■ 友達の友達の話[春九堂の場合#5:最終話 第2章]
間合い。
間合いが重要だ。
人間関係においても、人と人との間合いが重要だ。
姿勢、話し方、目線、態度、その全ては「間合い」なのだ。
だが今の「間合い」は、もっと具体的なもの。単純に云えば彼我の距離だ。
昔の師匠に云われた言葉を思い出す。
「一足一拳の間合いを掴みなさい」
すなわち、自分の蹴りと拳が容易に当てられる間合い。そして相手の「それ」を掴むということ。
格闘技の対面における初手は、必ずと言っていいほど、間合いの取り合いになる。
そして今の状況が、まさにそれであった。
――これは「あの日」の復讐戦(リベンジ)だ。
そう彼は云った。
しかし、その彼もまた、熾烈な闘いの末に相打ちとなり。今、先日と同じように青畳の上で呻いている。先陣を切った後輩もだ。
倒れ伏している者は、皆一様に道着のズボンの股間を、ぐっしょりと濡らしていた。
蝉の鳴き声が止む。一瞬の、凪。
刹那、ヤツが素早く動いた。
その右手に氷の詰まった袋を握りしめたまま――。
――その日、最初の犠牲者はH先輩だった。
遅れてきた後輩Dが加わって5人になった我々は、順調に練習内容を消化していった。
そしてK先輩と後輩D、H先輩と後輩Mという組み合わせで行っていた寝技乱取りの最中に、第一の悲劇が起きた。
先に倒されながらも、下の体勢から長い足を巧みに使い、後輩Mを寄せ付けずにいたH先輩。
俗に「オープンガード」と呼ばれる、その体勢から、後輩DがH先輩の両足をうまく捌き、H先輩に密着することに成功。また同時に、H先輩がセオリー通り両足で後輩Dを挟み込む「クローズガード」に移行しようとした、その瞬間の事である。
 オープンガード (仰向けに寝ている下側がH先輩のポジション)
 クローズガード (下から両足で挟み込んでいる側がH先輩のポジション)
「んゴふッッ!」
道場に響き渡った、鈍い悲鳴。
数秒の硬直の後、仰向けからうつぶせになり、股間を押さえて悶絶するH先輩の姿、そして、そんなH先輩の腰を叩く後輩Mの姿があった。
タイムを計っていたSが、慌てて近寄ると声をかける。
「M、Hさんどうしたよ?」
「あー…自分がHさんのガード越えようとしたら、勢いでヒザが金的にはいっちゃったみたいで……」
「あー、まぁよくあるわな。Hさん大丈夫っすか。大きいのも苦労ですよね(笑)」
未だ悶絶しているH先輩に軽口を叩くS。
寝技の練習の最中に、こうしたハプニングがおこることは決して珍しくはない。よくあるといえば、よくあることなのである。
しかも、Hさんといえば「ライカホースH(馬のようなH)」「ガマカツH」「ビッグマグナム黒岩H」などの異名を取る、お宝の持ち主である。やはり大きい分当たりやすいのかも知れない。
ストップウォッチが2分間のアラームを鳴らしたので、スイッチを切る。
「おーい、どうしたよH」
と、既に汗だくになっているK先輩がやってきて、H先輩に声を掛ける。相変わらずH先輩はうずくまったままだ。
「えーと、金的にヒザはいっちゃったんですよ」
「なにッ???!!!それはいかん!!!!!」
と、妙に劇画チックなまでにオーバーリアクションなK先輩を、Sも後輩Mも後輩Dも、そろってややキョトン面で見上げる。しかし、そんな彼らを全く気にすることなく、K先輩は汗をダラダラかき続けながら、続けた。
「痛いか?!辛いかH?!しかし大丈夫だ、安心しろ」
「こんなこともあろうかと思って、アイシングバッグを持ってきているんだからな!!」
?(゚Д゚)?
