じーらぼ!言戯道場 (G-LABO Gengi-DOJO) 管理人:みやもと春九堂(しゅんきゅうどう)

【 2005年05月27日-13:28 のつぶやき】

今まで本当にありがとう。


あたたかい日が続いている。

本を読み、散歩をして、キーボードを叩いたりする。そんな平穏な日々だ。

いつの頃からか『得る人生』から『捨てる人生』に折り返したような気がする。「すっかりお互い歳をとったなぁ」などと口にするような再会も関係もなくなり、ただただ空気のようにお互いが心地よい友人とだけ交流がある。

そんな平穏な日々だが、ここのところ時々咳が出る。若い頃から喉が弱かったので、なんでもない時でも咳をしていた。でもこの咳は明らかに風邪の咳だ。

――幾分、ここのところのあたたかさに騙されたかな。

壁にかかった暦を見れば、月の数字はフタケタに入って久しいのだ。昼はあたたかくとも、夜は冷え込む。薄着でいたつもりはないのだが、この歳になればどこで風邪を拾うかわかったものではないのだ。

咳をするたびに、時折背中が痛む。「どうにもよろしくないな」そんなことを独りごちながら、私はベッドへと向かう。昼から寝込むなんていうのは、どうにもよろしくないのだが起きていると少々辛いのだ。医者に行くのがいいのかもしれないが、どうにも億劫でいけない。

ふと携帯が鳴る。娘からだった。

「お父さん?今週末そっちに行こうかと思うんだけど。秋冬物の上着を買ったのよ。届けに行くから」

「ああ、そうか。ありがたいけど、宅急便で送ってくれ。ちょっと具合が悪くてな。風邪をうつしちゃいかんから」

「え?風邪ひいてるの?お医者さんにはいったの?」

「いやあ億劫でなあ。大したことはないと思うんだよ」

「なに云ってるの!すぐ支度してそっちに向かうから!」

「大袈裟だなぁ。平気だよ。横になっていればじきに治るさ」

「とにかく今から行きますからね」


娘に無理矢理引っ張られていった病院で、担当になった若い医者は私の身体を色々と検査したあと「風邪ですね」なんて結論を出した。

「だから云ったろう。大袈裟なんだよ」と娘に苦笑いしながら苦情を云う。娘は昔から変わらない、ふくれ面に歳を重ねたらしい安心した笑みを加えた表情を私に見せたが、医者の「といっても肺炎になりかけてますから、しばらく入院しましょうか」と云う言葉に、今度は血相を変えて心配をし始めた。

そして私の入院生活が始まった。


「慣れない環境に放り込まれたら、よくなるものもならないんじゃないか」なんていう軽口と愚痴と苦情をあわせた言葉を娘に繰り返し云うものの、一つ咳をするたびに二つ三つと重なり、ついつい身体を折ってしまう私の姿に、ここから頑として動かさないという彼女の方針を強めるだけだった。

朝、昼、晩、薬を飲まされ、食事も工夫をあまり感じないようなものばかり。栄養はあるのかもしれないが、好みの味付けではない。だから食欲もあまりなくなってくる。制限されているわけではないので、娘に差し入れを要求しようと思うのだが、思い浮かべただけで満足してしまう。

2週間経った頃だろうか。自分で痰をきれなくなってナースコールを押した時、そして咳き込んで二つ折りになった背中をさすってもらった時に、さすがの私も理解し始めていた。簡単に云えば私は衰弱していっているのだということを。


飲み薬の分量より点滴が多くなり始めた頃、それまで暇つぶし程度に見舞いに来ていた友人達だけではなく、どこから聞きつけたものか、久しぶりに会う顔ぶれが訪れるようになった。

ベッドを少し起こして話をする。昔話に花が咲くとはよく言うが、違う顔ぶれから「お互い歳をとったなぁ」なんていう言葉が繰り返されるたびに、私は自分の老いを否が応にも意識させられることになった。

それは当たり前の事なのかも知れないが、私はそれまでその台詞を出来るだけ聞かないようにすることで、折り返しを通り過ぎたはずの人生のどこかに杭を打ち込んで歩みを止めようとしていたのかも知れない。

しかし咳をする度に痛む背中、すっかり肉が落ちてしまった腕、萎えた足を見て「老い」だけではなく「衰弱」を意識する。そしてその先にある終着点も、私には見えるようになっていた。

不思議と恐怖はなかった。確かに咳をすれば痛みはあるし、苦しい。それは当然厭な感覚だ。忙しい中世話に来てくれる娘に申し訳ないとも思う。見舞いに来てくれる友人達や旧友達に、弱った姿を見せるのも心苦しい。それも厭な感覚だ。しかし、不思議と終着点の事を思う時、私は安らぎすら感じていた。


気がつけば暦は暮れに差し掛かっているようだった。というのも眼鏡をかけるのも億劫なので、近くにおかれた卓上カレンダーはよく見えないのだ。否、よしんば見えたとしても、いつ寝て、いつ起きているのかもわからない日々が続いているのだから、今が何日なのかはわからないのだが。

窓から見える冬枯れになった木立と薄暗い空だけが季節を感じさせる。今は冬なのだ、と。私も冬に近づいている。それは春を迎えることがない冬だ。だが、決して寒くはなかった。ただただ、私は終わるのだ。枯れて朽ちるように。それは自然の理なのだ。


