【 2004年12月30日-10:22 のつぶやき 】
■ 雪の記憶。
昨日、雪が降った。そして少しだけ、積もった。
関東というか、さいたまに雪が降るという光景は、珍しいか珍しくないかで云ったら、明らかに珍しい。そして僕は朝から雪が降っているのを見ると、高校時代の教育実習生の事を思い出す。今からもう10年以上前の事だ。
高校時代は僕にとって、まさに黄金時代だった。高校時代に親しくなったり、その芽を作ったりした連中とは未だに付き合いが続いていることも、そう断言できる理由の一つといっていいだろう。
そして連中とは今も変わらぬおバカっぷりを、当時から重ねた年齢分だけ割り増しして日々行っている。これもまた成長の一つの形といっても、あながち間違いではないと思う。
あの時代に、僕らはいらん知識を磨き、いらんことを知ることの楽しさと、無闇に笑いをとることの喜びを覚え、常に何かに立ち向かう根性とかそういったものを養った。
こと特に根性に関しては、得るための代償ももちろん多く、下顎の反対咬合、両下肢腓骨の疲労骨折変形によるコンパートメント症候群なども手に入れてしまったのだが(代償多すぎ)、この際それは振り返らないことにする。
さて僕の高校は99%が自転車通学、しかも近所でもない限り全員が5km以上の距離を通うという、随分とハードな学校だった。弁解しておくが、さいたま市というのは決して田舎過ぎるほど田舎というわけではない。単純に高校のあった場所が僻地だっただけのことだ。
まさに雨の日も風の日も台風の日も、そして雪の日も、誰もが自転車で通い続けた。他に手段などなかったのだから仕方ない。しかしそれ故に全員が一線級のチャリンカーであった事も、また事実である。
その日、関東は数年ぶりの大雪に遭遇した。朝目が覚めると全くの無音。そして当時住んでいた団地のベランダ、その手すりには10cm以上の雪が積もっていた。
この時点で雪国以外の土地でハイスクールライフを送る普通の高校生ならば「本日は休校」ということを考えただろう。だが僕は、否、僕らは違った。強烈な寒さの中、あえて冷水で顔を洗った僕は、既に作戦をたてはじめていたのだ。
――如何にして学校までたどり着くか、である。
しかし、雪国ではないさいたまにあって、しかも数年ぶりの大雪という状況。演習経験すらない不慣れな雪中行軍に、適当な作戦などあろうはずもなかった。たどり着いた結論は「タダ ヒタスラニ 前進 アルノミ」というモノであり、実際僕はそうしたのだから。
サドルに積もった雪を払い、またがってペダルを踏みしめる。勢いよく空転するタイヤにペダルにかけたベクトルの変更を余儀なくされ、車上で体勢を崩し、ハンドルに胸を思い切り打ち付けるところから僕の冒険は始まった。既にこの時点で随分とHPは減っている。
胸を打った衝撃でヒューヒューと甲高い呼吸をしながら、今度は慎重にペダルを踏みしめ、摩擦係数を失って空転するタイヤを上手くコントロールしながら、先人達が通り過ぎた轍の跡をすり抜ける。
僕の通学路はアップダウンも激しく、車の往来も激しい。しかし雪のせいか、今日はバスさえもその姿を見せない。いつもは下りの速度を稼ぐ為の坂のピークも、命がけの冬山登山のような心境で通り過ぎる。
吹雪が視界を塞ぎ、路面がよく見えないというか真っ白なので、下りも速度を出せない。寒いはずなのに、全身に汗をかいているのがわかる。
――なんで登校ごときでこんなに命がけにならなくちゃいけないんだ。
そんな至極まっとうな疑問について考えたのはほんの最初のうちだけで、それ以降はただ生き残ることだけを念じ続け、「サバイブ…サバイブ…」と凍り付きそうな唇の内で繰り返していた。
いつもなら他校の自転車通学者も含めた一大レース場と化している通学路。毎朝のBGMはT−SQUAREの「TRUTH」だったのだが、この日ばかりは、さだまさしの「防人の詩」になっていた。
いつもの倍以上の時間がかかりはしたものの、それでも授業開始前にたどり着いた僕は、それなりに作戦をたてていた方だったのだろう。いつも通り自転車を止めて校舎に飛び込んだ僕の目に入ったのは、人影もまばらな教室だった。
