【 2004年04月17日-10:49 のつぶやき 】
■ ラ・ブ・ホ・テ・ル。
目下絶賛抗争中の汁の人がラブホで痛々しい体験をしたらしい。と思ったら、森の妖精な放送作家も痛々しい思い出を披露している。
というわけで、この数時間後に神聖なる結婚式を控え、そろそろ出発タイムリミットも発動している状況下で、私も拙いながら、過去を少々語ろうと思う。
それは数年前くらいの話。詳しくは敢えて伏せさせていただきたい。
私は当時大学生であり、高校時代からシモネタでならしてきたアホさもあって、当時からのあまりアタマのよろしくない、というかむしろバカな連中と、ラブホテルなるものを「研究」していた。
「研究」とは、まず「ラブホテル史」にはじまる、本格的なものであった。
連れ込み宿から始まり、逆さクラゲ(温泉マークである)がシンボルとなったバブル以前から、豪華絢爛勘違い系バカホテルが跳梁跋扈したバブル期。さらにはバブル後に、ワカゾーどもが「オシャレなトコロでなきゃヤー」などと云いだした風潮にあわせてつくられたシティホテルタイプ。そして90年代前半から、ちょびっとだけ流行りそうになった「ブティックホテル」という名称にいたるまで、というあたりの変遷を辿ったりしていたのである。
なお、それにともない、内装の変化、つまりベッドの導入から、ベッドを含めた内装のアミューズメント化、ホテル火災に端を発する消防法や風営法などの規制による変遷なども、調査研究した。
「当時」とは、1990年代中盤から後半。その頃は「全国ブティックホテルガイド」などというオシャレ系の本も多く出版されており、事実ホテル自体も、バブル期のラブホ黄金時代からは考えられないほどシンプルなものになっていた。
いわば「ラブホ」という存在のイメージを変えようというムーブメントがあった時期なのである。
しかし我々研究会が目指したものは、そんな近代風潮に則ったものではなかった。曰く、『我々が幼少期にブラウン管を通して目撃した、極彩色――主にピンクを基調とした背景及びカラー照明に彩られた、ベッドが回ってしまったり天井にはカラーライトとミラーボールが完備されており、もちろん天井自体も鏡張りで、浴室も鏡張りで、奥さんとか奥さんとか奥さんとかが、くるくる回っちゃったりしながら「イヤデスダメデスアアン」とかなっちゃう部屋』であった。
これは我々の幼少期に遡った記憶である。つまり1980年代前半から中盤、いわばバブル全盛の頃の内装、およびラブホのイメージであると推測される。
つまり、古き良きラブホ黄金時代の光景。それが我々にとっての、「ラブホの原風景」であったのだ。
しかしながら、「当時」とは、バブル経済が終わりを告げ、郊外型のド派手なラブホも次々と沈黙しはじめた頃でもある。
いつの時代も隆盛を誇っていた同業界も、生き残る為にビジネスホテル・シティホテル化を余儀なくされており、内装はノーマル、カラオケ・ゲーム機完備というようなものを売りにするようになっており、我々の求めるホテルは、なかなかに見つからなかった。
各研究員も、噂や情報を頼りに、様々な地域の様々なホテルに出向いては潜入調査を行っていたが、惜しいところまではいくものの、三つ星には足りぬ、肝心の大きな星が足りないのだ、と、嘆くばかりであった。
ちなみに、我々のいう三つ星とは、以下の条件を満たすものである。
一つ、ラブホたるもの、ミラーボール・カラーライトを標準装備すべし。
一つ、ラブホたるもの、壁面ないし天井を鏡張りにするは必定。
一つ、ラブホたるもの、回転動力を持つベッドを設置すべし。
しかし、上記2つまではクリア、ないし一つは満たすものはあれども、全てを満たすものは杳として見つからない。
やはり、原風景は原風景のままであり、我々の求めるアルカディアは過去の記憶にしか存在しないのか――そう諦めかけていた時、一本のPメール(当時、研究員の主要連絡はPHSで行われていた)が、有志ラブホ研究会会長兼三つ星ホテル捜査委員会名誉理事である、私の元に届いた。
半角カナ二十文字でしか文面を作成できない時代である。届いた文面は至ってシンプルであった。
オレ、イマ、マワッテル。
その文章を読んだ瞬間、全身の毛が逆立つ。そして、まるで入浴時に溢れるお湯をみて「浮力の原理」の真理に到達した、古代の学者の様に、否、それよりは控えめに、私は呟いた。――エウレーカ、と。
