じーらぼ!言戯道場 (G-LABO Gengi-DOJO) 管理人:みやもと春九堂(しゅんきゅうどう)


【過去のつぶやき】
 2003年11月の【家元のつぶやき】のバックナンバーです。

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2003年11月のバックナンバー

気がつけば(2003年11月05日-01:23)
友達の友達の話[春九堂の場合#4](2003年11月05日-13:35)
さくぶん(2003年11月06日-21:18)
〆切地獄(2003年11月10日-21:03)
あっちでもそれかぃ!(2003年11月14日-22:25)
ノー!(2003年11月17日-08:10)
ウルフになる為に 〜そのニ〜(2003年11月18日-16:03)
「おくにことば」なお話(2003年11月19日-23:10)
思い出の池袋#1(2003年11月24日-13:04)
思い出の池袋#2(2003年11月25日-18:42)
思い出の池袋#3(2003年11月26日-04:58)
手を抜いてしまおう(2003年11月29日-06:36)


気がつけば




まぁいいじゃん。


ハッピーバースデートゥーミー。


よろしく。28歳の僕。





[ 2003年11月05日-01:23 ]  



友達の友達の話[春九堂の場合#4]


智史君。もう諦めようか。僕らの友達の友達の話は、何処まで行ってもシモの方面から離れられないみたいだからね。そろそろ僕も腹をくくろうかと思っているんだ。

それにしても智史君、きみ達やりすぎ。「おはようございますアタック」は確かに一人暮らししているダチへの定番攻撃かもしれないけれども、わざわざビデオカメラ持っていかないし(むしろ持ってないし)、全裸で玄関に向かって寝て待つなんて男レベル高過ぎるよ。

まぁそんな智史君の友達の友達たちには敵うべくもないんだけれども、僕の方も話をしようかと思う。

これは僕の友達の友達の話なんだけどね。

そいつ、仮にとしておくけど、そいつはガキの頃から格闘技やっていて大学の時にとある道場に入門したんだよね。そこは流派とかを決めているわけじゃなくて、総合的な格闘技を教えてくれるところで、本当に色々なバックボーンを持っている人達が集まってたんだよ。極真空手、講道館柔道、テコンドー、ボクシング、少林寺拳法、古流柔術なんてのもいたって。

で、その中でもSは身体はデカイし、そこそこ経験も長い方だったんだけど実力はもう下の下だったらしいのね。本当に猛者ばかりの集まりでさ。

同じくらいの年代で5人くらい仲のいい人がいたんだけど、中でもKさんっていうのは、身長180cm超で、極真空手の黒帯で柔道も黒帯という猛者だったのね。でKさんと同じ大学のHさんは大学で躰道(たいどう)っていう格闘技をやっている人で、とにかくこの二人は滅茶苦茶に強かったんだよね。

まぁどのくらい強かったかというと、うーん…そうだなぁ。「逆らっちゃいけない」くらい?いや別にイジメがあったとかシゴキがあったとかそういうことじゃないし、2人とも明るくて面白くてすごくいい人なんだけど、「何かあったとき止められるヤツがいない」とでもいえばいいのかなぁ。とにかく半端なく強かったんだよ。


で、この話はSが入門してから2年くらい経った夏の事なんだけど、最強Kさんと、準最強Hさんの呼びかけで合宿に出かけることになったのね。行く先は千葉県某所の施設で、日程は3泊4日。参加者は最強Kさん準最強HさんSと同期のT君後輩のMの5人。

合宿といっても、まぁ遊び半分ってところで格闘技のビデオもちよったり酒もちよったりしつつ、朝から昼まで練習して暑い時間はビデオ鑑賞で研究しつつ、夕方は研究を反映しながらの練習で、夜は飲み会というスケジュールだったんだけど、事件は三日目の夜に起こったんだ。


一日目、二日目はそこそこ何事もなく終わったんだけど、三日目はもうみんなヘトヘトだったし、疲れとかそういうのから頭がおかしくなっていたんだと思うんだよね。そもそも夕方の時間に観たビデオとか「少林寺三十六房」とか「刑事物語」とか、既に格闘技のビデオじゃなくなってたしね。

そんなんだったから夕方の練習は「サンドバックに頭突き100回」とか「ハンガーヌンチャクを使った演武を考える」とか頭おかしいテンションになってたからね。


そしていよいよ迎えた夜。最強Kさんが「今夜はもう無礼講!っつーかむしろブレイクオン!持って帰るの面倒だから全員で飲み干そうぜ」とかいって、かなりの量の酒を撃退しなくちゃいけなくなったわけ。まぁみんなそこそこお酒は強かったし、Sも飲めない方じゃなかったから最終夜ってこともあって、かなり盛り上がったんだよ。

でも、その前の二日間は「一応指導者だからさ」って、殆ど呑まなかったKさんとHさんが、いいペースで飲み始めちゃったのが運の尽きだったね。いや、別に暴れて誰かに怪我させた、とかそういうことはなかったらしいんだけどね……。

飲み始めてから2時間くらいだったかなぁ。時間も深夜をまわった頃なんだけど、話題がまぁ年頃の青年が集まっている場に相応しく(?)エロエロ系の話になったんだよね。最初は普通にお互いのえっち話とかしていたんだけど、後輩Mがかなりのコマシで、かなり濃厚なえっち話をしてたんだよね。

そしたら、それまで黙って聞きながら呑んでた準最強Hさんが、突然テーブルをダンッ!とか叩いたわけ。みんなびっくりしてHさんをみたんだけどHさんったら、もうかなり座った眼をしていて、突然

「やばーい!」

とか言い出したんだよ。Sとか慌てて「Hさんどうしたんスか?!」とか聞いたら、Hさん唐突に右手をびしっと挙手して



「勃ってきましたーッ!!」


とか叫んでんの。もうSもMも、同期のT君も大ウケして爆笑しながら「なにいってんすかHさん!やだなーもー!」とか言ってたんだけど、Hさんもう全然聞こえてなく


「マジだって!マジ勃ってきたんだって!」

とか力説しはじめちゃって、誰も疑ってないし、そんなこと聞いてないし、人の話全然聞いてないし。「信用しねーなら見せてやる!」とか立ち上がって脱ぎ出そうとしてんの。

もう大爆笑極まりないんだけど、真夜中に男5人のところで勃たれても脱がれても困るし、みんな止めようとするんだけど、ほら「逆らっちゃいけない人」だからさ、力づくとか無理なわけ。まぁそのときは面白半分で口で止めてただけだったらしいんだけどね。

「いやHさん!男ばっかのところで脱がれても困りますし!」
「そうっスよ!先生だって男の真剣は抜きどころを誤ってはいけないっていってたじゃないスか!」
「うーん!でももう勃ってるから!(かちゃかちゃ)」

「うわ!Hさんベルト外さないで!」

「HさんHさんHさん!その最後の一枚だけは下ろさないでいいスから!もうわかりましたから!


「わかっただぁ?なにがだよ!俺のビックマグナム黒岩先生見とけっつーの!だっしゃおらーー!!


「うわ見たくねぇ!ってでかッッ!!