しかも暖房もついておらず、暖まった教室を期待していた僕は、打ちのめされ、うちひしがれ、次いで怒りのダイナマイト、通称:怒イナマイトに、極めて短い怒りの導火線と雷管をセッティングした。
それでもぼちぼちと生徒達が集まり始める。皆一様に地獄を見てきた面をしているのが印象的だった。聞けばやはり自転車で来たという、彼らは皆地獄を生き抜いた「戦友」だった。
やがて灯油のありかを知っているものも現れると、ファンヒーターに注ぎ込んで稼働させる。灯油の燃焼する臭いと温風に、ようやく人心地ついた気分になった僕らは、口々に自分の見てきた地獄について語り始め、また、よくぞ生きて辿り着いた、そう讃え合った。
そんな奇妙な一体感が教室内を包み始めた頃、ようやく教室に担任がやってきた。始業時間は既に過ぎていたが、この瞬間まで僕らは「担任が来るより早く辿り着いたぜ」という勝利者側の人間だった。今風に云えば「勝ち組」というヤツだ。
しかし担任(当時37歳の体育教師)は、唐突にとんでもない事を言い放ったのだ。
「すまんな今日は休校だ」
と。
そしてその瞬間、さっきまで「勝ち組」だった僕らの立場はあっさりと、そう、実にあっさりとその地面を失った。当然のごとく巻き起こるブーイング。しかしブーイングをしている最中にも、次々と級友、否、戦友達が到着し始めた。
彼らは自転車に乗り換える地点までの電車やバスなどが遅れた為に、遅刻となってしまった連中である。彼らも僕ら同様「休校になる」というような選択肢はまるで考えていなかった強者だった。
教室に入ってきた彼らは「今日休校だってよー」という言葉にがっくりとうなだれ、次いで不満の怒号をあげた。9時を回る頃には、「来ていない人間」と「来た人間」では後者の方が明らかに多くなっていたのだから。
普段授業など聞いていないであろう連中までブーイングを鳴らす中、誰かが言った。
「まぁ仕方ないじゃん。学食行ってあったまるもんでも喰おうぜ」
妙案といえば妙案。この際はあのゴムのような、全くかみ切れないカタ焼きそばでも、味噌だか醤油だかわからないインスタント味のラーメンでも、何日煮込まれたのかわからないカレーライスでもかまわなかった。
しかし、大人はいつだって僕らの敵だった。そんな僕らの小さな幸せすらも担任は打ち砕いたのだ。
「雪の影響で購買部の人も、学食の人もまだ来ていないんだ。ひょっとしたら今日は来ないかもしれない」
と。
僕はそれまでに、小説などによく表現されるような圧倒的な質量と圧力を持った感情というものに出くわしたことはなかった。それは表現上の手法であって、実在するモノではないと思っていた。
だが、そのとき教室内に一気に蔓延した「殺意」は、まさに圧倒的な質量と圧力をもって、ブーイングとともに担任にぶつけられた。もちろん僕もぶつけた中の一人だ。次いで「がっくしょく!がっくしょく!」というコールまで巻き起こった。
生徒達の熱心さというか殺意に気圧されて、担任は一端職員室に戻った。そして教壇には、教育実習中だった大学生(?)だけが残された。担任に「会議してくるからつないでおいて」とでも云われたのだろう。様々な意味でやる気を漲らせた僕ら生徒達を前に、彼は明らかに怯えていた。
もちろん学食&購買が機能しないのかもしれないことや、ましてや今日の天候などの責任が彼に1ミクロンでもあろうはずもない。だが僕らに対して「諸君らのやってきたことは無駄だったのだよ」というような言葉を投げた担任に対する恨みや負の感情を請け負うには十分だった。
しかも彼はそこに爆弾を投げた。投げてしまったのだ。
「じゃ、じゃあ時間もあるし、外で雪合戦でもやらないか?」
授業なぞそもそも重要視はしていない。だが、せっかく命がけで学校に辿り着いたのに授業はないわ、学食や購買は開かないかもしれないわ、挙げ句「雪合戦」と来たもんだ。
この教育実習生は、雷管付きのC4やTNTが満載された倉庫に、ご丁寧にガソリンをこぼしてから火のついたままのジッポーとタバコを落としたようなモノだった。そしてその火は、僕の怒イナマイトの導火線にも明らかに着火し、今や爆発させる機会をうかがうばかりになっていた。
