■ 雨、光、亀裂。

その日の夕方、当たり前のように八月の空は曇り始めた。

「一天にわかにかき曇る」なんていうセリフだか歌詞だかを、以前どこかで聞いたことがあるような気がするが、窓の外、そこに拡がる空ばかり見ていた僕は、そのセリフだか歌詞だかの情景をリアルタイムに目撃することになった。


遠くで雷鳴が聞こえる。

ゴロゴロというありきたりの表現のしか出来ないような音。空はどんどん黒くなり、薄墨を落とした水のようになり始めた。

音が近づいた。

そう思った次の瞬間には窓ガラスを大きめの水滴が叩き始めた。きっと窓を開ければ、外に出れば、彼女が好きだと云っていた「雨の匂い」、正確に云えば「日に焼けたアスファルトが雨に濡れた匂い」を胸一杯に吸い込む事が出来るのだろう。

だけど僕は窓を開けることも、外に出ることもしなかった。ただ無感動に窓を濡らす雨粒をみているだけだ。

雲の向こうにストロボを焚いたような光がみえた。数秒後に雷鳴。確実に雷は近づいてきているようだ。


――いっそのこと、そこかしこに落ちりゃあいいんだ。

もちろん一番に落ちて欲しいのは自分の身なのだが、僕はそんな悪態を口の中で吐いた。「雷を落とす」なんて言葉にしてしまうと、叱られたり怒号を浴びるというような意味になるが、別段それでもよかった。

この怠惰で無意味で、腐臭さえ漂うな状況。それを一変させてくれれば、それだけでよかったのだ。なんだってよかったのだ。


僕は相変わらず窓を見ていた。窓を見てため息を吐いていた。それから窓の外へと焦点を動かす。灰色の空、灰色の雲、時々の稲光、それから雷鳴。その向こうの空も、日が沈んで暗くなりはじめているのだろう。灰色の空は蒼さを増していた。

死人の顔色のようだ。

そんなことを思ったのは暗くなった外の風景を透過する窓に、自分の顔が映ったからだ。どれだけの間ぼうっとしていたのか、僕の顔は次第にくっきりと窓に映り始めた。

雨雲と夜とがもたらす蒼と黒が強くなれば強くなるほど、僕の顔は鮮明に窓に映る。だからといってどうということもなかった。

雨はいつか止むし、夜はいつか明ける。そうしてまた無為な一日が始まって、無為に過ぎていくだけのことだ。しかも動かない僕にとっては、それは地球が自転し続けているからというだけのものであって、僕にとっては「一日」は始まりもしなければ終わりもしないのだが。


雨は止む気配を見せなかった。

暗い蒼。蒼い曇天。

雨はますます強さを増していて、屋根や窓を叩く音がうるさいくらいだ。時計を見ることもなければ、灯りをつけることもせず、トイレにいくこともなかった、寝返りや姿勢を変えることすらしない。ただ窓を、否、窓に映った自分の顔を見続けていた。

随分目が慣れてきたのか、窓に映った僕の顔を叩く雨粒一つ一つがはっきりと見えるようになっていた。そして窓に映った自分の顔の目にあたる雨粒を見ては、泣き顔のようになりはしないかなどと考えたりしていたが、無表情に僕を見返す僕は、やはり無表情なままだった。


不意に窓の外が光った。稲光だ。まだ続いていたのかと思うまでもなく、今度は雷鳴が轟いた。

――近いな。

そう独りごちようとした瞬間、窓に光の亀裂が走った。僕の顔に亀裂が入った。そうしてすぐに再び雷鳴。「ど・どーん」という大音が空に響く。窓に映った僕の顔は、少し驚いた顔をしていた。いや、どちらかといえば間の抜けた顔、かもしれない。

僕の網膜には先ほどの稲妻が、未だしっかりと焼き付いていた。天井灯を消した直後、瞼の裏に見える残像のように。二・三度瞬きしたのだが、残像は消えなかった。瞼を閉じて開くたびに、窓に映った僕の顔に稲妻の亀裂が入る。

もう一度瞬きをしたら、残像が遠くなったような気がした。だから僕は身体を起こして、その残像へと手を伸ばしてみた。しかし亀裂は窓ガラスの向こうに行ってしまったようだった。

