【 2007年11月18日-19:07 のつぶやき 】
■ 水とコーヒー #5
両親の寝室は、畳敷きの六畳間だった。壁際にタンスが二つ。西側のベランダに続く窓。押し入れには布団と衣装ケース。ミシンなんかも入っていたと思う。タンスの一つは和箪笥で、母の着物なんかが入っていた。
だから両親の部屋は少し変わった臭いがしていた。樟脳の臭いと、畳の臭い。そして両親の臭い。僕はこの部屋が好きだった。この部屋の臭いが好きだった。そこには懐かしい原風景の一つがあった。
そのはずだった。
先輩に導かれるままに、そして先輩を導きながら辿り着いた僕の意識の中の両親の部屋。そこの襖を開けると、そこに広がる畳のこじんまりとした部屋の中央に、見知らぬ女性が俯せに倒れていた。先輩に「死体を探す」そう云われていたからというのもあるだろうが、一目に見ても彼女、いや“それ”が死体であることは明白だった。
長い髪、青白い肌、青ざめた顔。表情は見て取れない。血が流れているわけじゃない。大きな傷があるわけでもない。どこか身体に欠損部位があるとかそういうわけでもない。だが、そこにあったのは明らかに死体だとわかった。
「…っ!」
現実の世界で思わず息を呑む。先輩に握られていた手を翻して自分も先輩の手を強く握った。これは頭の中の出来事なのだと意識するために。そして叫び声を上げたくなるのをぐっとこらえて、必死に数を数えた。
(いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!)
「この人ね…」
先輩は優しく僕の手を握り返しながら呟いた。そして「…練炭かぁ…」とポツリと云った。練炭、ここ数年でよくニュースにあがる言葉だった。つまりこの人は練炭自殺したということなのだろうか。
「わかるんですか…?」
いささか驚いた口調で問うと、先輩は事も無げに「臭うからね…」と応えた。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん…そっか…」
僕は何も云っていない。先輩の独り言だった。ただ、奇妙な光景が僕の心の中には描かれていた。僕の意識の中にある僕の家。その両親の部屋に、見知らぬ女性の死体があるその部屋に、先輩が入ってきたのだ。現実の世界と同じ格好をしていたが、先輩は少し白いというか、なんというか全体的に明るい色をしていた。
そして女性の死体のそばにしゃがみ込むと、彼女の髪を指先でかきあげるようにして、頬を優しくなでるようにして、話しかけているようだった。
「うん…そうだねえ…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「ああ、そうなのか…でも、彼も困ってるからね…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
現実の世界で先輩の指が奏でる音は、まるで語りかけの言葉のように時に緩やかに、時に強く、そして優しく繰り返される。その光景と音に包まれていると、少しずつショックと恐怖が薄らいでいくのがわかった。ああ、大丈夫だ、そう思えてくる。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん。そうだね。いきかたは教えられるから大丈夫だよ」
まだ独り言は続いていた。いや、先輩は彼女と話をしているのだろう。それは僕には出来ないし聞こえないことなのだ。
ふと、意識の中の方の先輩が僕を振り返る。そして現実の世界の方の先輩が言葉を口にした。
「西側の窓ってどっちかな?」
「あ、ああそこの窓が丁度そうです。もしくは姉貴の部屋か居間か。いずれにしてもベランダ側が西のはずです」
「そっか、じゃあ中に入ってカーテンを開けてくれる?それから窓も開けてね」