僕は当時まだ十代の小僧っ子だったが、たかだか雪合戦の誘いに「…上等じゃねえか…」と言い放ちながら、ゆらりと立ち上がる応じ方をする人というのものを、それまで見たことがなかった。
その姿はまるで時代劇の「人斬り用心棒の先生」か、必殺技を出す前のお約束でやられまくって追い詰められた聖闘士(セイント)の様に見えた。つまり最高に出来上がった状態と云うことだ。
そしてそれから十数分後。瞬発的体力としてはピークを迎え、なおかつ雪中行軍でアップも済んでおり、怒りという名のエネルギーをも持てあました高校生達は、数人の教師と教育実習生を雪の降り積もる校庭で完膚無きまで叩きのめした。女子も手指が赤くなるのもかまわず弾薬の補給を手伝っていた。
おりしも雪が降る前の体育の授業はハンドボールであり、投げることに慣れ始めていた僕らは、雪原を飛び跳ねてはあらゆる角度から雪玉を投げつけていた。その姿はさながら雪原を舞う鬼のようであったという。
――「ちょっとした事件」級でしたよ。
戦闘には参加せずに、雪だるまを作成しながら観戦していた戦友が、後にそう語るほどの凄惨な現場であった。
この事件を境にしてか、たまたま時期があっただけなのかはわからないが、以来降雪時には早朝の段階で連絡が全員に回るようになり、学校正門付近までバス停が誘致されたという。
ついでに制服も替わり、今では自転車通学をする者は減少。真のチャリンカーなどは絶滅危惧種になっているような状態であるという。
昨日、雪が降った。そして少しだけ、積もった――。
黄金時代を過ごした、あの時代は遠くになってしまった――。
僕は埼玉の雪景色を見るたびに、そんなことを考えながら、あの雪の日に集った戦友達の笑顔と、教育実習生のオロカ面を思い出したりするのである。
それは雪の日の記憶。自然の厳しさと、理由なき反抗をしたがった若き日の記憶。結局学食は開かずに近所の駄菓子屋でカップラーメンにお湯を注いでもらって持ち帰った日の記憶。
そして教室中にスーパーカップバターコーン味の匂いが充満した日の記憶。当時想いを寄せていた女子から「一口ちょーだい!」なんて云われて、ひとすすりしかしていないカップラーメンを器ごとあげてしまった、そんな青くさい黄金時代の記憶なんである。
関東というか、さいたまに雪が降るという光景は、珍しいか珍しくないかで云ったら、明らかに珍しい。そして僕は朝から雪が降っているのを見ると、高校時代の教育実習生の事を思い出す。今からもう10年以上前の事だ。
高校時代は僕にとって、まさに黄金時代だった。高校時代に親しくなったり、その芽を作ったりした連中とは未だに付き合いが続いていることも、そう断言できる理由の一つといっていいだろう。
そして連中とは今も変わらぬおバカっぷりを、当時から重ねた年齢分だけ割り増しして日々行っている。これもまた成長の一つの形といっても、あながち間違いではないと思う。
あの時代に、僕らはいらん知識を磨き、いらんことを知ることの楽しさと、無闇に笑いをとることの喜びを覚え、常に何かに立ち向かう根性とかそういったものを養った。
こと特に根性に関しては、得るための代償ももちろん多く、下顎の反対咬合、両下肢腓骨の疲労骨折変形によるコンパートメント症候群なども手に入れてしまったのだが(代償多すぎ)、この際それは振り返らないことにする。
さて僕の高校は99%が自転車通学、しかも近所でもない限り全員が5km以上の距離を通うという、随分とハードな学校だった。弁解しておくが、さいたま市というのは決して田舎過ぎるほど田舎というわけではない。単純に高校のあった場所が僻地だっただけのことだ。
まさに雨の日も風の日も台風の日も、そして雪の日も、誰もが自転車で通い続けた。他に手段などなかったのだから仕方ない。しかしそれ故に全員が一線級のチャリンカーであった事も、また事実である。
その日、関東は数年ぶりの大雪に遭遇した。朝目が覚めると全くの無音。そして当時住んでいた団地のベランダ、その手すりには10cm以上の雪が積もっていた。
この時点で雪国以外の土地でハイスクールライフを送る普通の高校生ならば「本日は休校」ということを考えただろう。だが僕は、否、僕らは違った。強烈な寒さの中、あえて冷水で顔を洗った僕は、既に作戦をたてはじめていたのだ。