S、後輩M、後輩D、キョトン面の三重奏である。
確かに打撲傷はアイシングすべきだ。そして金的の場合も、変形が認められるような場合は即座にアイシングをする必要性がある。
しかし今は、金的に鈍く衝撃が伝わったという感じ、これは打撲というよりは、自転車のサドルに跨り損なったり、柵を跨ごうとして金的をプチ圧迫してしまったというような感じである。別段冷やす必要は感じられない。
しかしK先輩は「オレには根拠と自信がある!そしてコレをどうにか出来るのはオレだけだ!というわけで冷やす!オレが冷やす!!」という断固とした態度である。その目には地球を救う使命を背負った戦士の如き輝きすらある。
「M!」
「は、はひっ」
「奥の冷蔵庫に氷が入っている!大至急もってこい!」
「はいっ!」
命じられるままの後輩Mは、ロッカールームの冷蔵庫(普段は飲み物を冷やしたりしている)から、ブロックアイス(かち割り氷)を袋ごと持ってくる。そしてK先輩は自分の荷物からアイシングバッグを取り出すと、ブロックアイスのパッケージを豪快に破って開けた。
その衝撃で、細かい氷が道場に舞い、Sや後輩D、そしてH先輩にふりかかる。その冷たい感触に、Sらは思わず顔をしかめた。
だが、こんなものは序章でしかなかったのだ。
アイシングバッグの投入口をあけると、そこに氷を詰め込み始めるK先輩。そして蓋を閉める。
こうして文章に起こすと、数分の出来事のように感じるが、わずか数十秒の出来事であった。つまり、H先輩に逃げる余地はなかったのだ――。
「よし、H。今助けてやるからな」
「ああもう大丈夫」――多分Hさんはそういいたかったのだろう。だが「ああも」まで云ったところで、Hさんは絶叫した。Kさんが、うつぶせで亀の状態になっているH先輩の尻側から、股間めがけてアイスシングバッグを押しつけたのだ。
「つめたあああああ!!!」
「どうだ?!効いてるか?!冷えてるか?!」
「つめてえ!つめてえぇえ!あとゴリゴリしてる!!氷が痛いってば!!」
股間の痛みより冷感感覚が先行したのか、H先輩ははいずってアイシングバッグから逃れた。否、逃れようとした。しかし、Kさんは素早くHさんの道着の帯を左手で掴む。
リンゴを軽々と粉砕する(潰す、ではなく砕ける)握力と、30kgのダンベルを易々とカールする上腕二頭筋が、Hさんを捕らえた。そして引き続き、股間にアイシングバッグを押しつける。
ちなみにアイシングバッグの正しい使い方としては、細かく砕いた氷と、適量の水をバッグ内にいれるのだ。そうでないとバッグが患部にまんべんなく当たらない上に、氷の硬さ自体が患部を痛めるからだ。
なお、アイシングバッグは「あてがう」ものであって、「おしつける」ものではない。
「おいおい、冷やさないと、せっかく両親にいただいたマグナムが、使い物にならなくなるぞ。動くんじゃあない!」
「つめたっ!!つめたっ!!」
「暴れるなよ、あてがえないじゃないか。あと手どかせ。手の甲冷やしても意味ないだろ!」
既に、ちょっとした暴行だ。半分動揺、半分爆笑寸前で見ているS達の前で、Hさんは、Kさんに蹂躙されていった。
「くそ、人が好意でやってるのに!おい、お前ら、こいつ抑えつけろ」
?(゚Д゚)?
なんで?
イヤ別に押さえつけたりしなくてもHさん平気だって云ってるs「速く!Hは痛みで錯乱してるんだ!」
逆らえない。
なぜか頭の中には米国の医療ドラマ「E.R.緊急救命室」のテーマが鳴り響いてしまう程、Kさんは真剣な顔をしていた。だが、Hさんを「真剣にHさんを心配している」わけではない。それは
Kさんは、「真剣にアイシングバッグを使ってみたくて仕方ない」のだ。
いち早く空気を読んだSが「Hさん!!落ち着いて!!すぐにすみますから!!」と云うや、体重差(Hさん65キロ。S100キロ)にものをいわせて、覚えたてのアマレスのテクニックで、Hさんを仰向けにすると、エビ固めから上四方固めに移行し、がっちりと抑え込んだ。
続いて後輩Mが、「Hさんスンマセン!」。そして後輩Dも「スンマセン!失礼しまス!!」。そしてMとDは、それぞれ足を抑える。
少なくとも負傷した人間にすることではない。
 エビ固め(赤:受)
 上四方固め(下:受)
さすがに道場内で準最強を誇るHさんも、3人がかりで押さえ込まれては、なにもできない。
「お前らーー!!」
というHさんの絶叫は、またも途中で「ああああ冷たああああああい!!!いだーーーーーーー!!!つべだーーーーー!!!」という絶叫というか断末魔に変わった。
遂にKさんが、フロントからアイシングバッグをHさんの股間に押さえつけたからである。
「大丈夫だからな!H!!」←アイシングバッグをおしつけながら
「Hさん!すんません!ガンバです!!」←右足を抑えつけながら
「Hさん、ほんとすんません!ガンバです!!」←左足を抑えつけながら
「Hさん!どおっスか!冷たいっスか!?ネバギバっス!!」←上半身を押さえ込みながら
道場に響き渡るHさんの叫び声と、何故か謝りながらHさんを、必死に励ますS達の声。
蝉の声、Hさんが、Sの脇腹を必死にタップ(ギブアップの意思表示/掌で相手の身体を2回以上叩く)する音。
ゴリゴリガシャガシャという、KさんがHさんの股間に、アイシングバッグを押しつけるたびに、氷同志がぶつかりあう音。
数分後――。
道場の青畳の上には、道着のズボンの股間を、ぐっしょりと濡らしたまま、ぐったりと横たわるHさんの姿があった。
そしてそれを無言で囲む、息を荒げた4人の男達。その顔は心なしか「やり遂げた」表情であった。
道場、午後。夏。蝉の声。
しかし、この出来事が、後日さらなる悲劇を生んだのである――。
<続く>
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