躊躇した。意識の中の出来事とはいえ、死体のある部屋に入るのは怖かったのだ。それがしかも自分にツいている相手ともなれば、余計だ。だが現実の世界の先輩が僕の手を優しく握り、大丈夫だと声をかけてくれる。もう先輩の言葉を信頼するしかない。僕はありったけの勇気を振り絞って部屋に入ると、あまり死体の方を見ない様にしながら窓側に回り込む。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
先輩のリズムに合わせて、今度はまるでお経を唱えるかの様に数字を繰り返す。そうしてカーテンに手をかけると一気に開いた。
不思議な風景だった。記憶通りならば、そこは向かいの団地がみえるはずだったが、そこに見えたのは白い風景。見たこともない様なひたすら白い世界だった。いや、白いだけじゃない。その白は光の白だった。惚けた様に窓を開けると、背後から先輩が呼びかけた。
「こらこら、キミはまだいっちゃだめだよ。やることあるんでしょう?」
我に返った様に振り返る。すると、先輩の横に女性が立っていた。ああ、この人がさっきの死体の人なのだ。左右に分けられた長い髪の向こう側の顔は、うつむいていたので表情はよく見えなかったが、それでも見覚えのある顔ではないことだけは確かだった。
「さぁ、じゃあ彼女に道を空けてあげてね。これから少し長い旅になるから、見送ってあげましょう」
先輩の声に従って数歩後ずさる。
「さ、じゃああの明るい方にいってね。迷わないように。大丈夫だから」
先輩の声は優しかった。さするように死体だった彼女の背中をさわると、彼女は先輩の方へ軽く会釈をして窓に向かって歩き始めた。入れ替わる様に後ずさりのまま、僕が今度は先輩の隣に並ぶ。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
窓の前に立った彼女は、今度は居住まいを正して顔をあげた。もう恐怖心はなかった。だがやっぱりその顔に見覚えはなかった。
彼女は先輩にまず深々と頭を下げ、それから今度は僕に向き直って頭を下げた。顔を上げると、そこには何ともいえない悲しみと複雑な感情をたっぷりと含ませた笑顔があった。窓の外からの光で表情はよくみえなかったけど、確かに彼女は微笑んでいるのだとわかった。
「さぁ。キミも彼女が明るい方にいけるように数えてね」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
それから西側の窓の光が強くなり、段々と視界を白に染めていく。彼女の姿がかき消されるように光に包まれ、それから部屋が光に染まり、最後に僕と先輩も白くなったところで、現実の先輩がそれまで数を刻んでいた左手で、強く優しく握りあっていた僕らの左手と右手の上に、その掌を重ねた。
「終わったよ」
それは目を開けていいという意味を含んだ合図だった。どれだけそうしていたのかはわからないが、現実世界は深夜のファミレスで、先輩はさっきと同じ服装で僕の目の前に座っていたし、僕の手を握る手は白く、そして温かかった。
「終わったよ」
先輩はもう一度云った。それは現実の世界での先輩の言葉で、なぜだかはわからないが、本当に終わったのだと、僕にもわかっていた。身体に取り憑いていた違和感や不安感がない。ただ全身にぐっしょりと汗をかいてはいたが、それも不快ではなかった。
僕の手を握っていた先輩の手から力が抜ける。はっとしたように僕も手を引くと、照れ隠し紛れに鼻をこすろうとした。途端にその感触に驚く。濡れているのだ。顔が。それは汗ではなかった。明らかに汗ではなく、僕はいつのまにか泣いていたのだった。
悲しいわけでも、痛みがあるわけでも、恐怖していたわけでも、感動したわけでもなかった。いや、自分の身に起きたことと先輩の“個性”という力に驚きはしていたが、それが理由ではなかった。ただ僕は泣いていたのだ。わけもなく。
そして泣いていることに気づいたとき、僕はどうしてもその感情を抑えることができなくなっていた。
「ああ…」
