【 2004年07月15日-17:14 のつぶやき 】
■ 雨情の無情。
さいたまは先ほど強烈な夕立がありました。
なんですかねえ。夕立といえば8月の夏真っ盛りに起こるものだと思っていたのですが、今年は一月ばかりどうやら早いようですね。
そうは云っても、雷と大粒の雨という夕立の特徴は兼ね備えているものの、季節はまだ梅雨。そう考えると、納得できるような出来ないような。
昨年の夏というのが、非常に夏らしくないまま終わってしまいましたので、今年はそれだけ夏が長引くのか、それとも一ヶ月早く夏が来た分、一ヶ月早く夏が終わってしまうのか。そんなことを考えながら、ゴリゴリと原稿を書いている昼下がりです。
雨。梅雨。夕立。
ならべてみますと、どうしてもやっぱり字面から「寂しい」と感じるようなところがあります。それを風情とするか、それとも記憶によるものとするかは、人それぞれでしょう。
僕の場合、雨は「寂しく、そして人恋しくなる」そんなものなんです。なんどか過去に記事にもしたのですが、どうにも夏近く、または盛夏の雨というのはいけません。
雨の降り始め、そして上がりたての頃に窓を開けますと、ぷうんとアスファルトに打たれた「雨のにおい」がします。それがどうにもよろしくないのです。
逡巡するまでもなく、それはその「におい」によって呼び覚まされる記憶。いや、「記憶」なんていう味気ない言葉ではなく、「想い出」とでもしたほうがよいのでしょうか。
とにかく昔のとある出来事や、とある頃を思い出しては、妙に感傷的になってしまいます。
友人の女性と話していた時の事。互いに過去の少々痛々しい、否、頑張って格好つけて「若かった」としておきましょう。とにかく、そんな頃の恋愛の話などをしていた時の事です。
その女性がこんな事をいいました。
「身体を交わした時のことって、結構よく覚えてる。でも、いつどこでどんな風にとかっていうのを覚えてるわけじゃなくって、その時の相手の息づかいとか、見えていれば表情とか。一番は、においをよく覚えているのよね」
随分と官能的なお話です。
ですが、なるほどよくわかると思わず相づちを打ってしまいます。
そもそも視覚の記憶というのは、得てして脳内にストックされているデータから補完されたり補正されたりしてしまうもので、結構いい加減なものらしいです。
対して味覚や嗅覚というのは、そういうことはあまりないらしいのですよね。
そうした観点からも、記憶に残りやすい、また記憶から喚起しやすいというところがあるのかもしれません。それにしても随分と刺激的な発言ですよね。どきどき。
さて、そうした意見も踏まえて考えてみますと、「夏で雨」なんていったら、そりゃあもう湿度と温度が炸裂状態ですから、汗もかけば「におい」も際だつわけです。強まっているということは、その分感覚に対する刺激も強くなるわけです。
そこで「イコール」としてしまっていいものかどうかは考え物ですが、なんとなく僕は「なるほどなぁ」と、ストンと腑に落ちたわけです。
当時、僕は料理が得意なだけのガキでした。いえ、今でも十分にガキなんですけれど、今よりもずっとずっと「コドモ」でした。
甘えることと、甘えられること。支えることと、支えられること。そんな事を全く理解しておらず、ただただ粋がっているだけの「コドモ」でした。
多くのものを与えてくれる「その人」に、僕は何を返してあげられていたんだろうか、と、今でも当時を振り返れば赤面するばかりです。それこそ、不意に涙で視界が滲んでしまうほどに。
「その人」が欲しがるものといえば、時々、力一杯抱きしめること。夜、寝返りをうった時にその人の髪を優しくなでること。それと、当時得意料理だった極辛の特製タイ風カレーを作ることくらいのものでした。
これらさえも「その人が欲しがっていたもの」とは違うのかも知れません。僕に出来ることの中から、僕のつまらないプライドとか虚栄心を満たす為に、「その人」が選んでくれたものなのかもしれない。
そんな風にネガティブにネガティブに考えてしまうのです。おそらくはこの湿度と温度の作用によって。
「想い出はいつも優しい」なんて歌った人が、昔いました。「優しい雨」なんて歌った人も、いたような気がします。
でも、夕立と呼ぶには、ちょっと早すぎる様な気がする大粒の雨は、「今はもう逢えない優しかった人の想い出」を、あんまり優しくはなく、どちらかといえば少し乱暴に引っ張り出して、僕を打ちます。それこそ、ときどき雷をまじえて。
まぁ、それはそれで雨の風情かと諦めて。僕はといえば、風邪気味の背中を丸めて、大人しく咳をするだけ。――そんな無情な夏の夕を過ごしているのでした。
