■ 友達の友達の話[春九堂の場合#5:最終話 第1章]
――夏。
それは人々の理性を狂わせる季節。
陽気にあてられて、精神活動や言動行動が不可解な方向に向かうものが表れるのが春であるならば、熱にあてられて、常人のそれらをも狂わせるのが夏だ。
私は、夏が嫌いだ。
否、嫌いになってしまった。
厭なのだ――『あの記憶』が蘇ってしまうから。
あの、痛みと、冷気と、狂気にまみれた、夏の記憶が。
――嗚呼、蝉が。
蝉が、啼いている。
これは私の、『友達の友達の話』である。
格闘技というものに、負傷はつき物だ。打撲傷、捻挫を主に、酷い場合は内臓破裂や骨折に至ることもある。
そのような「重傷」は滅多にないことだが、互いの身を打ち合うが如き練習をしていれば、軽い打撲や捻挫は毎度の事である。
そのような負傷に対して、勿論格闘技をたしなむ者達は予防を施すし、また事後にも適切な処置をする。その処置として、最も簡易なものが患部を冷却する、アイシングという行為である。
「格闘技ブーム」と云われる昨今。試合後の選手へのインタビューなどでアイシングをしている光景を見ることは、決して珍しくはない。アイスブロックの袋をタオルに包み、患部にあてがう者、コールドスプレーを吹きかける者など様々だ。そしてそれは格闘にのみならず、様々なスポーツシーンで見ることが出来る。
またアイシングには、アイシングバッグという専用器具がある。防水布で出来た袋に氷の投入口がついており、そこにアイスキューブなどを入れて使用するものだ。頻繁にアイシングが必要となるアスリートには、必須のアイテムだが、一般人がそれを使うことは滅多にない。
アイシングバッグ
だが、私の友達の友達――仮にSとするが、その男の身近に、アイシングバッグを購入した一人の男がいた。名をKという。アマチュアではあるが、格闘技の猛者である。
K、否、K先輩は、極真空手の使い手であり、柔道の有段者でもある。
身長は180cmを超え、ウエイトトレーニングと日々の鍛錬で鍛え上げられた身体は、理想の格闘家といっていいだろう。コンビニエンスストアでのアルバイトの履歴書に「趣味:ウエイトトレーニング 特技:筋肉痛に耐えること」と書いて、「今回はご縁がなかったということで…」と丁重にお断りされた経験の持ち主だ。
彼はSが学生時代に所属していた総合格闘技道場の、いわば師範のような存在で、先生を除いては間違いなくナンバーワンの強さを誇っていた。
勉学も上々、性格は明朗快活、後輩の面倒見もよく、笑うと太い眉毛が八時二十分を指す、頼れる兄貴分――そんなK先輩であったが、彼は一つ、大きな問題を抱えていた。
K先輩は、シモネタ大好き男なのである。
さらに、K先輩は、すぐ脱ぐのである。
誤解のないように云っておきたい。彼は、おゲイの人ではない。Sは確信を持ってそう云っていた。そして、ただ単に急所攻撃が好きで、「ケンカは裸だろウ」を口癖にするようなところがあり、自身のボディメイクに自信がある為か、よく、脱ぐ――それだけなのだ、と。
ますますもって、ただの変態じゃねェか。私は無言で肯き、Sの言葉を信用することにした。確かに、格闘家や体育会系には、よくあるタイプなのだ。私はそう思うことにして、Sに話の続きを促した。
夏の、暑い暑い夏の、午後の事であったという。
その日、自主練習に集まったメンバーは、4人であった。K先輩、H先輩、後輩M、そしてS。
着いた順から蒸し暑い更衣室で、それぞれの道着に着替える。柔道着のもの、空手着のもの、柔術衣に新調したもの、それぞれ違う流派とバックボーンをもった者達が集まり、それぞれの得意分野や技術を交流させあうのが、この道場の方針であった。
最後に道場に出てきたのはK先輩。ストレッチと軽い準備運動を行っていた面々は、K先輩の「集合」の声に、素早く神棚前に駆け寄った。既に身体からは汗が噴き出していた。
タオルや飲み物の入ったバッグを置くと、挨拶。そしてK先輩は続けた。
「えー。今日は暑い中だけど、みっちりいい汗かきましょう。水分補給を忘れないようにな」
全員声を揃えて、返事をする。自主練習とはいえ最古参にして最強の男、信頼も厚いK先輩は、この場において指導者である。場を離れれば、幾分歳は離れども、同好の者として友人のように接するが、この場は違う。こうした減り張りも武道には重要なのだ。
「で、今日のメニューだけど、軽くミット打ちとマスやって、それから極めっこやって、あったまったところでバーピーとがぶりの練習しましょう」
打撃と寝技を区別なくやるのも、この道場の面白いところだ。プロ選手を目指しているわけではないが、それぞれが皆プロレスや格闘技の熱狂的なファンであり、見る目を養い、また研究をしていた。つまりプロの選手達の動きを「なにがどうなってこうなるのか」という事を「実践経験を積んで知る」ということを繰り返していたのだ。