それだけ呟くと口元がわなわなと震えた。そして僕はそれから泣いた。大泣きに泣いた。ひたすらに涙をこぼして嗚咽した。深夜を回ったファミレス、その一番奥まった席の周りには誰もいないことが幸いだった。いや、誰かが周りにいたとしても僕は泣き続けただろう。声をあげることだけはしなかったが、それでも僕はひたすら泣き続けた。
どれだけ泣いただろうか。10分か20分か。ようやく落ち着いたが人間とは厄介なもので、涙を出せば洟もでてしまう。テーブル状のペーパータオルで洟をかもうとしたのだが、手を伸ばそうとすると先輩が「使いなさい」とポケットティッシュとハンドタオルを差し出してくれた。「別に返さなくていいからね」と笑って付け加える。その声と表情はどこまでも優しく、それがまた僕の“泣き”を延長させた。
今度こそようやく落ち着くと、先輩は「もう大丈夫かな?」と少し軽口のような口調で僕に尋ねた。
「…大丈夫です。すみません、なんかよくわかんないんですけど、取り乱しちゃって」
「うん。大丈夫よ。キミみたいなタイプは、そうなんだってわかってるから」
「…どういうことですか?」
わけがわからなかった。
「んー…その前に、もう大丈夫なら飲み物とってきてくれないかな。キミも喉乾いたでしょ?」
「あ、はい…先輩なにがいいですか?」
「あったかいコーヒーとお水をお願い。あ、いっぺんには持てないか。あたしもいくよ」
そういって先輩も席を立つ。2人でドリンクバーに向かうと、僕はコーヒーマシンの前でスイッチを操作してホットコーヒーを入れた。ガーッというミルの粉砕音を聞きながら、タンブラーからよく冷えた水をグラスに注ぐ。
「ウーロンでいいのかな?」
先輩の声に頷くと、先輩はさっきまで自分が飲んでいたオレンジジュースを左手に持って右手でドリンクバーを操作しながら烏龍茶をグラスに注いでいた。
こうして僕らは合計四つのグラスを手に一つずつもって、また奥まった四人がけの席に戻った。先輩は僕の方に烏龍茶のグラスをおき、そして自分の前にオレンジジュースをおいた。僕は自分の両手に持っていたホットコーヒーと水をどうすればいいのかわからず、とりあえず先輩と僕の真ん中に置こうと思ったのだが、先輩はそれを察したのか場所を指示した。
「ああ、それはね、窓際の方に並べておいといてね。あたしちょっとトイレにいってくるから、まぁ飲んで落ち着いてて。一服してもいいし」
なんともサバサバした態度で、先輩は席につかずポーチを持つと化粧室へと向かった。そんな先輩の背中を見送ってから、テーブルの上に置きっぱなしにしていたタバコとライターに目を落としたが、何故か吸う気にはなれず、僕はメニュー立てやら店員呼び出しボタンが置いてある前に並べられたコーヒーと水を見て、ぼうっと頬杖をついて先輩の帰りを待っていた。
だから両親の部屋は少し変わった臭いがしていた。樟脳の臭いと、畳の臭い。そして両親の臭い。僕はこの部屋が好きだった。この部屋の臭いが好きだった。そこには懐かしい原風景の一つがあった。
そのはずだった。
先輩に導かれるままに、そして先輩を導きながら辿り着いた僕の意識の中の両親の部屋。そこの襖を開けると、そこに広がる畳のこじんまりとした部屋の中央に、見知らぬ女性が俯せに倒れていた。先輩に「死体を探す」そう云われていたからというのもあるだろうが、一目に見ても彼女、いや“それ”が死体であることは明白だった。
長い髪、青白い肌、青ざめた顔。表情は見て取れない。血が流れているわけじゃない。大きな傷があるわけでもない。どこか身体に欠損部位があるとかそういうわけでもない。だが、そこにあったのは明らかに死体だとわかった。
「…っ!」
現実の世界で思わず息を呑む。先輩に握られていた手を翻して自分も先輩の手を強く握った。これは頭の中の出来事なのだと意識するために。そして叫び声を上げたくなるのをぐっとこらえて、必死に数を数えた。
(いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!)
