移動しなかった僕が悪かったのかもしれない。座席横のポールに掴まりながらドアサイドにもたれるようにして立っていたのだ。足下に注意していなければ、座席横のポール側に投げ出された右足など見えるわけもない。
そんなところに足を投げ出している僕が悪いのだ。実際つまづくように踏まれたわけなのだから。だから仕方ない、仕方がないのだ。しかし痛い。尋常じゃなく痛いのだ。
幸いにも足を踏んだ人は小柄な女性だったし、ヒールで踏んだわけでもなく、「ごめんなさい!」といいながら、すぐに足をどかしてくれた。だがダメージは甚大だった。痛みの反射で慌てて足を引いたが、もはや右足首は一切の加重を拒否していた。
やがて電車は動き出す。僕の額にはうっすらと脂汗が流れ始めていた。ポールを握りしめる掌にも脂汗をかいているのか、ぬるぬるとして安定しない。それでも電車は動く、従って揺れる、揺れるから重心も移動する、移動すれば加重がかかる、加重がかかれば痛い、痛ければ悶絶する。
そんなスローモーションのような思考の中、僕は脳内BGMに平井堅の「瞳をとじて」を流しながら、電車の隅っこで痛みを叫びそうになるのを必死で堪える。堪えながら口の中で「自分頑張れ。あと4駅頑張れ」と繰り返す。窓に映る僕の顔は、銃器をもたせたら確実に発砲する表情をしていた。
やがて最寄り駅のホームに滑り込んだ頃には、脳内BGMは平井堅から「サライ」に変わっていた。ドアが開いて降りると、脳内徳光のお約束の涙に迎えられながら、武道館ステージならぬ改札に向かおうと足を引きずる。
そんな必死な僕に「あのう…」と声をかけてきたのは、さきほど僕の足を踏んづけた小柄な女性だった。仰向け気味に歯を食いしばって堪えていたので気づかなかったが、どうやら僕の方を見ていたらしいのだ。
「足、大丈夫ですか?ごめんなさいさっき踏んじゃったんで…」
正直、勇気ある女性だと思った。相手はニット帽を目深に被り、黒のフェイクレザーの軍用コートを着込んだ大男でる。しかも鈍器を持たせたら迷わず脳天めがけて振り下ろすようなツラをしているデブだ。
人情紙の如き世にあって、なんて誠意に満ちた女性だろう。別に踏まれた事を気にしてもいなかったのだが、車内で僕の顔を見ていたのならば、彼女の帰り道が不安になるような表情をしていたことは明らかだ。だから僕も誠意を持って応えることにした。
「あ、大丈夫ですよ。ちょっと捻挫してたんで最初から痛んでたんです」
「そうなんですか、ほんとごめんなさい。階段とか大丈夫ですか?」
「ええ、エスカレーター使いますから。どうもありがとうございます。ほんと、気にしないでください」
云いながら無理矢理に浮かべたわけではない笑みがこぼれた。なんと清々しい会話なんだろう。本当にそう思った。フラグが立つとか立たないとかイベント発生とかそういう事が頭をよぎったことは否定はしないが、だが彼女の心遣いが嬉しくて、思わず笑みがこぼれたのだ。
しかし彼女はその直後に「それじゃあ失礼します。本当にごめんなさい」と早口云うや目の前にある階段をスルーして、足早に別の階段へと向かった。おいおいそれって滅茶苦茶警戒してるだろ無礼だろなんでそんなにカツカツヒール鳴らして急ぎ足やねんってオイ!こっちを肩越しに振り返って後ろを確認するな!別に追いかけねーよ!くそーッ!無礼者!無礼者ッ!!ぶれいものーッッ!!!ちょっとでもときめいちゃったアタイの純情を返してよ!返してよぉおぉーーッッ!!! (多分、最後の笑顔が決め手)
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