■ 水とコーヒー #6(終)

先輩が戻ってきたら聞きたいことが沢山あった。話したいことも。一番の疑問はあの人が誰なのかということ、そして何故僕にツいていたのかということ。ただ「終わった」のだということは僕が一番よくわかっていた。

コーヒーからは湯気がゆっくりと立ち上っては空気に溶けていっていた。冷たい水の入ったグラスには湿気がまとわりついて、少しずつ水滴を浮かせていた。僕はそんな風景をぼうっと眺めながら、先輩の帰りを待つ。ほどなく「ただいま」という声とともに、向かいの席に先輩が滑り込んできた。

「ん?吸わなかったの?」

「あ、はい。なんか吸う気にならなくって」

「そう…」

なんとでもとれる返事をすると、先輩はコーヒーと水を一別してからもう一度僕の目を見て、優しく微笑んだ。

「そっか、吸わなかったか…」

「えと…それがなにか…」

「んーん、なんでもないわよ。でもね、ちょっと嬉しくなったかな」

「…?」

よくわからない。だが先輩は嬉しそうだった。嫌煙家ではないといっていたのに、タバコを吸わないで待っていた事が嬉しい?まるでわからない。その疑問も含めて先輩に様々な質問をぶつけようとしたのだが、それを悟った上で遮る様に、先輩は「あーお腹すいちゃったよ。ね、甘いものとか頼んでもいい?」と聞いてきた。勿論断る理由はなく、なんでも好きなものをどうぞ、とメニューを渡しつつ、僕は一番の疑問をぶつけてみた。

「先輩、あの…あの女の人って、誰だったんですか?」

「んー…このケーキがいいかな。こんな時間に食べるとアレかもしれないけどねー」

「や、その。教えてくださいよ先輩」

少し声が上ずってしまう。追求しなければ、なんとなくそのままはぐらかされてしまいそうな気がしたのだ。


「うーん…どうしても知りたい?」

先輩は少し困った様な表情を混ぜた微笑で僕を見返した。どうしても?確かにそういわれれば「終わった」今となっては、必要のないことなのかもしれなかった。これ以上はただの好奇心だ。だけど僕は見覚えもない女性にツかれていたわけで、被害者で…彼女は光の明るい方にいって、それで終わったかも知れないけれど、僕の方はどうしてももやもやとしたものが残ってしまう。だから僕は、あまり力強くはなかったが、黙って頷いた。

「そっか…まぁでも知る権利はあるかもね…」

そういうと呼び出しボタンを押して、店員にオーダーを伝えてそれを見送ってから、ため息を一つ吐いて、先輩は語り出した。

「これから話すことは、出来ればたとえ話として聞いてね」

「…はい」

「あのね、人生がさ、なんていうか不幸の連続とかでね、どうにもこうにもならなくなって絶望したときに、誰かの優しい言葉に励まされたら、その人に対してどう思うかな」

唐突な質問だった。

「うーん…よくわからないですけど、やっぱりありがたいって思いますよね。その言葉で励まされたのなら、ですけど。余計なお世話ってな事いうヤツもいますからね」

「うん。哀れみとか同情とかね。そういうのとはちょっと違うよね」

「そう思います」

数時間前までの僕自身がそうだった。

「本当に励まされたのよ。自らの命を絶とうとしたときに、その人の言葉でね。生きてみようって思ったの」

「…はい」

「でもね、やっぱりダメだったんだなあ。前向きになってね、歩き出そうとしたときに、また躓いちゃったんだよ。意志の弱さとかさ、そういうことじゃないんだよね。どうにもならないって思いこんじゃったら、本当にもうどうにもならないんだ。前の時は大事な言葉をもらってね、励ましてもらってね、なんとかなったんだけど、今度は戻れなかったんだって」

「…は…い」

「悲しいよねえ。残念だよねえ。でも、戻れなかったんだよ。だから自分の手で人生を終わらせちゃったの。でもさ、それは自分の人生だから、あたしはあんまり否定しないの。自殺をね、逃げだっていう人は多いけど、自分の人生の終着を自分の手で決めるっていうのは、自分にしか許されない権利だからね。悩んで悩んで、それで出した結論なら仕方ないと思うんだよね」

その点は僕も理解できた。出来れば自分の大事な人達にそんな選択はして欲しくはないし、そんな権利を行使して欲しくはないが、それでもなおその人がそれを選ぶのであれば、それを否定する権利は、僕にはないからだ。

でも――。


「でね、その子は自殺するときに泣きながら謝ったのよ。両親とか友達だった人だとかにね。それと一度死のうと思ったときに言葉をくれて励ましてくれた人に。ごめんなさい、ごめんなさいって。死んじゃってごめんなさいって」