「この人ね…」
先輩は優しく僕の手を握り返しながら呟いた。そして「…練炭かぁ…」とポツリと云った。練炭、ここ数年でよくニュースにあがる言葉だった。つまりこの人は練炭自殺したということなのだろうか。
「わかるんですか…?」
いささか驚いた口調で問うと、先輩は事も無げに「臭うからね…」と応えた。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん…そっか…」
僕は何も云っていない。先輩の独り言だった。ただ、奇妙な光景が僕の心の中には描かれていた。僕の意識の中にある僕の家。その両親の部屋に、見知らぬ女性の死体があるその部屋に、先輩が入ってきたのだ。現実の世界と同じ格好をしていたが、先輩は少し白いというか、なんというか全体的に明るい色をしていた。
そして女性の死体のそばにしゃがみ込むと、彼女の髪を指先でかきあげるようにして、頬を優しくなでるようにして、話しかけているようだった。
「うん…そうだねえ…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「ああ、そうなのか…でも、彼も困ってるからね…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
現実の世界で先輩の指が奏でる音は、まるで語りかけの言葉のように時に緩やかに、時に強く、そして優しく繰り返される。その光景と音に包まれていると、少しずつショックと恐怖が薄らいでいくのがわかった。ああ、大丈夫だ、そう思えてくる。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん。そうだね。いきかたは教えられるから大丈夫だよ」
まだ独り言は続いていた。いや、先輩は彼女と話をしているのだろう。それは僕には出来ないし聞こえないことなのだ。
ふと、意識の中の方の先輩が僕を振り返る。そして現実の世界の方の先輩が言葉を口にした。
「西側の窓ってどっちかな?」
「あ、ああそこの窓が丁度そうです。もしくは姉貴の部屋か居間か。いずれにしてもベランダ側が西のはずです」
「そっか、じゃあ中に入ってカーテンを開けてくれる?それから窓も開けてね」
躊躇した。意識の中の出来事とはいえ、死体のある部屋に入るのは怖かったのだ。それがしかも自分にツいている相手ともなれば、余計だ。だが現実の世界の先輩が僕の手を優しく握り、大丈夫だと声をかけてくれる。もう先輩の言葉を信頼するしかない。僕はありったけの勇気を振り絞って部屋に入ると、あまり死体の方を見ない様にしながら窓側に回り込む。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
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先輩のリズムに合わせて、今度はまるでお経を唱えるかの様に数字を繰り返す。そうしてカーテンに手をかけると一気に開いた。
不思議な風景だった。記憶通りならば、そこは向かいの団地がみえるはずだったが、そこに見えたのは白い風景。見たこともない様なひたすら白い世界だった。いや、白いだけじゃない。その白は光の白だった。惚けた様に窓を開けると、背後から先輩が呼びかけた。
「こらこら、キミはまだいっちゃだめだよ。やることあるんでしょう?」
我に返った様に振り返る。すると、先輩の横に女性が立っていた。ああ、この人がさっきの死体の人なのだ。左右に分けられた長い髪の向こう側の顔は、うつむいていたので表情はよく見えなかったが、それでも見覚えのある顔ではないことだけは確かだった。
「さぁ、じゃあ彼女に道を空けてあげてね。これから少し長い旅になるから、見送ってあげましょう」
先輩の声に従って数歩後ずさる。
「さ、じゃああの明るい方にいってね。迷わないように。大丈夫だから」
先輩の声は優しかった。さするように死体だった彼女の背中をさわると、彼女は先輩の方へ軽く会釈をして窓に向かって歩き始めた。入れ替わる様に後ずさりのまま、僕が今度は先輩の隣に並ぶ。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
窓の前に立った彼女は、今度は居住まいを正して顔をあげた。もう恐怖心はなかった。だがやっぱりその顔に見覚えはなかった。
彼女は先輩にまず深々と頭を下げ、それから今度は僕に向き直って頭を下げた。顔を上げると、そこには何ともいえない悲しみと複雑な感情をたっぷりと含ませた笑顔があった。窓の外からの光で表情はよくみえなかったけど、確かに彼女は微笑んでいるのだとわかった。
