■ 水とコーヒー #2

詳しい話、といっても僕が語るべき事というのはあまりなかった。というか、なにをどう語ったらいいのかわからないのだ。いや、細かく事を挙げればキリがないのだが、そうした気になる全てを語ろうと、思い当たることを様々思い浮かべると、言葉にしようとする前に恐怖がやってきてしまうのだ。

その“恐怖”は、別に先輩のいう「ツいている」モノやら得体のしれない何かについてのものじゃあない。もっと単純なことだ。「ただ神経質になっているだけじゃないか?」「少し疲れているんだよ。休みなよ」「俺の知り合いで同じようになってたヤツがいたけど、しっかり薬飲んでいれば治ってたよ」という、彼らの思う“心配”や“思いやり”だの“優しさ”だのといったオブラートに包まれた、哀れみと異常者を見る目に対する“恐怖”だった。

正直に云ってしまえば、霊だのなんだのよりも、そういう形で正常と異常の境界の向こう側に追いやられてしまうことの方が万倍も怖い。怖いのだ。いつのまにこんな風に怯える様になってしまったのかはわからないのだが、とにかくそれがなによりも怖いのだ。心配の言葉をかけられればかけられるほど平気だと軽口で応えてしまう。鏡を見れば自分でも呆れるほどに青ざめた顔で、無理矢理に笑顔を組み立ててしまう。だけどその裏には「俺は正常なんだ!!」という叫びを押し殺していた。

だから先輩に促されても、とてもじゃないが言葉が出てこなかった。なにかを云おうと喉元まで言葉を運ぶが、口から出そうになるのは「いや、大丈夫ですよ」という会話を成立しえないような意味不明の強がりになりそうになってしまう。僕は喘ぐ様に口をまごつかせながら、自分の目を見つめる先輩の目をただ見返すことしかできなかった。

「これは…ちょっと大変そうね…」

先輩は少しだけ困った様な表情を浮かべてから「でも大丈夫よ。そんなに悪いものではないみたいだから」と云うと僕の右肩を指輪もなにもしていない白い左手でぽんぽんと二度叩くと、手を肩においたまま「今日、この後は?」と聞いた。金曜日だったが、特に残業の予定も飲みにいく予定もないので、家に帰るだけだとやっとのことで応えると「じゃあ、早速ご飯に連れて行ってもらおうかな」と、年上らしい笑顔で云った。

肩に添えられた掌は温かくて、どういうわけか僕はひどく安心したように大きく「はい」と応えてから、思わず周りを見回してしまった。幸いなことに誰もこちらに注目している者はおらず、ほっと一息吐くと先輩は面白そうに「大丈夫だよ。大丈夫」と云い、また僕の肩をぽんぽんと二度叩いた。


それから3時間後の夜9時。僕は先輩に指示された通り一旦家に帰ってシャワーを浴び、私服に着替えてから待ち合わせ場所に立っていた。同じ市内にある、先輩の自宅最寄りの駅。そのタクシープール近くでケータイから到着した旨をメールで送る。ほどなく先輩がオレンジ色の軽自動車に乗って現れた。

「OK。キレイにしてきたね。さ、乗って乗って」

と助手席越しに僕に話しかける先輩は、化粧もすっかり落として(いや、しているのかもしれないが、昼の顔とは違った)、ざっくりとしたTシャツにジーパンという姿に着替えていた。

「なんかあべこべっすね」

「ん?なにが?」

「や、食事に誘ったの僕なのに。先輩に車出してもらって迎えに来てもらってって」

「あはは!そういえばそうねえ。でもまぁ必要なことだから」

「そうなんですか?」

「そうよー。それにほらちょっと時間かかるかもしれないからね」

「時間が…?」

「うん。だから車。心配しなくても帰りは送っていくから。B町でしょ?」

「え、いやいいっすよ。タクシー拾いますし」

「まーまーいいから。その代わりご飯頼むわよー」

「あ、任せてください。コンビニでおろして来ましたから」

「あははは!どんだけ食べると思ってるのよー?」

「あ、いや、そんな意味じゃ…」

「まぁまぁ。で、何食べたい?それとも任せてもらっていい?」

「あー…もちろん、お任せします。ここいら土地勘ないですし。先輩の食べたいものでいいっすよ」

「そう?それじゃあそこにしようかなー」

そんな会話や会社での四方山話をしながら車は見覚えのある番号をつけた国道へと進んでいった。十五分も走っただろうか。ついたのはどこにでもあるイタリアンチェーンのファミレスだった。

「え?ここでいいんですか?」

「そうよー。あら、イヤだった?」

「や、そんなわけじゃないすけど。結構よく来ますし」

「じゃ、いいじゃない。さーいくよー」

先輩はさっさとキーを抜いて車をおりてしまう。慌てて後を追う様に車を出ると、追いかけるようにファミレスへ入っていった。出迎えた店員に喫煙席か禁煙席かをきかれると、先輩は迷うことなく喫煙席の一番奥の席を指さして「あそこがいいな」と指定した。ちょっと強引なくらいの口調で。

