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■ 会話の妙。
最近の僕は人と話すことが好きだ。声に出して会話することが楽しくて仕方ない。もちろん相手と話題は選ぶが、話している時間が楽しい。正確にはそういう「機会」に恵まれているという事なのだろう。「機会」とは、相手と、話題と、場所などだ。
一人で仕事をしていると一日中口を開かないこともある。独り言はあまり出さないほうなので、なおさらだ。電話応対がある程度で、外部とのコミュニケイションはもっぱらメッセンジャーなどになる。だから滅多にやらない「声に出す会話」が楽しいのか、飢えているのかといえば、まるでそんなことはない。
偉そうな事を云ってしまうが、そもそも僕は無駄口や無駄話だけならば、あまり好きではない。昨日見たテレビの話、流行の音楽、ファッション、「流すだけの会話」ならしない方がいい。なにかしら方向性をもっていないとつまらないのだ。僕にとって会話は頭の体操なのだから。
内容が無駄話であっても「会話の相手を笑わせる」というような目的や方向性が定まっていれば、それはそれで非常に面白い。特定のタームや一定のフォーマットを織り交ぜて、無駄な内容はそれに散りばめられる装飾品でしかない。
自分の中で一番やりやすいのは、その場で特定のタームやキャッチボールのフォーマットを即席で作ってしまい、それを軸に話を進めるやり方だ。全く別の内容の話をしているのに、チェーンの様に色々な話題つなげて、軸に戻ってきたりする。しかも数十分から一時間くらいかけて。これがとにかく頭の体操になるのだ。
会話というものは積み木のようなものだと思う。文字が刻まれた形も不揃いで様々な積み木を乱雑に積み上げていった果てに、注意深くみてみると、それぞれの積み木に刻まれた文字が、とある言葉やタームを構成している、そんな会話が痛快だ。そこに笑いがあればなおよい。
アクセントやイントネーション、声色や表情、しぐさ。こういう自己演出の上に成り立つ会話は本当に愉快だ。常にそういう会話が出来る人間でありたい。頭を使わない会話は不要だ。
会話は言葉のキャッチボールはすなわち心のキャッチボール。出来るだけ快なる「タマ」を投げたいし受け取りたいモノだ。タマは霊(たま)であり珠(たま)。心と想いと意志であり、そして宝なのだから。
ちなみにここ最近の僕は なにかにつけて「おっぱい」の話に 戻ってきている傾向があります。 (まだまだ春ですから…)
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