研究員達に非常連絡が回される。飛び交う憶測。どこエリアだ、K地点ではないか、否あそこは既に潰した……等々。今すぐにでも報告してきた研究員を問いただしたい。
だが、ラブホというステージにある以上、彼は今や「最中」であろう。そこはさすがに紳士たる我々研究員の遠慮が働いた。
明けて翌日。その研究員から連絡が入ったのは夕刻過ぎであった。パートナーと別れた直後に連絡を寄越したあたりに、彼が如何に真剣に研究に取り組んでいるかがわかるというものだった。
彼によってもたらされた、我々にとって「聖地」となる場所。そこは東京都下の「ラブホのメッカ」、鶯谷であった。
これは盲点といえば盲点であった。我々研究員の潜入調査は主に、「満室」が予測される土日前の宿泊への切り替わりタイム前後に行われていた。
これは潜入したラブホのロビーにて、各部屋の内装写真をチェックする為である。調査の次段階では、明らかに「それ」とわかる部屋をマークし、なおかつ最深度調査、つまり「入室」をする。
しかし、内装写真のチェック段階で、最深度調査の必要がないと判断された場合は、無論速やかに退去することになる。その際、パートナーにも目的を悟られることなく、自然に「好みの部屋が空いていない」という理由で退去出来るのが、この時間帯を選ぶ最大の理由であった。
そして鶯谷のホテル群は、その歴史こそ古く数も多いが、駅をまたいで点在しており、また鉄道路線上からは近く見えても、迷路のように込み入った地形故に辿り着けない事も多かった。
そして目的のホテルを探す為に移動となると、パートナーから、あらぬ詮索を受ける可能性もある。その為、鶯谷という地は我々の間で敬遠されがちであったのだ。
しかし、これでターゲットは絞られた。場所は鶯谷。ラブホのメッカにして古都。ならば回転ベッドの設備も肯けるというものだ。当該ホテルはMANJO。部屋番号は210であった。この名前は、未だに強く、色濃く、私の記憶に焼き付いている。
ひょっとしたら回転ベッドだけではなく、他の2点もクリアしているのではないか、という期待も高まったのだが、残念なことに三つ星にはいたらない設備であった。
何人かの研究員が「他の部屋も調査すべき」と挑んだが、通常のホテルという評価では、設備面・環境面・価格面ともに正直あまり好いとはいえず、パートナーに嫌がられ断念というケースもあったようだ。
しかし、やはり憧れの回転ベッドを我も体験すべし、とMANJOに潜入し、パートナーが居ない隙にか「オレモ、イマ、マワッテル。」というPメールが送られてくることは、後に何度か繰り返されたのである。
それからさらに数年後。知人の某黒バックフォントいじりで男色系の人と、当時の事を笑い話の一つとして話題のテーブルにのせた時の事である。
私自身も一度潜入調査を行っていたので、話は微にいり細にいった次第であるが、どうにも笑いは起こらず、彼は沈思黙考を保っていた。訝しがる私に彼は重そうに口を開くと、こう云った
「そこ、こっち(埼玉)に引っ越してくる前に、使ってた……」
と。
数瞬の気まずい沈黙の後、爆笑の渦が沸き起こったことは云うまでもない。
しかし、さらに数年後に至り、後に我が乳母(ちちはは)となる年下の既婚女性にまで「知ってるー!私も使ったことあるー!」と云われるとは予想だにしなかった事であった。また、他にも同ホテルの同室を使用し、回転を体験したことのある人物が、私の周囲に複数存在することを余談として付記しておきたい。
こうして、念願の回転ベッドという秘境に辿り着いた我々であったが、残念なことに三つ星条件全てを満たすアルカディアを探し出すことは出来ないまま、徒に時間だけが過ぎ、今現在に至っている。
しかし、回転ベッドとの邂逅を果たした後も、古くは江戸吉原から戦前の赤線時代に端を発し、「売春宿」の譏りを受けながらも逞しく生き残る「ラブホテルの古都」鶯谷に対する調査は、アルカディア発見の期待のもとに継続されたことは云うまでもない。
そして、回転ベッドの発見から数ヶ月後のある日、私のPHSにとんでもないPメールが届いた。送信者は鶯谷のホテル街に調査に出向いた研究員。内容は
オレ、イマ、シバラレテル。