爆笑っつーか、瞬間怯んだらしいね。一部で「ファウルカップ(急所ガード)からはみ出す武士道」とか「ガマカツH」とか「三本足」とかあだ名されていたからデカイというのは知っていたけど、本気ででかい。もうあそこまでいくと凶器って感じだったらしいよ。

で、みんなゲラゲラ笑ってんだけどHさん後輩Mの目の前で仁王立ちのまま正拳突きとか始めちゃって、Mは「揺れてる揺れてる!なんかブルンブルンしてる!」とか指さして腹抑えながら錯乱的爆笑状態だしね。

で、あんまり酔ってなかったSは、さすがに手に負えなくなってきたから止めてもらおうと、黙って酒呑んでたKさんに話をふろうとしたらしいのね。

「Kさん!Hさんがヤバいっすよ!とめましょうよ!」
「そうっスよKさん!Hさん止められるのKさんだけなんスから!」
「揺れてる揺れてる!」
「おらー!おらー!」

「ぶはははは!Hさんマジで勘弁してくださいって!」
「Kさん!」
「Kさんッッ!」

「…」

「…H」


促されてゆらり、といった感じで立ち上がるKさん。「ん〜?」とかいいながらKさんに向き直るHさん。ちょっと張りつめる空気。そしてKさんは――



「俺も勃ったーッッ!!」

なんでぇーーーッッ?!


速攻だったね。Kさん、あっという間に短パンとトランクス脱ぎ捨ててんの。しかもHさんはいつの間にか上まで脱いでるし。無駄にいい身体した全裸男と下半身だけ全裸男が、2人向かいあってるわけ。誰か助けてくれって感じだよね。

で、身構えてるHさんに、Kさんもシャツを脱ぎながら近寄ると一言

「待たせたな小次郎!」


「遅いぞ武蔵!!」





?(゚Д゚)?


待って待って。

小次郎ってなに。っつーかHさんも、なにノリノリで「遅いぞ武蔵」とか云ってんの。

って、なに?!
あんたらなにやりだしてんの?!
いや「とう!」とか「なんの」じゃなくて!


もうなんつーかS達も色々な意味でどうにもならない状態になっちゃったらしいんだけど、簡単に説明するとお互いに手を後ろに組んで向かい合って、ヲティムを振り回しながら、「なにくそっ」「ちょこざいなっ」とかいいながら、こー…ヲティムとヲティムをぶつけはじめたらしいのね。

後にこれが某大学名物の「チンバラ(notチャンバラ)だと知ったらしいんだけど、とにかくあんまりにもあんまりな状況に、とにかく爆笑するしかなかったらしいよ。


で、ゲラゲラ笑いながら「負けるな武蔵ー!」とか「頑張れ小次郎ー!」とか応援してたんだけど、その内にKさんが

「ぬぅッ!鍔元を狙うとは卑怯な!」

「むははは!二天一流も一本刀ではその程度か!」

「くぅ!最早これまでか!」

とか言い出して、いやもう、どっちが勝とうが負けようが限りなくどうでもいいんだけど、何故か時々T君も後輩MもSの方をみたんだってさ。

で、その眼がもう、なんかめっちゃ期待してるわけ。「どうにかしてくれ」みたいな眼で見てるの。実際「S〜なんとかしろよー」とかも云われたらしいのね。で、KさんもチラチラSの方をみるらしいのね、チンバラしながら「はやくはやく!」みたいな眼で見てるの。少なくともSにはそう見えたんだって。


あ、話かわるけどさ。世の中には2種類の人間がいると思うんだよね。「期待されると断れない人間」と、「期待されると期待以上の事をやろうとしてしまう人間」と。

で、Sは明らかに後者だったみたい。


借りてる部屋は二間続きの和室で、寝室と居間に別れていて居間の方で呑んでたんだけど、Sは何もいわないで立ち上がると、襖を開けて寝室に入って、襖を閉めたんだって。

後輩MとかT君は「あれ?なんで止めてくれないの?」とか思ったらしいんだけど、それから数十秒たつかたたないかでスパーンっと音を立てて襖が開くとSが飛び出してきたんだって。

結構思い詰めた表情しててさ、その顔見て後輩MとT君は「酔ってるとはいえ最強と準最強の悪ノリを止める為に身体を張る気合い入れてきたのか」って思ったらしいよ。

でもね、視線を下げていったらさ、Sのヤツ、下に何も履いてない上に、ヲティムもおっきくなってたんだって。それで仁王立ち。それは見事なフルチン仁王立ちだったそうな。(日本昔話調に)

登場数瞬後に、もう大爆笑だよね。お前が期待されたことは2人の暴走を止めることであって、仲間に加わる事じゃないって。でも、ツッコミ入れようと思ったらその暇もなく、フルチン仁王立ちのままSが叫んだのね。


「待て待てぇぃッ!」


いや、お前が待てと。


「うぬっ!何奴?!」


「鍔元を狙うとは武士道の風上にも置けぬ所業!武士道の義により武蔵殿に助太刀いたす!」


「おおっ!かたじけないッ!」


「小太刀風情が何を小癪な!参れ!」


「応ッッ!!」



もう救いようのないバカだよね。お前ら全員逮捕されてしまいなさいと。

でも微妙にHさんに「小太刀」とかいわれて大きさを揶揄されたのが気に障ったのか、物凄い勢いで腰を動かして攻撃を加えはじめるS。助太刀がついて活気づいたのか、勢いと硬度を取り戻すKさん。そして応戦するHさん。腹を抑えてのたうち回りながら笑い転げる後輩MとT君。

なんつーか、フォローのしようがないというか、ある意味地獄絵図だよね。さすがに友達の友達の話とはいえ聞いた僕も、どういうわけか目頭が熱くなったよね。

繰り返しになるけど、確かに期待するような眼で見られていたかもしれないし、「どうにかしてくれよー」ってフリもあったかもしれない。だけど、その期待や「どうにか」ってのは「2人を止めてくれ」とか「オチをつけさせるかツッコミを入れてくれ」ってことであって「仲間に加わって盛り上げろ」ってことじゃなかったんだよね。

なんつーか火に油注いでどうすんだと。「期待されると期待以上の事をやろうとしてしまう人間」とはいえ、限度を知れと。


ちなみに最後は三つ巴の鍔迫り合いから、二段突きを狙った小次郎が初太刀を武蔵にはじかれて、高速の二ノ太刀を繰り出そうとした瞬間に腰を傷めて、心ごと刀も折れて「小次郎破れたりーッ!」「無念ーッッ!!」っつってブリッジしながら倒れていったらしいよ。人間橋の頂点で力無く折れていくヲティムが、涙を誘う光景だったとか――って、ホントお前ら捕まってしまえって感じだよね。


まぁその後1年くらいで、大学が忙しくなってSは道場をやめちゃったんだけど、噂によると、この合宿で行われた、このチンバラは伝説になって語り継がれているらしいんだよね。「まさかあそこで助太刀が来るとは思わなかった」って。


体育会系、それも格闘技系の集まりって、こういう話結構多いらしいんだけど、その中でもこれはかなりヤバいよね。ほんと、友達の友達の話でなかったら、こんな話出来ないよ。少なくとも、僕はこんな友達はちょっと勘弁願いたいよね。

これは僕の友達の友達の話の中でも、かなり上位にくる非道い話なんだけど、智史君は他にどんな辛い過去友達がいるのかな?個人的には「チンバラなんて日常茶飯事ですよ!」っていう返事を期待したいところだけどね!