「さぁ。キミも彼女が明るい方にいけるように数えてね」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
それから西側の窓の光が強くなり、段々と視界を白に染めていく。彼女の姿がかき消されるように光に包まれ、それから部屋が光に染まり、最後に僕と先輩も白くなったところで、現実の先輩がそれまで数を刻んでいた左手で、強く優しく握りあっていた僕らの左手と右手の上に、その掌を重ねた。
「終わったよ」
それは目を開けていいという意味を含んだ合図だった。どれだけそうしていたのかはわからないが、現実世界は深夜のファミレスで、先輩はさっきと同じ服装で僕の目の前に座っていたし、僕の手を握る手は白く、そして温かかった。
「終わったよ」
先輩はもう一度云った。それは現実の世界での先輩の言葉で、なぜだかはわからないが、本当に終わったのだと、僕にもわかっていた。身体に取り憑いていた違和感や不安感がない。ただ全身にぐっしょりと汗をかいてはいたが、それも不快ではなかった。
僕の手を握っていた先輩の手から力が抜ける。はっとしたように僕も手を引くと、照れ隠し紛れに鼻をこすろうとした。途端にその感触に驚く。濡れているのだ。顔が。それは汗ではなかった。明らかに汗ではなく、僕はいつのまにか泣いていたのだった。
悲しいわけでも、痛みがあるわけでも、恐怖していたわけでも、感動したわけでもなかった。いや、自分の身に起きたことと先輩の“個性”という力に驚きはしていたが、それが理由ではなかった。ただ僕は泣いていたのだ。わけもなく。
そして泣いていることに気づいたとき、僕はどうしてもその感情を抑えることができなくなっていた。
「ああ…」
それだけ呟くと口元がわなわなと震えた。そして僕はそれから泣いた。大泣きに泣いた。ひたすらに涙をこぼして嗚咽した。深夜を回ったファミレス、その一番奥まった席の周りには誰もいないことが幸いだった。いや、誰かが周りにいたとしても僕は泣き続けただろう。声をあげることだけはしなかったが、それでも僕はひたすら泣き続けた。
どれだけ泣いただろうか。10分か20分か。ようやく落ち着いたが人間とは厄介なもので、涙を出せば洟もでてしまう。テーブル状のペーパータオルで洟をかもうとしたのだが、手を伸ばそうとすると先輩が「使いなさい」とポケットティッシュとハンドタオルを差し出してくれた。「別に返さなくていいからね」と笑って付け加える。その声と表情はどこまでも優しく、それがまた僕の“泣き”を延長させた。
今度こそようやく落ち着くと、先輩は「もう大丈夫かな?」と少し軽口のような口調で僕に尋ねた。
「…大丈夫です。すみません、なんかよくわかんないんですけど、取り乱しちゃって」
「うん。大丈夫よ。キミみたいなタイプは、そうなんだってわかってるから」
「…どういうことですか?」
わけがわからなかった。
「んー…その前に、もう大丈夫なら飲み物とってきてくれないかな。キミも喉乾いたでしょ?」
「あ、はい…先輩なにがいいですか?」
「あったかいコーヒーとお水をお願い。あ、いっぺんには持てないか。あたしもいくよ」
そういって先輩も席を立つ。2人でドリンクバーに向かうと、僕はコーヒーマシンの前でスイッチを操作してホットコーヒーを入れた。ガーッというミルの粉砕音を聞きながら、タンブラーからよく冷えた水をグラスに注ぐ。
「ウーロンでいいのかな?」
先輩の声に頷くと、先輩はさっきまで自分が飲んでいたオレンジジュースを左手に持って右手でドリンクバーを操作しながら烏龍茶をグラスに注いでいた。
こうして僕らは合計四つのグラスを手に一つずつもって、また奥まった四人がけの席に戻った。先輩は僕の方に烏龍茶のグラスをおき、そして自分の前にオレンジジュースをおいた。僕は自分の両手に持っていたホットコーヒーと水をどうすればいいのかわからず、とりあえず先輩と僕の真ん中に置こうと思ったのだが、先輩はそれを察したのか場所を指示した。
「ああ、それはね、窓際の方に並べておいといてね。あたしちょっとトイレにいってくるから、まぁ飲んで落ち着いてて。一服してもいいし」
なんともサバサバした態度で、先輩は席につかずポーチを持つと化粧室へと向かった。そんな先輩の背中を見送ってから、テーブルの上に置きっぱなしにしていたタバコとライターに目を落としたが、何故か吸う気にはなれず、僕はメニュー立てやら店員呼び出しボタンが置いてある前に並べられたコーヒーと水を見て、ぼうっと頬杖をついて先輩の帰りを待っていた。