というものであった。このPメールと研究員からの調査報告が、鶯谷に新たな伝説を創ったことは云うまでもないが、それはまた、別の話である――。
タイムアップ。結婚式行って来ます。
(神聖な式の前にコレかよ……)
というわけで、この数時間後に神聖なる結婚式を控え、そろそろ出発タイムリミットも発動している状況下で、私も拙いながら、過去を少々語ろうと思う。
それは数年前くらいの話。詳しくは敢えて伏せさせていただきたい。
私は当時大学生であり、高校時代からシモネタでならしてきたアホさもあって、当時からのあまりアタマのよろしくない、というかむしろバカな連中と、ラブホテルなるものを「研究」していた。
「研究」とは、まず「ラブホテル史」にはじまる、本格的なものであった。
連れ込み宿から始まり、逆さクラゲ(温泉マークである)がシンボルとなったバブル以前から、豪華絢爛勘違い系バカホテルが跳梁跋扈したバブル期。さらにはバブル後に、ワカゾーどもが「オシャレなトコロでなきゃヤー」などと云いだした風潮にあわせてつくられたシティホテルタイプ。そして90年代前半から、ちょびっとだけ流行りそうになった「ブティックホテル」という名称にいたるまで、というあたりの変遷を辿ったりしていたのである。
なお、それにともない、内装の変化、つまりベッドの導入から、ベッドを含めた内装のアミューズメント化、ホテル火災に端を発する消防法や風営法などの規制による変遷なども、調査研究した。
「当時」とは、1990年代中盤から後半。その頃は「全国ブティックホテルガイド」などというオシャレ系の本も多く出版されており、事実ホテル自体も、バブル期のラブホ黄金時代からは考えられないほどシンプルなものになっていた。
いわば「ラブホ」という存在のイメージを変えようというムーブメントがあった時期なのである。
しかし我々研究会が目指したものは、そんな近代風潮に則ったものではなかった。曰く、『我々が幼少期にブラウン管を通して目撃した、極彩色――主にピンクを基調とした背景及びカラー照明に彩られた、ベッドが回ってしまったり天井にはカラーライトとミラーボールが完備されており、もちろん天井自体も鏡張りで、浴室も鏡張りで、奥さんとか奥さんとか奥さんとかが、くるくる回っちゃったりしながら「イヤデスダメデスアアン」とかなっちゃう部屋』であった。
これは我々の幼少期に遡った記憶である。つまり1980年代前半から中盤、いわばバブル全盛の頃の内装、およびラブホのイメージであると推測される。
つまり、古き良きラブホ黄金時代の光景。それが我々にとっての、「ラブホの原風景」であったのだ。
しかしながら、「当時」とは、バブル経済が終わりを告げ、郊外型のド派手なラブホも次々と沈黙しはじめた頃でもある。
いつの時代も隆盛を誇っていた同業界も、生き残る為にビジネスホテル・シティホテル化を余儀なくされており、内装はノーマル、カラオケ・ゲーム機完備というようなものを売りにするようになっており、我々の求めるホテルは、なかなかに見つからなかった。
各研究員も、噂や情報を頼りに、様々な地域の様々なホテルに出向いては潜入調査を行っていたが、惜しいところまではいくものの、三つ星には足りぬ、肝心の大きな星が足りないのだ、と、嘆くばかりであった。
ちなみに、我々のいう三つ星とは、以下の条件を満たすものである。
一つ、ラブホたるもの、ミラーボール・カラーライトを標準装備すべし。
一つ、ラブホたるもの、壁面ないし天井を鏡張りにするは必定。
一つ、ラブホたるもの、回転動力を持つベッドを設置すべし。
しかし、上記2つまではクリア、ないし一つは満たすものはあれども、全てを満たすものは杳として見つからない。
やはり、原風景は原風景のままであり、我々の求めるアルカディアは過去の記憶にしか存在しないのか――そう諦めかけていた時、一本のPメール(当時、研究員の主要連絡はPHSで行われていた)が、有志ラブホ研究会会長兼三つ星ホテル捜査委員会名誉理事である、私の元に届いた。
半角カナ二十文字でしか文面を作成できない時代である。届いた文面は至ってシンプルであった。
その文章を読んだ瞬間、全身の毛が逆立つ。そして、まるで入浴時に溢れるお湯をみて「浮力の原理」の真理に到達した、古代の学者の様に、否、それよりは控えめに、私は呟いた。――エウレーカ、と。