あれっ?なんでだろう?涙がとまらないや。ハッピーバースデートゥーミー!!あー!!(断末魔)


[ 2003年11月05日-13:35 ]  



さくぶん


28歳になって一日が過ぎた。

〆切を抱えている原稿やその資料と睨めっこする日々が、これから当分の間続くことになる。まぁそれはそれで好いのだけれども、ふとした拍子に「どうして自分は文章を書くことを好きになったのか」ということを思い返してみたりした。

この話題については以前、侍魂の健ちゃんとも話したのだけれども、どうやら彼と僕は同じような経路を辿ったようで「初めて」は「小学校の作文」だった。

今でもあるのかどうかはわからないけれども、市の作文冊子かなんかのコンクールがあったりして、課題作文や自由作文で表彰されたりするのだ。そしてその上には県があって、今度は国があったりする。で、ガキの時分、そういうところに選ばれたりすることは、ちょっとした「誉れ」であった。

僕が最初にそういうものに選ばれたのは小学校一年生の時だ。それから小学校では毎年、中学でも何故か毎年、高校でさえもなんらかの形で選ばれたりしていた。


誉められること、なんらかの形で認められることは、どんなに幼くても快感を伴う。否、単純に嬉しいことなのだ。だからまた、書く。

「認められる」タイプの優等生型の作文というのは、こう書けばいい、という歪んだ理解もあったりした。だけど決して優等生な作文ではなく、当時から感じたことや考えたことを単純に書いていたように思う。どちらかといえば先生が余白に赤書きしてくれる「面白かったですよ」や「〜が伝わりました」という評価というか感想の方が嬉しかった。


多分それが最初のキッカケなのだろう。文章を書き続けることになった、文章を書くことが好きになった、ということの。

昔のことほど鮮明に思い出す、なんていう年齢ではないのだけれども、今でもその「初めて」の作文の内容は、はっきり覚えている。

僕には三歳上と六歳上の姉がおり、その作文は、三歳上の姉との仲違いについてを書いたものだった。タイトルもズバリそのまま「きょうだいげんか」であったと覚えている。

それは姉の机の引き出しに入っていたマンガを僕が勝手に読んでいたことを姉が鋭く見抜き、僕を叱責するというもので、僕は糾弾された「罪」を必死になって否定する――という汗みどろの心情を描いた一人称のストーリー。

そこに描かれた「姉」という存在は僕にとって「恐怖」そのものであって、ある意味みっともない暴露話ではあったけれども、これは書いた年齢からしても、本人の記憶してからも間違いなく「ノンフィクション」だった。

そう考えると僕が文章を書き出すことになったきっかけは、その「恐怖の姉」あってのものなのかもしれない。まぁいずれにしてもその他諸々、姉らや家族には感謝することしきりな人生を送ってきているのだが、こんなところでまた一つ「恩義」を再発見した、というお話しである。


ところで、とっくの昔に嫁いだその「恐怖の姉」だが、祖母の命日の墓参を前に実家、つまり我が家に帰ってきている。

ちなみに僕は今金髪ボウズ頭にヒゲ面という、かなりダメな面体でいるわけなのだが、我が「恐怖の姉」は、それを見るや否や左の眉をきゅいっと上げて「あんた28歳にもなってなんなのそれはー?」と、チクリというかグサリというかの直球を投げて寄越した。

身長差は20cm、体重にしておよそ1/3、年齢差は3年。そんなものは男女差であって体格差であって、生物としての差に過ぎない。

そういう意味では「ケンカ」なんてものにはならなくなってから十年以上が経っているわけなのだけれど、僕はやっぱり当時と同じで、不用意に上がる心拍数に、ちょっと目を泳がせるようにして苦笑いを浮かべたり、曖昧な返事を返したりするしか出来ないのだ。

そうして今、自室に戻ったあと、こうしてそんな顛末を文章に起こしたりしているあたり「きょうだい」の関係もかわっていなければ、僕がやっていることもかわっていないわけで。「我ながら変わってないなぁ」なんてぼやきながら、煙草の煙をはきだしたりするのである。

28歳一日目の、そんな夜の出来事。


[ 2003年11月06日-21:18 ]  



〆切地獄


忙しいとはいえ、いつまでトップで恥晒してるつもりだ。

春九堂です、こばにゃちわん。久しぶりだなぁこの出だし。というか恥と云っても、友達の友達の話だからどうということもないんですけどね。

というわけで、バシバシ仕事しております。原稿書いてます。貧乏です。ボツにならなければ本の発売日とか告知しますので、是非是非読んでやってくださいませ。これがきっかけになって連載ゲットとか出来たら嬉しいなぁとかそんな感じで。

さてさて。実施後音沙汰のなかったPA10ですが、ようやく画像が出揃いました。〆切を突破しましたら公開します。それにあわせて参加者の皆さんのオフレポなども箝口令解除しますので、それぞれのサイトで公開されることもあるでしょう。さて、どんなことになるやら。

個人的な都合で、お待たせしてしまっている発送の方ですが、こちらも色々なめどが立ちましたので今週中にお渡し出来ると思います。本当にお待たせしてしまって申し訳ありません。お詫びにもなりませんが、一足早いクリスマスグリーティングカードを同梱させていただきますので、今しばらく!届くのをお待ち下さいませ。

そして本格的な冬に向けたパーカーですが、デザインが大分固まってきましたので、近日中に予約フォームを設置します。こちらもお楽しみにどうぞ!

というわけで息抜き終了。原稿に戻ります。うーん普通の日記だ。


[ 2003年11月10日-21:03 ]  



あっちでもそれかぃ!


最近誘われるままにUOをやったりしている春九堂です。コバニャチワンザウルス(肉食竜)。

いやー一ヶ月くらい前から始めたんですけど、色々かわってて面白いですな。前回やっていたのは2年くらい前になるんですけど、大陸は増えてるし出来ることも増えてるし職業も増えてるし面白いです。


ちなみに前回やっていたときに育てたキャラクターはグドウという名前の戦士だったのですが、職業的にはキコリでした。

というか「なんでも好きなように生きられるんだぜ」という誘い言葉ではじめたものですから、最初に自分で「UOでなにをやるか」というテーマを考えたときに

「素手で熊を倒す」


というワケわからんことを考えたわけです。そしてまず全ての初期装備を売り払い裸一貫でゲームを開始。鍛錬用ダミーを殴り、殴り続け、スキルがあがらなくなったところで手近な熊に戦いを挑み瞬殺。(※UOでは熊はかなり強い動物です)

ヒーラーに蘇生してもらって項垂れつつ、熊がダメなら牛とと思い野良牛(野牛?)に挑戦するも秒殺。そして馬、鹿、ひつじ、鳥、犬、猫、うさぎとどんどん挑戦ランクが落ちていき、そこでようやく「鍛え方が足りない」と認識するに至ったわけです。