――如何にして学校までたどり着くか、である。
しかし、雪国ではないさいたまにあって、しかも数年ぶりの大雪という状況。演習経験すらない不慣れな雪中行軍に、適当な作戦などあろうはずもなかった。たどり着いた結論は「タダ ヒタスラニ 前進 アルノミ」というモノであり、実際僕はそうしたのだから。
サドルに積もった雪を払い、またがってペダルを踏みしめる。勢いよく空転するタイヤにペダルにかけたベクトルの変更を余儀なくされ、車上で体勢を崩し、ハンドルに胸を思い切り打ち付けるところから僕の冒険は始まった。既にこの時点で随分とHPは減っている。
胸を打った衝撃でヒューヒューと甲高い呼吸をしながら、今度は慎重にペダルを踏みしめ、摩擦係数を失って空転するタイヤを上手くコントロールしながら、先人達が通り過ぎた轍の跡をすり抜ける。
僕の通学路はアップダウンも激しく、車の往来も激しい。しかし雪のせいか、今日はバスさえもその姿を見せない。いつもは下りの速度を稼ぐ為の坂のピークも、命がけの冬山登山のような心境で通り過ぎる。
吹雪が視界を塞ぎ、路面がよく見えないというか真っ白なので、下りも速度を出せない。寒いはずなのに、全身に汗をかいているのがわかる。
――なんで登校ごときでこんなに命がけにならなくちゃいけないんだ。
そんな至極まっとうな疑問について考えたのはほんの最初のうちだけで、それ以降はただ生き残ることだけを念じ続け、「サバイブ…サバイブ…」と凍り付きそうな唇の内で繰り返していた。
いつもなら他校の自転車通学者も含めた一大レース場と化している通学路。毎朝のBGMはT−SQUAREの「TRUTH」だったのだが、この日ばかりは、さだまさしの「防人の詩」になっていた。
いつもの倍以上の時間がかかりはしたものの、それでも授業開始前にたどり着いた僕は、それなりに作戦をたてていた方だったのだろう。いつも通り自転車を止めて校舎に飛び込んだ僕の目に入ったのは、人影もまばらな教室だった。
しかも暖房もついておらず、暖まった教室を期待していた僕は、打ちのめされ、うちひしがれ、次いで怒りのダイナマイト、通称:怒イナマイトに、極めて短い怒りの導火線と雷管をセッティングした。
それでもぼちぼちと生徒達が集まり始める。皆一様に地獄を見てきた面をしているのが印象的だった。聞けばやはり自転車で来たという、彼らは皆地獄を生き抜いた「戦友」だった。
やがて灯油のありかを知っているものも現れると、ファンヒーターに注ぎ込んで稼働させる。灯油の燃焼する臭いと温風に、ようやく人心地ついた気分になった僕らは、口々に自分の見てきた地獄について語り始め、また、よくぞ生きて辿り着いた、そう讃え合った。
そんな奇妙な一体感が教室内を包み始めた頃、ようやく教室に担任がやってきた。始業時間は既に過ぎていたが、この瞬間まで僕らは「担任が来るより早く辿り着いたぜ」という勝利者側の人間だった。今風に云えば「勝ち組」というヤツだ。
しかし担任(当時37歳の体育教師)は、唐突にとんでもない事を言い放ったのだ。
「すまんな今日は休校だ」
と。
そしてその瞬間、さっきまで「勝ち組」だった僕らの立場はあっさりと、そう、実にあっさりとその地面を失った。当然のごとく巻き起こるブーイング。しかしブーイングをしている最中にも、次々と級友、否、戦友達が到着し始めた。
彼らは自転車に乗り換える地点までの電車やバスなどが遅れた為に、遅刻となってしまった連中である。彼らも僕ら同様「休校になる」というような選択肢はまるで考えていなかった強者だった。
教室に入ってきた彼らは「今日休校だってよー」という言葉にがっくりとうなだれ、次いで不満の怒号をあげた。9時を回る頃には、「来ていない人間」と「来た人間」では後者の方が明らかに多くなっていたのだから。
普段授業など聞いていないであろう連中までブーイングを鳴らす中、誰かが言った。
「まぁ仕方ないじゃん。学食行ってあったまるもんでも喰おうぜ」
妙案といえば妙案。この際はあのゴムのような、全くかみ切れないカタ焼きそばでも、味噌だか醤油だかわからないインスタント味のラーメンでも、何日煮込まれたのかわからないカレーライスでもかまわなかった。