返事をすることができなかった。僕はあれだけ泣いた後なのに、また頬を伝う熱に気がついていた。

「意識がなくなってね、命が終わる直前まで謝り続けてたの。だからね、明るい方にいけなくなって、その言葉をくれた人の方にいっちゃったんだって。それでね、ずっと謝り続けてたみたい。でも、それじゃどうにもならなくって、でもどこにも行けなくってね。今度はどうしようどうしようって泣いてたんだって」

先輩も涙を流していた。後半は嗚咽混じりになっていた。先輩は大きく鼻をすするとハンカチを取り出してまぶたをぬぐった。それから平静を取り戻そうと何度か深呼吸をして、黙り込む。すると少し困惑した様な声で「お待たせいたしました」と店員がケーキを運んできた。

僕は店員に泣き顔を見せまいと慌てて窓の方に顔を背ける。「ご注文の品は以上でおそろいでしょうか?」という無神経だが業務上仕方のない発言に先輩が応じ、店員は去っていった。


「でも…でも、僕は彼女に見覚えがありませんでしたよ。本当に知らない人だったんです」

「そうね。彼女の方もキミの顔は知らなかったと思うわ」

「…どういうことですか?」

「言葉にはね、力があるのよ。そしてそれを生み出した人の魂が宿るの」

そして付け加える。

「どんな形であってもね」

「形…?」

「そう、直接交わす声にだす言葉であっても、電話越しであっても、手紙なんかの文章であっても…」

一旦区切って窓の外をみる、そしてそれから僕の目を見て言葉を繋げた。

「…ネットの掲示板とかブログなんかであっても、ね」

「…!」


途端に僕の記憶がフラッシュバックした。数ヶ月前のことだ。あるブログのコメント欄で、さっき先輩の話した様な自殺についての意見のやりとりをしたことがあった。話題になった記事だったので煽りや荒らしも入り交じって議論は白熱。本記事のコメント欄にいくつものレスがついて混乱状態になったので、トラックバックを貼って自分のブログにも記事を書いた。

自分のブログなんていっても、主にくだらない日記やネットゲームについて書いてあるだけのものだ。ネトゲ仲間や身内だけが見に来るだけのような場所で、コメントも身内のものばかりだったが、その記事にだけは見慣れないハンドルネームの人からコメントがついていた。

一言だけ「ありがとう」と。


「どんな言葉で励ましたのかはわからないけど、言葉には力があるからね。そのときその人には、どんなに親しい人からの言葉よりも力づけられたのよ。でも、それを…彼女の言葉を借りれば“裏切って”しまったのね…最後に自らの命を絶ってしまったことで」

「そんな…」

僕はそれきり言葉を失ってしまった。放心したかのように視線を彷徨わせる。辿り着いたのはコーヒーと水だった。コーヒーはすっかり湯気が消え、水の入ったグラスは足下に滴が伝い落ちた水たまりを作っていた。


「だから、それが未練になっちゃったのね」

そういうと先輩は、テーブルの上に置きっぱなしになっていたポケットティッシュを一枚とって「失礼」といってから洟をかみ、それから「どうぞ」と今度は僕にも勧めた。操り人形のように勧められるがままに、僕も洟をかむ。涙をぬぐう。

「以上、たとえ話終わり」

「…はい」

「さ、いただきます。泣いたら余計にお腹空いちゃったわ。キミもなんか食べれば?」

「や…僕はいいです…」

まだ抜けてしまった心が戻らなかった。全く見知らぬ男の言葉で?しかもWeb上にごまんとあるブログの、その中でもほんの小さなブログの中の、その中のさらに一つのエントリーの中の、その中のさらに1タームだかなんだかの言葉で?そんなことがあるのか?ありうるのだろうか?

僕の頭の中は、その疑問で埋め尽くされていた。

「言葉にはね、力があるから。例えば一冊の小説が世界を変えることだってあるでしょ。聖書だって神の“言葉”だし、コーランだってそうでしょ。でもその言葉の数々が出された時は、ただの“言葉”に過ぎなかったのよ。誰の、だとか、どんな、だとかはあまり関係ないの。そのときその人にとって一番大切な言葉っていうのがあるものなのよ。それこそ人生…人の生き死にに影響を与える様な、ね」