そして斧を購入し、それを一本持って山ごもりを敢行。ひたすらに木を伐り続けて火を焚き、無駄に森林破壊をしつつ、時々野生動物を斧で殺してはその肉を焼いて喰らうという日々を過ごしていたりしました。

で、その内に「伐採した材木で弓矢が作れる」という噂を聞きつけ、弓矢を制作しては売るという、少しだけ文明的進化を遂げたりしていました。やがて弓矢も高く売れるモノを作れるようになり、狩猟も弓矢を使って簡易に行えるようになり、さらには野生動物(狼)を手懐け、けしかけては弓でハントするという超現代的な狩猟を行えるようにもなりました(でも裸)

そんな平和なある日。森の中で赤NPC(攻撃してくる人間キャラクター。盗賊など?)に襲われている人を発見。巻き添えを喰らう様に僕のキャラクターも攻撃されはじめたので、狼をけしかけ、弓矢で射殺。さらに接近してきた敵は斧で粉砕するという顛末を迎えました。

ここで初めて人を殺めてしまったわけです。が、その割りには瞬殺。しかも合理的というそのファイトスタイルに、助けられたキャラクターに「強いですねぇ」と云われたのですが、「無我夢中で初めて人を殺してしまいました」と応じる僕。

「え?」などと聞き返されるので、普段の生活のことを話すと爆笑され、その後その方の仲間に紹介されたりしつつ戦士へと転職(?)し、実戦を積むようになり、フルプレートの装備で特攻をかける斧弓戦士として、オークイベントでは傭兵として部隊を編成したりもしました。


まぁそんなのが僕のUO体験だったわけですが、今回は2回目ですし、家持ちのギルドマスターの紹介もあって、前のような原始人生活をせずに「キコリ」としてちゃくちゃくと育っていっています。

とはいうものの頻繁に死ぬのはイヤなので、極めておとなしい生活。最近ようやくパラディン(騎士)に所属しまして、移動魔法を覚えたりするという程度の育ち方なのですけどね。

ちなみにこのギルドは、すぐ脱ぐヤツ、歌いながら脱ぐヤツ、動物の背後に回ってカクカクするヤツなどの変態が揃っており、毎日かなり賑やかな日々を過ごしております。リアル友人とかばかりなので、本当に和気藹々ですね。

まぁ「今度ブリテインの銀行前でコントをやろうか」という話になっていたりして、ギルド全体の雰囲気が「真面目に冒険するつもりはナッシング」というのもアレといえばアレなんですけどね。


[ 2003年11月14日-22:25 ]  



ノー!


パーカーおかげさまで順調に予約数が伸びています。両方とも作れることになりそうな感じでまずは何より。クリスマスには発送を間に合わせたい=12月第一週には入金〆切となるので、あまり長い時間は仮予約期間にかけていられないのですが、なんとか頑張りたいなぁと思う次第です。ハイ。

申し込んだ皆さんはebank口座を開設して、送料+価格分をの金額を入金おくと好いと思います。それが一番楽だし手っ取り早いし振込手数料もかかりませんので。


さて、こっから先は閑話休題なのですが、どうにもパーカーの解説文にツッコミが多いんですよ。ええとつまり「ノーブラでも大丈夫」云々というところですね。

これをして「家元のえっち!」などと罵られたりしているわけですが、ナニを今更って感じです。

これまでTシャツを3種類とビッグサイズバスタオル等を制作してきましたが、全てノーブラ着用をコンセプトにおいて制作に取り組んできてますから僕は。え?なにバカなこと云ってんだって?バカもナニも200%本気ですよ?

女性読者の皆様から嫌われることを覚悟の上で云いますが、僕はおっぱい大好き人間な上に果てしなくノーブラを愛する男です。むしろノーブラはマイ・MAX萌えポイントといっても差し支えないくらいです。

Tシャツの向こう側に透けたり、こちら側にぽちったりしている乳首様に興奮したり欲情したりしないヤツは、どうかしているとか云いきりたいくらいに萌えポイントなんです!だからこそ赤字を抱えながらも懲りずにTシャツを作ってきたんですよ!(力説)


まぁそれはともかく。今回はパーカーですし、ノーブラでも透けたりとがったりすることがありません。特に13.2ozの方は厚手ですので鋼の乳首様をお持ちでもない限り、大丈夫だと思います。むしろ実験レポートとかお待ちしたりしています。

そんなこんなで今回のパーカーは「ノーブラでも気軽にざっくり着られる」ということを考えて制作に臨みました。

なにせ独自調査によれば「入浴後・就寝前のノーブラ率」は極めて高いそうですので、夜中にコンビニに買い物に行くときなど、パジャマ代わりのシャツ一の上に軽く被っていけばOK!というような用途をコンセプトに据えて考えたわけです。

勿論鋭い読者の皆さんは、そんな僕のコンセプトなんかは当たり前にお見通しな上に認識してらっしゃると思います。女性読者の皆様はさらに鋭いと思いますので、認識どころか、その用途限定に着用していただけるであろうと思っております。ええ。

そうするとつまり深夜のコンビニで、このパーカーを着ている女性と遭遇したら、その方は100%ノーブラということになるわけですね!なんとゴージャスなコンビニなんでしょう!

太々君のパーカーを着用していただけているだけでも生みの親として幸せなのに、その上にノーブラサービスだなんて!もう萌え過ぎて、その場でプロポーズしかねません。

そう。その萌えっぷりや幸せっぷりを表現するならば――冬の寒さなど吹き飛び、深夜のコンビニといううらぶれた場面は色とりどりの花咲き乱れる楽園へと変わり、棚卸し途中のエロ雑誌や週刊誌は僕らを祝福する福音を記した聖書や喜びを歌う賛美歌集となり、煮込みすぎて味が失せたおでんは黄金をあしらった至高の美食をもたらす料理へとかわり、深夜にもかかわらず暖かな陽射しが心に降り注ぎ、小鳥さえも歓喜に囀り出す――といったところです。まさに春。人生の春です。

あ、大丈夫です。救急車とか警察とか猟友会は間に合っていますので。

まぁ、上のはちょっと(ちょっと?)大げさかもしれませんが、毎度のこと素材には拘って作っておりますので、お楽しみに&よろしくお願いいたしまっす。

というわけで「どうしてトレーナーじゃなくてパーカーなんですか?」という質問をいただいたけど「トレーナーよりパーカーの方が襟元が広いので胸元を覗き込むのに最適だからですよ!」なんて直球の返答は出来なかった純情シャイガイな春九堂が、新グッズ「太々君のかぶってきたまへ!パーカー」の商品説明をさせていただきました。


ここまで読まれた瞬間に、
順調に赤字が確定した気がします。

(欲望的妄想をむき出しにしすぎ)



[ 2003年11月17日-08:10 ]  



ウルフになる為に 〜そのニ〜


K−1ワールドMAX世界王者対抗戦2003
(21:00〜22:48@TBS系列)


▽須藤元気VS 前K−1王者クラウス(←通り魔事件からの復活)
▽小比類巻貴之VS キック世界王者(←読者さんにご親戚が)
▽曙が重大発表…(←どうでもいい)


そんでもって…



日本人初K−1世界王者魔裟斗
VS
ボクシング元世界チャンピオン

(色々な意味で要注目)