研究員達に非常連絡が回される。飛び交う憶測。どこエリアだ、K地点ではないか、否あそこは既に潰した……等々。今すぐにでも報告してきた研究員を問いただしたい。
だが、ラブホというステージにある以上、彼は今や「最中」であろう。そこはさすがに紳士たる我々研究員の遠慮が働いた。
明けて翌日。その研究員から連絡が入ったのは夕刻過ぎであった。パートナーと別れた直後に連絡を寄越したあたりに、彼が如何に真剣に研究に取り組んでいるかがわかるというものだった。
彼によってもたらされた、我々にとって「聖地」となる場所。そこは東京都下の「ラブホのメッカ」、鶯谷であった。
これは盲点といえば盲点であった。我々研究員の潜入調査は主に、「満室」が予測される土日前の宿泊への切り替わりタイム前後に行われていた。
これは潜入したラブホのロビーにて、各部屋の内装写真をチェックする為である。調査の次段階では、明らかに「それ」とわかる部屋をマークし、なおかつ最深度調査、つまり「入室」をする。
しかし、内装写真のチェック段階で、最深度調査の必要がないと判断された場合は、無論速やかに退去することになる。その際、パートナーにも目的を悟られることなく、自然に「好みの部屋が空いていない」という理由で退去出来るのが、この時間帯を選ぶ最大の理由であった。
そして鶯谷のホテル群は、その歴史こそ古く数も多いが、駅をまたいで点在しており、また鉄道路線上からは近く見えても、迷路のように込み入った地形故に辿り着けない事も多かった。
そして目的のホテルを探す為に移動となると、パートナーから、あらぬ詮索を受ける可能性もある。その為、鶯谷という地は我々の間で敬遠されがちであったのだ。
しかし、これでターゲットは絞られた。場所は鶯谷。ラブホのメッカにして古都。ならば回転ベッドの設備も肯けるというものだ。当該ホテルはMANJO。部屋番号は210であった。この名前は、未だに強く、色濃く、私の記憶に焼き付いている。
ひょっとしたら回転ベッドだけではなく、他の2点もクリアしているのではないか、という期待も高まったのだが、残念なことに三つ星にはいたらない設備であった。
何人かの研究員が「他の部屋も調査すべき」と挑んだが、通常のホテルという評価では、設備面・環境面・価格面ともに正直あまり好いとはいえず、パートナーに嫌がられ断念というケースもあったようだ。
しかし、やはり憧れの回転ベッドを我も体験すべし、とMANJOに潜入し、パートナーが居ない隙にか「オレモ、イマ、マワッテル。」というPメールが送られてくることは、後に何度か繰り返されたのである。
それからさらに数年後。知人の某黒バックフォントいじりで男色系の人と、当時の事を笑い話の一つとして話題のテーブルにのせた時の事である。
私自身も一度潜入調査を行っていたので、話は微にいり細にいった次第であるが、どうにも笑いは起こらず、彼は沈思黙考を保っていた。訝しがる私に彼は重そうに口を開くと、こう云った
「そこ、こっち(埼玉)に引っ越してくる前に、使ってた……」
と。
数瞬の気まずい沈黙の後、爆笑の渦が沸き起こったことは云うまでもない。
しかし、さらに数年後に至り、後に我が乳母(ちちはは)となる年下の既婚女性にまで「知ってるー!私も使ったことあるー!」と云われるとは予想だにしなかった事であった。また、他にも同ホテルの同室を使用し、回転を体験したことのある人物が、私の周囲に複数存在することを余談として付記しておきたい。
こうして、念願の回転ベッドという秘境に辿り着いた我々であったが、残念なことに三つ星条件全てを満たすアルカディアを探し出すことは出来ないまま、徒に時間だけが過ぎ、今現在に至っている。
しかし、回転ベッドとの邂逅を果たした後も、古くは江戸吉原から戦前の赤線時代に端を発し、「売春宿」の譏りを受けながらも逞しく生き残る「ラブホテルの古都」鶯谷に対する調査は、アルカディア発見の期待のもとに継続されたことは云うまでもない。
そして、回転ベッドの発見から数ヶ月後のある日、私のPHSにとんでもないPメールが届いた。送信者は鶯谷のホテル街に調査に出向いた研究員。内容は
というものであった。このPメールと研究員からの調査報告が、鶯谷に新たな伝説を創ったことは云うまでもないが、それはまた、別の話である――。
(神聖な式の前にコレかよ……)