もう一度だけ瞬きすると、窓から僕を覗き込む、知らない顔をした男の眉間のあたりに亀裂は遠のいてしまった。


――だめだ、行ってしまう。

何故か僕はその稲光の残像が、今のこの腐った状況を変えてくれる何かだと思いこんでいた。

あの光を逃しちゃいけない。

そう思うと同時に、窓の向こうの男が拳を固めて窓に殴りかかった。鈍い衝撃音。

もう一度。どういうわけか僕も拳が熱くなった。手首も挫いたように痛む。そしてもう一度。窓がひび割れて、窓の向こうの男の姿が一瞬消えた。

目をこらすと、男は狂ったような表情で今一度拳を振り上げた。身体ごと勢いをつけて殴りかかる。


――なにやってるんだコイツ。

そう思うまでもなく、窓に拳がめりこみ、今までとは違う衝撃音とともに、男の姿は消えた。途端に冷たく湿った空気が部屋に流れ込んでくる。窓ガラスが割れたのだ。斜めに窓を叩いていた雨が、今度は部屋の中に入ってきた。

僕はといえば、上半身の右半分が外に出てしまっているような状況だった。熱を持った拳と手首が雨に濡れて冷たい。腕を引き戻すと、窓枠からずり落ちてきたガラスが、腕を少し切りつけて、それがら床に落ちて割れた。

なにをどうしようもなかった。瞼を閉じても、光の亀裂はもう見えなかった。でも確かに状況は変わった。あの雷は僕に落ちてくれはしなかったけれども、確かにこの状況を変えてくれたのだ。


手指と腕が痛む。手探りで携帯電話を探すと、その薄ぼんやりとした灯りで、自分の腕を調べてみた。濡れた指の皮膚が何カ所か破けて、血が滲んでいるようだ。腕にも傷が何カ所かある。

だが別段どうということもなかった。僕は携帯電話を左手に握ったまま、歩くと部屋の灯りをつけた。ちかちかとうるさい光に顔をしかめて目を閉じる。それからゆっくりと目を開けると、いつもと変わらぬ部屋が照らし出された。


手首を伝う温みに気づいて腕を見ると、腕の内側がざっくりと切れていた。痛みを感じないのがおかしいくらいだ。ふと気がついて、今まで自分の歩いて来た床をみてみると、点々と紅い印がついている。

僕は苦笑しながら、その印を目で辿った。視線の辿り着いた先は、僕がさっきまで寝っ転がっていたベッド、その向こうには割れた窓。

僕は自分の血痕を目印にするように下だけを見ながら、狭い部屋をベッドの方へと歩く。そしてベッドまで辿り着くと、電灯に照らし出された、雨が降る前と変わらぬ光景に溜め息を一つついて、左手の携帯電話を開いた。

そして数字ボタンを順序よく、しっかりと押す。

間違えようのない、一度もかけたことがない短い番号。


それから受話部分を耳にあてて、数コールの後に出た相手に、事務的な声で伝えた。


「恋人を殺しました。住所は…」


無感動に用意されていた台詞を口にする僕の視線の先にはベッド。そしてその下には、確かに数時間前まで僕の恋人だったものが転がっている。


部屋には、割れた窓から吹き込んできた「雨の匂い」が充満していた。彼女が好きだと云っていた「雨の匂い」が。

僕は電話を切って彼女の側にしゃがみこむと「よかったね」と呟いてその髪を撫でた。

割れた窓ガラスから吹き込んだ雨が、硬くなった頬を濡らして、彼女は泣いているように見えた。だから僕は少しだけ悲しくなって、溢れた涙を拭うと割れた窓を見上げる。

空に走った光の亀裂は、この、どうしようもなくなった世界とは「違う世界」に繋がっているはず。だから僕は次の稲光が来るのを待ち続けた。今度はガラスはない。

だからそのまま飛び込めば、また彼女とやり直せるはずなのだ。

そう信じて、僕はいつまでも光を待ち続けた――。



たまにこういうの書くと心配されるんですが
僕自身は心身共に健康ですよ?

(「極度の肥満」と「ダーツのやり過ぎ」以外はね?)

(C) G-LABO Gengi-DOJO.