今夜のボクはウルフなカレを
カレと同じ香りで応援します。

(はやく夜にならないかしらっ☆)



[ 2003年11月18日-16:03 ]  



「おくにことば」なお話


昨日のK−1では注目しているウルフなカレが勝利したり、その試合内容とかでも色々話したいことがあったりするのですが、とりあえず書きたいと思ったときに書いてしまおうということで別のお話。

『方言』という言葉がある。日本国内の地方独特の言い回しや言葉のことだ。日本語は一つの言葉ではあるけれども、地域によって実に様々な方言がある。

さらに同じ言葉や表現でも、イントネーションが異なる場合があり、それは『訛り』と表現される。「言葉」が「化け」て訛り、言い得て妙だけれども漢字もなかなかにふるっている。


僕は埼玉に生まれて埼玉に育っているので、基本的には東京が首都となった「国語元年」以降の標準語圏内に身をおいていることになる。

埼玉に方言や訛りがないかといえば、そんなことは全くないのだろうが、幸いにも方言や訛りにの強いところではないところに生まれ育ったからか、他の標準語圏の人と会話をしていても違和感を感じることはない。

加えて、両親の教育がよかったのか、それとも多くの本を読んできたからか、子どもの頃からNHKばかり見ていたせいか、はたまた「言葉」にただならぬ興味を持っているからかはしらねども、言葉遣いの丁寧さと正しさには一応それなりの自信があるつもりでいる。


さて、そんな僕であるから、方言や訛りにはちょっとした「憧れ」があったりする。理由は簡単で、僕はそれを「持っていない」からだ。

だから僕は、「方言」や「訛り」という言葉はあまり好ましいイメージを持っていない。言葉が「化ける」というのも「正しい」とする言葉があるからだし、「方言」にいたっては「地方の言葉」ということになる。いずれも中央崇拝思想に寄っているものだと感じてしまうからだ。また、そうしたこともあって方言や訛りをコンプレックスにしてしまう人も多くいるという。

確かに、相互に通じない表現や言葉、意図を違えてしまう同音異義語のイントネーションや、感情表現的なものもあるだろうから、「共有語」「共通語」としての「標準語」はコミュニケイションの為にも重要なものだとは思う。

でもだからといって方言や訛りを「外れたモノ」としてしまうネガティブな捉え方も、そうした言葉も、僕は好きではない。これらはその人の生まれ育った土地の言葉であり、バックボーンであり、その人にとっては母国語といっても過言ではないものなのだから。


ところで、日本語の素晴らしいところは、一つの事象に対していくつもの表現語彙が存在することだ。そして「方言」や「訛り」というネガティブな表現(僕がそう思っているだけだけれど)ではなく、それらを表現するのにも、素敵な言葉がある。

『おくにことば』がそれだ。「おくに」はそれこそ昔日本に都道府県が設置される前に「〜ノ国」と呼んでいた表現の名残であり、「郷里/故郷」と書いて「くに」と読ませる方の「おくに」でもある。なんとも柔らかくて、僕の好きな言葉の一つだ。


「おくにことば」は、その名の示すとおり、その土地に行けば普通に使われている表現であったり、交わされている言葉であったりする。そして、その土地から標準語圏に来た人も「持っている」言葉だ。

だけれども大概の人は標準語と「おくにことば」を使い分けていて、滅多に耳にすることはない。さっき挙げたコンプレックスの面と、コミュニケイションの問題の両面からそうしている人が大多数のようだ。

彼らの多くは「気を抜かないと出ない」とか「地元の連中と話していないと出ない」という。そりゃあそうなのかもしれないけれども、どんなに仲良くなっても「おくにことば」で話をしてくれるところまでは打ち解けられないのかなぁと思うと、ちょっと寂しくなったりもするのだ。


でも、こんなこともあった。昔、友人に秋田出身の男がいた。彼は普段完璧なまでの標準語を話していて、普通に砕けた言葉でも喋るし、なによりも雑談をすれば様々な話題に会話のボールが弾んで途切れることがないほど気の合う男だった。

彼は東京の外れで一人暮らしをしていて、僕やその他何人かの友人が週末毎に彼の下宿に集まっては、ハムライスや商店街で安売りしているコロッケを酒菜に安酒を呑み散らかしては大騒ぎをしていた。

それは、そんなある週末のことだった。彼が珍しく郷里の話をはじめたのだ。僕よりいくつか年かさの彼は当時大学生で、郷里の秋田から推薦でこちらの大学に進学してきていた。

彼は、高校では応援団長をつとめていたこと、勉強も応援団の活動でも目立っていて様々な期待を背負って東京に来たこと、郷里の仲間のこと、家族のことなどを、ゆっくり、ゆっくりと僕に語った。

陽気な彼が豪快に酔っぱらいながら話すそれらのことは、懐かしさからか故郷を思って気が緩んだのか、明らかな「おくにことば」まじりで語られていて、安酒に酔った僕の耳に優しく、どういうわけか僕まで懐かしく感じるほど、心に響いた。

この時の記憶は10年近く経った今でも、彼の朴訥な「おくにことば」混じりの語りとともに、鮮やかに思い出すことができる。そして「ああ、好いなぁ」という僕の羨望の気持ちも一緒に。


ともあれそんな感じで、僕は「おくにことば」が好きなのだ。男のそれも好きだし、女性のそれはもっと好きだ。さらにいうならば年上の女性の柔らかい「おくにことば」が大大大好きなのだ。

嗚呼――「おくにことば」で口説かれてみたい、「おくにことば」で囁かれてみたい、「おくにことば」で甘えられてみたい、「おくにことば」で叱られてみたい、「おくにことば」で癒されてみたい――。


自分の持っていないモノに欲求や羨望のまなざしを向けるのは至極当たり前とはいえども、ちょっと偏り過ぎだろうか……なんてことを思いつつ、僕はふとした拍子に街で耳にしたイントネーションの異なる声に、また少し胸をときめかせたりするのである。


[ 2003年11月19日-23:10 ]  



思い出の池袋#1


僕は埼玉県人だ。正確には本籍は信州信濃、つまり長野県人なのだけれども、それは血統の問題であって生まれ育った土地は埼玉県である。

それも埼玉県は旧・浦和市に生まれ、生後間もなく最初の引っ越しを経験し、埼玉名菓「草加せんべい」の草加市に移り住んだ。さらに幼稚園の卒園を待たず再び浦和市に舞い戻り、大学までの12年間をそこで過ごしてから大宮市に引っ越し、今に至っている。

浦和市と大宮市は、その間にある与野市を加えて「さいたま市」になり、現在は政令指定都市となっている。この何ともいえない市の名前からか「さいたまさいたまー」というAA(アスキーアート)と共に、全国的に有名になってしまったりもしている。


ともあれ、そんな埼玉県のさいたま市に住んでいる僕にとって、埼京線開通以来、非常に身近になった池袋という街はちょっと特別な場所だった。

ちなみに僕の人生初の単独都内行は小学校4年生かそこいらの時の秋葉原行きであり、目的は電気街をうろついて安い中古ファミコンソフトを求め歩くということだった。結構オタオタしい過去だ。