「それではこちらへどうぞー」と案内されるままに、僕らはその奥まった席に陣取った。座ると早速先輩はメニューを広げて「なににしようかなー」などと暢気に云っている。僕はこれから始まる“なにか”に、ちょっとした怯えにもにた感情があったし、そもそもあまりよくしらない女性と食卓を囲む事も、これまで多くなかったので、そうした意味での緊張もあって、灰皿に手を伸ばした。

「ん?吸うの?」

先輩がメニューから顔を上げて訊ねたので、僕は躊躇して「あ、いや、いいすか?」と訳のわからない受け答えをした。

「どうぞー。あたしも吸うときあるから気にしないでいいわよ。でも食事中はNGね」

と笑いながら灰皿を勧めてくれる先輩に会釈しながら「もちろんですよ。俺も飯の間に吸われるのはイヤなんで」と返す。これだけで少し緊張がほどけた。ちょっとした共通点を見いだしただけで我ながら容易いもんだなと、少し自嘲気味の笑みが口元に浮かびかけた。


食事の間は他愛もない世間話に終始した。車に乗っていた間にカーステで流れていた音楽の話から、僕の契約している音楽専門チャンネルでそのアーティストのPVの特集を今度やるといった話になり、できればそれを録画しておいて欲しいなんていう頼みを受けたり、先輩の話を教えてくれた女子社員の話題から、食事を終える頃には、先輩自身の過去の話になっていた。

「別にそんなに特別なことじゃないのよね」

「や、十分特別だと思いますけどねぇ」

「そんな風に云うけど、100パーセント信じてる?」

「うーん…そういわれると…恐縮ですけど」

「そうよねえ。すごく普通の応えよ、それ(笑)。十分まとも」

「すみません…」

「謝ることじゃなわよー。気にしないでいいよ」

「でも、なんというか、信じることは出来るって感じがあります。これも正直なところです」

「そうね。君もそうだけど、私達の世代ってやっぱり中高あたりでそういうブームがあったじゃない?だから下知識として受け入れることができる素地はあるのよね」

「ええ。自分もなんとなく知識だけはあります」

「だから、あたしもその頃ようやく受け入れることが出来たのよね。なんていうか、自分の個性に名前がついたとか、そんな感じ。原因不明の病気に名前がつくと安心するっていうのあるじゃない。あれみたいなものね」

「なるほど…」

「特殊な能力とか、特別とかじゃないのよ。ただの個性だと思ってる。あたしからしたら、100mを10秒で走るとかの方がよっぽど特殊な能力よ(笑)。それどころか100m泳げるってだけでもね(笑)」

「お、先輩泳げないんですか?」

「珍しいイキモノでも見る様な目でいわないでよー。一応泳げたわよ。中学の25mプールはね」

「往復?」

「…片道よ」

「そりゃあ…」

拗ねた様な表情でポツリと小さく云った先輩の言葉に、思わず吹き出しそうになってしまった。顔を背けて口元の笑いを隠そうとしたが、先輩はめざとく「なかなかにひどいよねぇ…まぁいいから飲み物とってきてよ。オレンジジュース」と、姉が弟を使い走りさせるような口調で、ドリンクバーを指さすと僕を追い立てる様に手をふった。


先輩ご注文のオレンジジュースと、自分の分のジンジャーエールを持って席に戻ると、先輩はまだ少し拗ねた様な表情で「ありがと」と云ってから「人のことバカにしたけど、そういうキミはどうだったのよ?」と責め立てる様な口調で聞いてきた。

「一応普通に泳げますよ。今でも多分」

「どれくらい?」

「んー…その気になれば、まだ400くらいいけるんじゃないですかね。遠泳はしたことないんでわかんないですけど」

「足つかないで?!」

「足つかないで…って(笑)。そりゃそうでしょ、その為にターンとか練習するわけで」

「ちょっとなによー。経験者?水泳部かなんかだったの?」

「や、中高は別にやってなかったですよ。ただガキの頃肌が弱かったんで、水泳に通わされてたんですよ。スイミングスクールってやつです」

「なるほどねー。でもそんなの随分昔のことじゃない」

「あーいや、大学の頃ジムに通ってたりして、そこのプールでも泳いでたりしたんですよ。で、そのときも普通に流す感じで200くらいはイケたんで」

「しまったなぁ…なんかどんどん墓穴掘ってる気がする…」

「まぁ別に、どうということもないですよ。ガキの頃からやってたら、身体が覚えてるっていうか…そんな感じで」

そう宥める様に云うと、先輩はそれまでの少し拗ねた様な表情を変えて云った。

「そう、なのよね」

「え?」

僕は頭の上にクエスチョンマークを浮かべた様な顔で聞き返す。

「そうなのよ。そんなもんなの。あたしのも」

「…ああ!」

なるほど、そういうことなのか。僕は先輩の言葉の意味を理解して、深く頷いた。特殊な能力や特別なことじゃない。僕が泳げるように、先輩も“ミえる”のだ。僕はようやく先輩のもつ“個性”へのスタンスを理解した。先輩がこの会話の流れを意図したものなのかかどうかはわからなかったが、先輩はそんな僕の心情を見透かした様に、にっこりと笑った。

(C) G-LABO Gengi-DOJO.