なんですかねえ。夕立といえば8月の夏真っ盛りに起こるものだと思っていたのですが、今年は一月ばかりどうやら早いようですね。
そうは云っても、雷と大粒の雨という夕立の特徴は兼ね備えているものの、季節はまだ梅雨。そう考えると、納得できるような出来ないような。
昨年の夏というのが、非常に夏らしくないまま終わってしまいましたので、今年はそれだけ夏が長引くのか、それとも一ヶ月早く夏が来た分、一ヶ月早く夏が終わってしまうのか。そんなことを考えながら、ゴリゴリと原稿を書いている昼下がりです。
雨。梅雨。夕立。
ならべてみますと、どうしてもやっぱり字面から「寂しい」と感じるようなところがあります。それを風情とするか、それとも記憶によるものとするかは、人それぞれでしょう。
僕の場合、雨は「寂しく、そして人恋しくなる」そんなものなんです。なんどか過去に記事にもしたのですが、どうにも夏近く、または盛夏の雨というのはいけません。
雨の降り始め、そして上がりたての頃に窓を開けますと、ぷうんとアスファルトに打たれた「雨のにおい」がします。それがどうにもよろしくないのです。
逡巡するまでもなく、それはその「におい」によって呼び覚まされる記憶。いや、「記憶」なんていう味気ない言葉ではなく、「想い出」とでもしたほうがよいのでしょうか。
とにかく昔のとある出来事や、とある頃を思い出しては、妙に感傷的になってしまいます。
友人の女性と話していた時の事。互いに過去の少々痛々しい、否、頑張って格好つけて「若かった」としておきましょう。とにかく、そんな頃の恋愛の話などをしていた時の事です。
その女性がこんな事をいいました。
「身体を交わした時のことって、結構よく覚えてる。でも、いつどこでどんな風にとかっていうのを覚えてるわけじゃなくって、その時の相手の息づかいとか、見えていれば表情とか。一番は、においをよく覚えているのよね」
随分と官能的なお話です。
ですが、なるほどよくわかると思わず相づちを打ってしまいます。
そもそも視覚の記憶というのは、得てして脳内にストックされているデータから補完されたり補正されたりしてしまうもので、結構いい加減なものらしいです。
対して味覚や嗅覚というのは、そういうことはあまりないらしいのですよね。
そうした観点からも、記憶に残りやすい、また記憶から喚起しやすいというところがあるのかもしれません。それにしても随分と刺激的な発言ですよね。どきどき。
さて、そうした意見も踏まえて考えてみますと、「夏で雨」なんていったら、そりゃあもう湿度と温度が炸裂状態ですから、汗もかけば「におい」も際だつわけです。強まっているということは、その分感覚に対する刺激も強くなるわけです。
そこで「イコール」としてしまっていいものかどうかは考え物ですが、なんとなく僕は「なるほどなぁ」と、ストンと腑に落ちたわけです。
当時、僕は料理が得意なだけのガキでした。いえ、今でも十分にガキなんですけれど、今よりもずっとずっと「コドモ」でした。
甘えることと、甘えられること。支えることと、支えられること。そんな事を全く理解しておらず、ただただ粋がっているだけの「コドモ」でした。
多くのものを与えてくれる「その人」に、僕は何を返してあげられていたんだろうか、と、今でも当時を振り返れば赤面するばかりです。それこそ、不意に涙で視界が滲んでしまうほどに。
「その人」が欲しがるものといえば、時々、力一杯抱きしめること。夜、寝返りをうった時にその人の髪を優しくなでること。それと、当時得意料理だった極辛の特製タイ風カレーを作ることくらいのものでした。
これらさえも「その人が欲しがっていたもの」とは違うのかも知れません。僕に出来ることの中から、僕のつまらないプライドとか虚栄心を満たす為に、「その人」が選んでくれたものなのかもしれない。
そんな風にネガティブにネガティブに考えてしまうのです。おそらくはこの湿度と温度の作用によって。
「想い出はいつも優しい」なんて歌った人が、昔いました。「優しい雨」なんて歌った人も、いたような気がします。
でも、夕立と呼ぶには、ちょっと早すぎる様な気がする大粒の雨は、「今はもう逢えない優しかった人の想い出」を、あんまり優しくはなく、どちらかといえば少し乱暴に引っ張り出して、僕を打ちます。それこそ、ときどき雷をまじえて。
まぁ、それはそれで雨の風情かと諦めて。僕はといえば、風邪気味の背中を丸めて、大人しく咳をするだけ。――そんな無情な夏の夕を過ごしているのでした。