まだ京浜東北線に快速がなかった頃だから、水色の電車は一時間ぴったりかけて秋葉原駅に到着する。それが僕の都内行き初体験であったから「東京行き=電車で1時間」という定義が僕の中に根づいたりした。

「東京」という場所に特別な憧れがあったわけではないけれども、大きなスクリーンの映画館があったり、近所の店よりも安い上に品揃えも比べモノにならないというのが「都内の印象」だった。


さて、話は池袋に戻る。池袋に初めて行ったのは中学そこそこの頃だと思う。目的は「ビッグカメラ」と「カメラのさくらや」と「ヨドバシカメラ」を物色しに行く為だった。お目当てのモノは当時大流行していたゲームボーイ本体だったと思う。

関東近郊の方なら御存知だと思うが上に並べた3つの店舗はテレビCMで安さと品揃えの好さを高らかに歌い上げていた。「東が西武で 西東武 高くそびえるサンシャイン」なんていうフレーズは、覚えたくもないのに、気がつけば諳んじることが出来るようになっていた――というくらい頻繁にCMが流れていたのだ。多分夕方の再放送番組やアニメ番組の枠のスポンサーだったのだと思う。

そうして向かった池袋。僕は何故か上野まででてから山手線に乗り換えて池袋に行くという不思議なルートを辿って現地にたどり着いた。無論一時間以上かかっている。それでも目的地に辿り着いた喜びは大きく、目的のモノは購入出来なかったがサンシャインをみたり(文字通りみるだけ)、CMの店を物色できたことで随分満足したことを覚えている。


さて、その帰りの事である。切符を買おうと思って路線図を見てみたら、最寄り駅ではないけれど「南与野」やら「大宮」という見慣れた名前の駅がライン上に乗っている、エメラルドグリーンの路線が目に付いた。これが埼京線だったのだ。

僕は埼京線という路線が数年前(当時)に開通していたのは知っていたし、南与野という駅は御近所テリトリーの一つであった。そこで冒険という程のモノではないが、初めて乗る電車に乗り込んで帰路についたのである。

当たり前だが電車は普通に南与野駅に到着した。所要時間は三十分強だったろうか。僕の「都内行き」の基準はそれまで「秋葉原」であったわけだが、池袋までの切符代は秋葉原までのそれより安く、当たり前のことなのだが「それだけ距離が近い」ということを、この時初めて知ったのだ。

つまり「浦和→池袋→秋葉原→横浜→鎌倉(鎌倉は何故か何度か行っていた)」という距離配置が、初めてこの時出来上がったのである。


都内というのは僕にとっては「地元では買えない買い物をするところ」であったから、それ以来「池袋」という街は、その目的を果たす為の最も近い「都内」になったのである。
<つづく>


[ 2003年11月24日-13:04 ]  



思い出の池袋#2


埼京線を利用することによって、僕にとっての「最寄りの都内」となった池袋。専らそこに行く目的は家電製品やらゲームなんかの買い物だったのだけれども、高校時代にそれは唐突に変わった。

高校時代というと「思春期に色気づいて女の子と一緒にデートに行くようにでもなったか」と思われそうだが、全くそんな事はない。行く目的は「食事」だったから、デートといえばデートなのかもしれないけれど、相手は男性、しかも高校の同級生だった。

上のような書き方をすると微妙に勘違いをされそうだけれども、別に彼とは恋愛関係にあったわけではなく、単純に気の合う親友であり、「同好の志」であった。そして池袋は、その「同好」の対象にあって「聖地」ともいうべき場所だったのだ。


浦和市内の高校に通う埼玉県人にとっては、ある意味無縁である池袋という街が「聖地」となる――なんとも奇妙なこの関係を作ったのは、一人のミュージシャンとの「再会」だった。

山本正之。この名前にピンと来る人は、オールドアニメファンかアニメファンか、ゆうきまさみ周辺ファンか、もしくは熱烈な中日ドラゴンズファンだと思う。

僕が「先生」とまで称するこのミュージシャンは、コミックソングや「燃えよドラゴンズ」という中日ドラゴンズ応援歌、そしてタイムボカンからシリーズ化された、ヤッターマンやイッパツマンなどのタツノコプロシリーズの主題歌を担当していた人である。

多くの昭和40〜50年代生まれの人がそうであるように、僕も幼年期にリアルタイムでこれらのアニメを体験してきているから、独特の「山本節」は「アニメの歌」として見事なまでに身体に染みこんでいた。

その懐かしい思い出の中の曲調と「再会」したのは、高校時代にオタクな世界に身を染めはじめてからのことで、きっかけ週刊少年サンデー連載の「究極超人あ〜る」だった。そのオリジナルアニメやイメージCDなどの曲を担当していたのも山本正之、その人だったのだ。

高校時代に「あ〜る」と出会って山本正之の音楽に再会した僕は、懐かしさと彼独特の言葉の使い方や言葉遊びのセンスにすっかりやられてしまい、アニメとは関係のないオリジナルの彼の曲も聴きたくなり、彼のCDを買い集めはじめた。そして彼の世界にすっかり魅せられてしまって熱心なファンになったのだ。件の「同好」とは、つまりこの「山本正之ファン」という共通項だったのである。


なぜ山本正之ファンが池袋なのか。この関係性に気がついた人はかなりのマニアというか熱心なマサユキファンだと思う。というのも彼の曲に「イケイケ池袋」という池袋を語った曲があるのだ。

これは池袋の街を紹介するような歌詞(電車の案内まである(笑))のマンボ調のコミックソングだ。曲名にも「池袋」と入っているし、シングルカットもされているので熱心なファンなら真っ先にコレを思い浮かべるだろう。

でも実はその連想はハズレだったりする。この曲の歌詞にも登場するのだけれど、僕らの池袋聖地訪問の最大の目的は「カプリ」という名のパスタレストランで、そこでスパゲティを食べることが僕らの「聖地巡礼」の目的だった。

この「カプリ」というレストランが最初に山本正之の歌に登場したのは、彼の「ライスシリーズ」という連作の中の一つ「友情のハムライス」という曲で、僕らに「池袋=聖地」という概念を与えたのは、この曲だった。


ライブ音源のこの歌は、アコースティックギターで弾き語りのような独特のスタイルで、若き日の山本正之と、当時早稲田大学で文学を勉強していた友人の石原君との、貧乏だった青春時代の思い出が紡がれている。

――貧乏で空腹の限界が来た若き日の正之先生は、西口公園の側に下宿している故郷の同級生である石原君を訪ねる。正之先生を迎えた石原君はハムライスを作って二人で食べて、歌ったり話し込んだりする。

夜が明けて再びお腹の空いた2人。だけどハムライスを作る為のハムはもうないので、2人は池袋の「ハイエム」というグリルに出かけて、そこでなけなしのお金をはたいて一番安い「目玉焼き定食」を食べようと出かける。

その「ハイエム」の陳列ケースに堂々と輝いているのはサラダ・コーヒー付きのハンバーグライス。貧乏な2人の憧れのメニューだけれども、2人の所持金を全部併せても一人分にもならないという悲しい現実。