疑問を見透かした様に先輩は語った。僕に対してというよりは、独り言のように。


 *   *   *


「それじゃ、ごちそうさまでした。まぁ土日はゆっくり休んでね。本調子にはほど遠いでしょうから」

「本当に、今日はありがとうございました」

「いいのよー。最初に声かけたのはあたしなんだし、しっかりごちそうになったしね」

「おろした分の十分の一でしたよ(笑)」

「あはは!そんなに高いものも食べないし、そんなに大食いでもないってば!」

「ええ、助かりました」

軽口を叩きながらシートベルトを外す。僕のアパート前に先輩のオレンジ色の軽が停まったとき、時間は既に夜の4時を大きく回っていた。はるか遠くの夜空が白みがかっている。あれからしばらくの間、また色々な話をした。例えば一度帰ってシャワーを浴びてから待ち合わせた理由だとか、あの国道沿いのファミレスを選んだ理由だとか。まぁそれは別の話だが、その間先輩はコーヒーと水には一切手をつけず、それは帰るまでそのまま放置されていた。

「先輩、最後にいくつか質問いいですか?」

「んー…さすがに眠いから、応えにくくないのならいいわよ」

「すみません…えと、あのコーヒーと水ってなんだったんですか?」

僕は一つめの質問をぶつけた。

「ああ…あれはキミの考えてる通りのものよ。彼女、コーヒー好きだったのよ。それとお水は、まぁご供養ね」

「ああ…なるほど」

今更ながら、先輩はそういう人なのだと、そして僕はそういう体験をしたのだと再認識した。続けてもう一つ。

「先輩がトイレにいって戻ったとき、僕がタバコ吸ってなかったのを嬉しそうにしてたのは?」

「あー…ほら、キミ云ってたじゃない『自分も食事中にタバコ吸われるのはイヤだ』って。だからよ。彼女の為に用意したいれたてのコーヒー。そのそばでタバコふかしちゃ、ね。キミは霊感なんかまるでないっていってたけど、それでもわかったんだなって思ったの」

「じゃあ…あのとき…」

「ん、大半は明るい方にいってたけど、まだ少し、ね。ああでも、未練とかじゃないのよ。お礼っていうか、感謝っていうか…そんな感じでね。あたしがケーキ食べ始めた頃には、すっかり上にあがっていたし」

「そうだったんですか…」

「うん。そうだったの」

ドアコックに手をかけ、僕は軽から降りようと身をかがめた。外にでて冷たい朝の空気を吸い込むとドアを再びしめる。先輩が窓を開けて「今日は昼過ぎまで寝てなさいね」と微笑みながら云う。

僕は「はい!」と返事をしてから、サイドブレーキを外して走り出そうとした先輩に、もう一度声をかけた。

「先輩!もう一つだけ、いいすか!」

「なーによもう。最後にしてよー?」

「はい!これで本当に最後です!あの、『いちにぃさーん・ごーろくしちはち』って、どんな意味だったんですか?」

「あー、あれはね。おまじないよー」

笑いながら応える。

「だから、どんな意味の?」

「数字に直せば簡単よー。1から9までで抜けてる数字はどれ?」

「4と9ですね」

「そうそう。4と9がない、つまり『死と苦はなし』って意味!」

「ああー…なるほど!」

「言葉にはね、力があるのよ!それじゃおやすみなさーい」

「あ、はい!ありがとうございましたー!」

ミラー越しに手を振りながら、先輩の車は交差点を曲がっていった。


(言葉には力がある…か…)

ひとりごちながらアパートの階段を登る。いままでのような絶望感も虚無感も不安感もない。疲労感はあったが、それもまたこのあとぐっすり昼過ぎ、いや夕方まで眠ればなくなるだろう。

本当はもう一つ先輩に聞きたいことがあった。

あの瞬間、彼女が光に包まれて消え去るとき。先輩と僕とに順々に頭を下げた彼女は、僕に対して、とても複雑な笑顔を見せた。そしてそのときに、口元が何かを伝えようと動いた気がしたのだ。

だけど僕には、彼女の言葉を聞き取る“個性”もなければ、読唇術が使えるわけでもない。だからそれが聞こえたであろう先輩に聞いてみたかったのだ。でも聞かなかった。なんとなくだけど、僕にもそれはわかったからだ。そしてそれでいい、そう思ったからだった。

あのとき彼女は僕に三つの言葉をいったのだと思う。


《ごめんなさい。ありがとう。さようなら》


アパートの鍵をあけると靴を脱ぎ捨て、一目散にベッドに倒れ込む。そして一気に押し寄せた眠気に身を委ねる。まどろみの中、僕は口の中で彼女と同じ三つの言葉を返すと、とても豊かな香りの温かいコーヒーの夢を見ながら、数ヶ月ぶりの深い眠りの中におちていった。


<了>

(C) G-LABO Gengi-DOJO.