しかし、大人はいつだって僕らの敵だった。そんな僕らの小さな幸せすらも担任は打ち砕いたのだ。
「雪の影響で購買部の人も、学食の人もまだ来ていないんだ。ひょっとしたら今日は来ないかもしれない」
と。
僕はそれまでに、小説などによく表現されるような圧倒的な質量と圧力を持った感情というものに出くわしたことはなかった。それは表現上の手法であって、実在するモノではないと思っていた。
だが、そのとき教室内に一気に蔓延した「殺意」は、まさに圧倒的な質量と圧力をもって、ブーイングとともに担任にぶつけられた。もちろん僕もぶつけた中の一人だ。次いで「がっくしょく!がっくしょく!」というコールまで巻き起こった。
生徒達の熱心さというか殺意に気圧されて、担任は一端職員室に戻った。そして教壇には、教育実習中だった大学生(?)だけが残された。担任に「会議してくるからつないでおいて」とでも云われたのだろう。様々な意味でやる気を漲らせた僕ら生徒達を前に、彼は明らかに怯えていた。
もちろん学食&購買が機能しないのかもしれないことや、ましてや今日の天候などの責任が彼に1ミクロンでもあろうはずもない。だが僕らに対して「諸君らのやってきたことは無駄だったのだよ」というような言葉を投げた担任に対する恨みや負の感情を請け負うには十分だった。
しかも彼はそこに爆弾を投げた。投げてしまったのだ。
「じゃ、じゃあ時間もあるし、外で雪合戦でもやらないか?」
授業なぞそもそも重要視はしていない。だが、せっかく命がけで学校に辿り着いたのに授業はないわ、学食や購買は開かないかもしれないわ、挙げ句「雪合戦」と来たもんだ。
この教育実習生は、雷管付きのC4やTNTが満載された倉庫に、ご丁寧にガソリンをこぼしてから火のついたままのジッポーとタバコを落としたようなモノだった。そしてその火は、僕の怒イナマイトの導火線にも明らかに着火し、今や爆発させる機会をうかがうばかりになっていた。
僕は当時まだ十代の小僧っ子だったが、たかだか雪合戦の誘いに「…上等じゃねえか…」と言い放ちながら、ゆらりと立ち上がる応じ方をする人というのものを、それまで見たことがなかった。
その姿はまるで時代劇の「人斬り用心棒の先生」か、必殺技を出す前のお約束でやられまくって追い詰められた聖闘士(セイント)の様に見えた。つまり最高に出来上がった状態と云うことだ。
そしてそれから十数分後。瞬発的体力としてはピークを迎え、なおかつ雪中行軍でアップも済んでおり、怒りという名のエネルギーをも持てあました高校生達は、数人の教師と教育実習生を雪の降り積もる校庭で完膚無きまで叩きのめした。女子も手指が赤くなるのもかまわず弾薬の補給を手伝っていた。
おりしも雪が降る前の体育の授業はハンドボールであり、投げることに慣れ始めていた僕らは、雪原を飛び跳ねてはあらゆる角度から雪玉を投げつけていた。その姿はさながら雪原を舞う鬼のようであったという。
――「ちょっとした事件」級でしたよ。
戦闘には参加せずに、雪だるまを作成しながら観戦していた戦友が、後にそう語るほどの凄惨な現場であった。
この事件を境にしてか、たまたま時期があっただけなのかはわからないが、以来降雪時には早朝の段階で連絡が全員に回るようになり、学校正門付近までバス停が誘致されたという。
ついでに制服も替わり、今では自転車通学をする者は減少。真のチャリンカーなどは絶滅危惧種になっているような状態であるという。
昨日、雪が降った。そして少しだけ、積もった――。
黄金時代を過ごした、あの時代は遠くになってしまった――。
僕は埼玉の雪景色を見るたびに、そんなことを考えながら、あの雪の日に集った戦友達の笑顔と、教育実習生のオロカ面を思い出したりするのである。
それは雪の日の記憶。自然の厳しさと、理由なき反抗をしたがった若き日の記憶。結局学食は開かずに近所の駄菓子屋でカップラーメンにお湯を注いでもらって持ち帰った日の記憶。
そして教室中にスーパーカップバターコーン味の匂いが充満した日の記憶。当時想いを寄せていた女子から「一口ちょーだい!」なんて云われて、ひとすすりしかしていないカップラーメンを器ごとあげてしまった、そんな青くさい黄金時代の記憶なんである。