そんな2人が西口をそぞろ歩きしていると、ロマンス通りの一番最初の薬局の処に黒山の人だかりが……――
といった感じである。全てを書くと大変な分量になるので割愛するが、貧しく楽しく微笑ましく慎ましく、そして優しい。そんな青春時代の物語だ。

さて、この歌に繰り返し登場するのが「ハイエム」というグリルレストランである。ここの目玉焼き定食やハンバーグライスは、僕らにとっても憧れの食べ物になった。だけれども、残念なことにこの店はもう存在しない。

そもそもが曲の中で『今はカプリという名のスパゲティ屋になっているその隣にハイエムという小綺麗なグリルがあった』と歌われているのだ。本来ならば「ハイエム」が聖地になる。だけれどそこはもうないから、その代わりに「カプリ」が聖地となったのである。


「カプリ」はビルの3階までを使ったパスタの専門店で、ワインの種類も豊富だしサイドメニューも色々あって、白壁の洞窟内をイメージしたような小綺麗な内装も相まって「カップル御用達」みたいな店だった。そんな店に冴えない男子高校生2人組が行ってはパスタをすすっていたのである。ちょっと妙な光景といえば妙な光景だったと思う。

初めてその目的で池袋に行ったのは高校2年の春で、それ以降は同好の志の彼以外にも、アマチュア無線で知り合った仲間や、有線BBSで知り合った仲間や、高校の友人なんかとも「カプリ」でよく食事をした。

くわえて今思い返すと赤面モノなのだけれども、その冬に「恋人」なんて呼べる存在が出来てからは、いわゆる「デートらしいデート」をするにも使ったりもしていた(他に気の利いた場所なんぞしらんかったのだ。味も良かったし、とイイワケしてみる(笑))

そんな感じで僕の池袋行きは、多いときは毎週末、少なくとも月イチのペースで繰り返されるようになったのである。


最初は買い物目的で、次のきっかけは大好きなアーティストの歌に出てくる彼の青春時代を追い掛ける為。

そこから池袋に通いはじめた僕は、ここ「カプリ」を拠点にして次第に足を延ばしはじめて、風景を知って地理を知り、店を知って街を知り、だんだん池袋という街自体を好きになっていったのだった。
<もう少しつづく>


[ 2003年11月25日-18:42 ]  



思い出の池袋#3


小・中までは家電製品というかゲームソフト購入目的で、高校になってからは大好きなミュージシャンの「聖地巡礼」から、足下が覚束無いようなデートで。そんな風に、僕にとっての「池袋」は変わっていった。

行く場所が変われば街に対する印象も変わる。そもそもビッグやサクラヤなんかの大型家電店やら、ハンズやサンシャイン、大きなゲームセンターなんかは東口にあるし、件の「カプリ」は西口だ。それだけでも大きく違う。

僕の中で簡単に整理すると、池袋は東は若者向け、西は古くからの繁華街。北は花街風俗街で、南はジュンク堂があるくらいで、あとはよくわからない(笑)、となる。

高校・大学時代だけを思い返してみても、東口は通うたび見るたびにお洒落な若者向けの街にどんどんと姿を変えていったように思う。西口にも大型カラオケ店などが出来たりしてからか、随分と若者が増えて馴染みやすくなった。北口は相変わらずだし、南口も相変わらずよくわからないけれど、それでも「随分賑やかになったもんだなぁ」なんて思ったりする。


そんな中で、僕の「遊び場」はといえば、やっぱり西口だった。西一番街、ロマンス通りは当たり前で、西口五叉路の南北、丸井の裏東西あたりまでが大体のテリトリー。小・中の頃なんかは「アブナそうで入れない」ところだったり、高校生になっても「アヤシクて入れない」ところだったりしたところが、大学生になると「オトナ専用っぽいが、探検気分で」という感じになって、だんだんとテリトリーを広げていったのだ。

そうして池袋を探検する目的は「飲食」になった。酔いの楽しさから酒の味も少しはわかるようになったあたりで、少しずつ飲食の幅が広がってくる。美味くて安くて落ち着ける店を探したり、噂や評判を聞いた店を訪ねたりして、随分と飲み食いを重ねたと思う。

残念なことに「池袋で食べ歩き」という趣味(?)のキッカケを与えてくれた「カプリ」は閉店してしまい、今では全く違う建物になってしまったけれども、僕は新たに「お気に入りの店」を増やしていった。


大学も後半に入った頃、僕はひょんなことから新宿でアルバイトをはじめて、その内に夜の新宿で接客業のアルバイトをすることになった。

どんな業種かは御想像にお任せするとして、基本的に夕方前入りの始発帰りという職種なものだから、店を出た後始発まで時間を潰さなくてはならない。つまり終夜営業の店に入って時間を潰す必要があるのだ。

深夜の新宿には、終夜営業の店は呆れるほどにあるのだけれども、僕らは何人かでタクシーに乗り込んで別の街に河岸を移していた。そんな中でも多かったのが池袋だった。

新宿からよりは池袋の方が家に近いし、誘ってくれる先輩が豊島区のマンションに住んでいたこともあって、促されるままに池袋で夜明かしをしていたのだけれども、やがて「帰れなくても、新宿からは離れたい」という考えが僕の中にも出始めた。

明確な理由は今でもよくわからない。だけど一端店を出てしまうと、新宿という街の早朝まで当たり前に続く喧噪や煌びやかさが、とにかく煩わしくなってしまうのだ。それがイヤで逃げ出すように新宿を後にする。僕にとって新宿は色々な意味で「作り物の街」だった。今でもその印象は変わっていない。


とにもかくにも上司や先輩に連れられるままに、池袋界隈で夜明かしをする日々が続いた。すると西口にも東口にも北口にも南口にも、まだまだ知らない店がいくつもあることに気づかされた。

とても「大学生」の身分じゃ入れないような店もあったし、地位や予算や立場やナリとかではなく「空気」として学生一人では入れない店もあった。それは高級感があるとかそういうのだけではなく、そこはかとなく埃っぽくて土臭いような「昭和の匂い」が息づいている店達だ。

新宿ゴールデン街がそういう場所としてよくあげられるけれども、池袋の「栄通り」や「人生横丁」にあるのは、まさにそんな店ばっかりだった。

そこで僕はホッピーのハイスパートな酔いを知り、煮込みとヤキトリの味を知り、サワーではない焼酎の味と少しのカクテルを覚えて、ジャズとオールディーズと演歌とムード歌謡を体感した。


こうして僕の中の池袋の地図はどんどん更新されていった。それと同じ頃にバイクを手に入れてバイク便の真似事のようなバイトもしていたので、都心にはバイクで来ることが多くなり、位置関係も道路の連携も地図には書き込まれていって、その地図はどんどん変化していった。

地図の更新が突然止まったのは4年ほど前のことだ。その年の暮れに僕はかなり深手の傷を負ってしまった。ぶっちゃけてしまえば失恋というヤツだ。

妙な云い方だけれども、その恋の「舞台」は都内だった。それを失ってしまった僕は、遊び場に行く子どものように楽しかったバイクでの都内への道行きも、電車から見る風景も駅の雑踏も、全てが虚ろなモノになってしまって、ぱったりと都内に行かなくなってしまったのだ。