声をかけられたときと、咳をするときだけ目を覚ます日々が続いた。目を覚ますたび、違う顔ぶれが霞んだ視界に入ってくる。声もすっかり遠くに聞こえるようになり、現実をみているのか過去を思い出しているのか、よくわからなくなっていた。

咳をしても、さして苦しくはなくなってきていた。耳にかけられたゴムと口にかけられた酸素吸入器かなにかが煩わしくて、私は二度三度首を振る。白い服を着た誰かが意を酌んでくれたのか、煩わしかったものを外してくれた。

誰かが私の手を握っている。あたたかい手だ。いつでも握っていたような、それとは違うような。優しくあたたかい感覚が私の左手を包んでくれている。


耳元で娘の声がする。私を呼んでいるのだろう「お父さん、お父さん」と二度ずつ続けて呼んでは、間をおいて、また繰り返す。しかしその声は遠く、私には娘がどこにいるかわからなかった。

顔を声の方向になんとか向けると、白い視界の向こうに見える人影があった。娘かと思ったが、そうではないらしい。目を擦りたかったのだが右手が錘を着けたように重くて、胸のあたりまで動かすのが精一杯だった。

白い霞が強い光なのだとわかり、私は目を細める。すると今までシルエットにしか見えていなかった人影の表情が鮮明に見えた。

妻だ。それも随分と若い。娘が生まれたばかりの頃だろうか、そんな頃の若い姿の妻がそこにいた。先に世を去って、もう何年前になるだろか。もうそれすらも思い出せない。現実なのか回想なのか、最早どうでもよかった。私はただ妻に再会出来たのが嬉しくて、思わず顔をほころばせた。


妻が最期を迎えた時、私は彼女の手を握りしめて何度も礼を云った。

――私にたくさんの幸せをくれてありがとう、本当に感謝している。ありがとう。ゆっくり休んでくれ。

それから、云えなかった言葉があった。

「きっと、また会おう」

一番最後に伝えたかった言葉だった。だが、涙と嗚咽がこみ上げて言葉にならなかった。そんな私を、妻はいつもの優しい目で見つめ返し、ほんの少しだけ私の手を握り返すと、ゆっくりと眼を閉じて逝ってしまった。

その妻が今目の前にいる。私の手を握ってくれている。現実でもそうでなくとも構わなかった。私は妻に再会できたことが何よりも嬉しかった。ここがどこであっても構わなかった。

「やあ、久しぶりだねぇ」

「君が逝ってしまった時に、また会おうって伝え損なったんだけど、こうして再会出来るとは思わなかったよ」

妻はただただ優しく微笑み返すだけだった。

「迎えに、来てくれたのかな。本当にすまないね。いつまでも君に頼りっぱなしで、どうにもいけない」

「今まで何度君に、ありがとうと云ったのかなぁ。君が逝ってしまったあの時も、何度も何度も、ありがとうって繰り返していたっけ」

私は頭をかいて苦笑する。妻は少し困ったような笑顔で、ゆっくりと顔をふると、気にしないでと云うように再び微笑む。その表情は娘そっくりだった。いや、勿論娘が妻に似たのだが。

「繰り返すと、言葉がすり切れるなんていうけれど、私の感謝はどれだけ繰り返したってすり切れることはないとは思うんだ。だから、折角再会出来たんだから、もう一度云わせてくれ」

少し照れくさくなる。そもそも妻と手を繋いだのはどれぐらいぶりだろう。居住まいを正した私は、妻の手をそれまでよりも少し強く握ると、しっかりと口を開いて、ちゃんと彼女が聞き取れるように、全霊を込めて彼女に伝えた。


「今まで本当にありがとう」


――云えた。

そう思った瞬間、身体がこれまでになく軽くなった。

妻の背後から射していた光が強くなる。

白が強くなり、強くなり続け、そして全てが白くなった。

私はあまりの白さと身体の軽さに、ほんの少しだけ驚いて目を伏せたが、妻のあたたかく柔らかな手が私を導いてくれたので、光に身を任せることにして眼を閉じた。

あとには、ただ穏やかさだけが残り、私を包み込んだ。


この世界に生まれて、82年と41日目の事だった。





なんか、こんな死に様と
最期の言葉らしいです。

「あなたがつぶやく最期の言葉」占いより)

【原文】明るくて、誰に対しても分け隔てなくつきあうことのできるあなたは、常に豊かな人間関係の中にいることでしょう。しかし一方でストレスに弱く躁鬱が激しいという一面も。でも精神的に不安定になったとしても自身の豊かな人脈に支えられ、あなたなら乗り切っていけることでしょう。 そんなあなたの最期はごく自然にやってきます。小春日和の続く時季、あなたは風邪をこじらせて病院へ。年齢が年齢なだけに回復は遅く、あなたはの体力はゆっくりと、しかし確実にに奪われていきます。そんな知らせを聞きつけ、あなたの旧友や娘、その家族があなたのもとに駆けつけますが、その甲斐ものなくあなたの最期はやってきます。そしてあなたはぼんやりと先立った妻を思い浮かべ、娘の手をとりこうつぶやきます。『今まで本当にありがとう』あなたらしい最期ですね。


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