この日のメニューの解説を少し加えると、ミット打ちとはコンビネーションミットやキックミットを交代で持って、そこに打撃を当てる練習をするもの。マスとはマススーパーリングの事で、目的を設定して行うライトコンタクトのスパーリングのことだ。間合いを設定して打ち合ったり、かわすことを目的としたりと、やり方は様々である。
ミット打ち(写真はコンビネーションミット)
また極めっことは、寝技の練習。背中合わせに長座し、合図と共に打撃はなしでお互いの関節や絞め技を狙う。無論短い時間制限をかけるのだが、これが結構辛いのだ。これを何本も繰り返す。
最後に設定された「バーピー」と「がぶり」とは、アマレスの基本的な動作の練習である。腰めがけてタックルに来た相手の背中を押さえ込むようにして固定し、倒されないように踏ん張る動作を「がぶり」といい、タックルで足を取りに来たところを抑え、自ら両足を後方に投げ出すことで足を取らせないようにしながら、上からタックルを潰す動作である。
がぶり(青)
バーピー(青)
本数にもよるが、フルメニューをこなすと相当にキツい。ましてや真夏日であるから、キツさは倍増する。だがそれでも「楽しいから」。興味のない人間には全く理解しえない事だと思うが、この感覚こそがトレーニングのモチベーションに繋がるのだ。
しかし、そうした肉体的な辛さとは関係のないところで、Sはちょっとイヤな予感がしたという。
理由は、寝技重視の練習メニューであったからだ。
K先輩は、寝技もうまい。柔道の有段者でもあるからだ。しかし、一度「ジャン負けディフェンスオンリー」というルールで「極めっこ」をやったことがある。ジャンケンで負けた者が、自分から極めることはなしに、ひたすら時間が来るまでディフェンスに徹するというハードメニューだ。そしてK先輩はジャンケンが弱く、実に連続10本という記録を打ち出した。
それをやってのけたK先輩はさすがなのだが、5本を超えたあたりで、まず道着の上を脱ぎ、Tシャツを着用。次に道着の下を脱ぎ、トランクスのみに。そして汗まみれになってしまったTシャツも脱ぎ、へとへとになった10本目……「やめ!」の合図と共に立ち上がったK先輩は、何故か全裸で仁王立ち。
次いで「まだまだイケるぜ!」と叫びながら、フルチンでスクワットをおっぱじめ、なおかつそのまま「今度はお前らだー!」と猛ダッシュで追いかけ回したという、チン…珍事があったのだ。
しかも今の季節は夏である。ただでさえ「寝技の練習時には汗を吸った道着が邪魔になる」といいながら、すぐに脱ぎ出すK先輩。息の上がった男同士が密着すれば、汗の分量も増える。即ち、K先輩の即脱ぎが予測されたのだ。
Sは無言で、後輩Mを伺った。どうやらMも同じ事を考えていたらしく、少しイヤそうな顔をしていたという。いや、「少し」ではないだろう。
あの珍事の後、追いかけ回されタックルで倒され、あまつさえ「回転体!回転体!」という周囲の無責任なコールに、奇声を上げながら、ノリノリでボディを密着させつつ動き回られ、その異様に素早い全裸のK先輩に、全身極められ続けたのは、他でもない、Mなのだから。(※回転体…お互いの関節を極めるまで、永久運動のようにはてしなくグラウンドの展開を続けること)
腕ひしぎ逆十字固めの攻防で「肘に!肘になんかあたってる!あたってますよ!」と絶叫し「Kさん!三角(三角絞め)は! 三角だけはイヤッス!!」と叫んだ後、おおよそ格闘技をたしなむ者にあるまじき、本気の断末魔の声をあげたのも、Mだったのだ――。
腕ひしぎ逆十字固め(白タイツ:攻)
三角絞め(写真は下三角/白道着:攻)
「ああ、それと――」
K先輩は、続けた。心なしか少し声が弾んでいた。
「今日は、こんなものを買ったので持ってきました」
そういってバッグから取り出したのが――アイシングバッグだった。
「熱中症とか怖いしな。ぶったおれたら延髄や首にあててもいいしな」
詭弁だ。そんなのは建前に過ぎない。K先輩の目が、それを物語っていた。
「まぁホラ。どこか打ったり、捻ったりしたら、すぐに云えよ。俺が速攻冷やしてやるから」
本音だ。新しく手に入れたアイテムを、使いたくて仕方ない――K先輩の目が、ちょっとアレ気味な輝きを宿しているのを見て、Sは確信した。そして再びMを見る。
(Sさん。今日は絶ッッッ対に、怪我しないようにしましょうね。ナニされるかわからんスから。むしろ隙を見せないようにしましょうね。俺、少しくらいどっかヤっちゃっても、鬼根性で我慢しますから――)
訴えかけるようなMのアイコンタクトに肯くS。
しかし、滅びの歌は低く遠く、既に鳴り始めていたのだった――。
「蝉の啼き声が、随分近くに聞こえたんだ…」
それは、暑い。否、熱い、熱い、真夏の出来事だった――。
<続く>
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