「あの人の面影が辛いから、あの人の思い出が悲しいから、あの店に行くのをやめた」なんていうのは二昔くらい前の失恋歌の定番みたいなもので、自分がそんな温くて甘ったれたロマンチストだとは思っても見なかったのだけれども、実際に行かなくなってしまったのだ。


別に地元でだって遊び場には事欠かないし、買い物にしたって都内に行かなくても買える。どうしても必要な時だけは出向くけれども、それ以外は全く行かない。行く必要がない。行きたくない。そうして地図の時間はとまってしまった。

とまった地図の時間が動き出したのは、ここ1・2年のことだ。そのキッカケというのがサイト絡みだったりするからちょっと笑える。理由は簡単で、地元以外のメンツが集まりやすいからだ。

ともあれ、二度と足を踏み入れないだろうと思っていた新宿歌舞伎町にもそこそこ頻繁に行くようになったし、池袋に至っては再び常連に舞い戻っている。様変わりした西一番街では新しい店を開拓するようになったし、すっかり常連になっている店も出来た。


先日ちょっとした内輪の集まりで池袋にいったのだけれど、運悪く店が閉まっていたり満席だったりで「新しい池袋」にフラれてしまった僕は、昔の記憶を頼りに仲間達をナビゲートした。目的地は落ち着いた雰囲気のバーで、美味しいカクテルを出してくれる店。

ところが辿り着いた場所は、バーをやってはいたけれど外装からして違う店になってしまっていた。それでも店内に入ると、当たり前だけど内装も変わっていて、ポマードで固めたオールバックがキマっていた初老のマスターの代わりに、若いバーテンダーが出てきてオーダーをとった。

聞けばこの店になってからは今年で3年目で、確かに前もバーだったという。記憶は間違ってはいなかったけれど、時間は当たり前に動いていて、僕の地図は取り残されていたようだった。


そこで数時間を過ごした後はラーメンを食べて小腹をふくらませ、カラオケへと移った。今ではなんでもない「オールナイトでカラオケ」というコースも、マンガ喫茶なんて便利なものがなかった昔は「酒を飲みたくない&ソファでもなんでもいいから横になりたい&カラオケのネタを仕込んだり歌の練習をしたりしたい」という場合の夜明かしコースの定番だった。

追い出される時間になると精算のレジカウンターの周りは、ちょっとした混雑になる。これは数年前も今も変わらない風景だ。新宿で働いていた頃は、まだそんなにそういうカラオケボックス(ボックスって呼んでたんだよなぁ)もなかったので、レジ前の人ごみの中、疲れ切った寝ぼけ眼の同僚や顔見知りの同業者に遭遇することもしばしばだった。

そんな事を、やっぱりぼぅっとした寝ぼけ眼のまま思い出していたら、ネットの知り合いにバッタリ遭遇した。そういえばその日集まった内輪のメンツも、ネットで知り合った連中だった。

苦笑混じりに彼らと挨拶を交わしながら「同じ池袋でも、色々なモノがかわったなぁ」なんて独りごちてから、僕らは早朝の池袋をファミレス求めて歩き始めた。


「As time goes by.」とか「時の過ぎゆくままに」なんていう同意異国語は多くあるけれども、その中に「年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず」という詩句がある。僕はこれを詠みかえて「年年歳歳花相似たり。歳歳年年街同じからず」なんていうのもアリだなぁと思ったりした。

時が経てば人も変わるし街も変わる。それは当たり前のことだけれども、毎年咲く花のように変わらないものもある。この本歌のように年経ることや移り変わりを嘆いたりするつもりはないけれど、やっぱりどこかしらにほんの少し寂寥の想いがある。

池袋に来る目的もかわったし、馴染みの店もいくつも無くなってしまった。だけど僕がこの街を「好いなぁ」と想う気持ちは変わらないし、何か目的があるわけじゃなくとも仲間と一緒に漫ろ歩くだけでも楽しくなれる。そんな街、池袋。

故郷と地元以外にも、そんな街があってもいい――そんなことを考えながら、僕は歳を重ねたただけ余白の増えた自分の池袋マップに、昨晩のバーの名前と場所を新しく書き加えたのだった。


[ 2003年11月26日-04:58 ]  



手を抜いてしまおう


ガリゴリと原稿を書く毎日。といっても筆圧で本当にガリゴリと音をたてているわけではないんですけどね。当たり前にPCで書いているわけだし。正確には「カタカタと打っている」わけだけれども、それじゃ妙に軽い感じがするので、やはりガリゴリないしゴリゴリなのだなぁと思う次第。そんな春九堂です。ちょっと御無沙汰。

で、唐突なんですが、カタログギフトというものをいただく機会があったんですよ。ここ数年結婚式の引き出物や、葬式の香典返しなんかによく使われる「御礼の品は、このカタログの中から好きなモノ選んでね」というアレです。

出す方は予算枠からカタログを選んで、貰う方はそのカタログから選ぶ事になるわけなんですが、結構ロクなモノがなかったりするんですよね。

で、まぁ案の定今回も大したものがなくって、デイバックかなんかにしようかと思っていたところ、キッチンツール関係の処に「圧力鍋」を発見。

実は夏頃にモツ煮込みが泣くほど美味い定食屋のおばちゃんに「圧力鍋を使うとモツ柔らかくの速いし、その後煮込むと味がすごくよくしみこむのよー」と企業秘密を教えて貰っていたんですよ。あ、バラしちまった。おばちゃんごめん。ドンマイ。

というわけで圧力鍋の番号を所定のハガキに書いて送り、待つこと10日ほど。来ました。来ましたね!結構安っぽい作りの圧力鍋が!(笑)大丈夫かこれ!爆発とかしねぇか?!(※圧力鍋は密閉空間を加熱して圧力を加えるので、目詰まりしたり抑えが半端だったりすると爆発します。そういう事故が時々おこってるのよ)

一抹の不安を残しつつもシールを剥がして、鍋を一度洗い、水を張って火にかけ、水が沸いたたところに野菜くずを放り込んで、しばらく放っておきました。ちなみにこれは鉄鍋を新しく卸すときに、やっておいた方がいい知恵袋技。厨房のバイトをしていたときに教えて貰ったんですよね。鉄臭くなくなるそうな。鍋自体の下ごしらえってやつですな。

さて、野菜くずとお湯を捨てて何を作ろうかと思ったのだけれども冷蔵庫をあけると、キャベツと豚バラブロックが見つかったので、これで適当な料理を作ることにしました。


まずは豚バラをぶつ切りにして軽く塩こしょうでモミモミ。続いてキャベツを半玉ぶつ切りにしてラップでくるんでレンジでチンとあたため、はがれやすくしてバラバラにする。バラバラにしたキャベツを圧力鍋の底にしきこむようにして、キャベツの間にバラ肉を放り込んで、さらにキャベツをしきこむ。

次に水をひたひた直前になるまで加えて、なんとなく気分で白ワインの余り物を少し加える。これでひたひた。ローリエがあったのでそれを一枚加えて、クレイジーソルトを少しだけ加える。最後にスライスしたニンニクを一片分だけいれて、コンソメキューブを2つ投下。これで準備完了&レッツ加熱。


圧力鍋は蓋をかっちりしめて、蒸気穴におもりを乗せて、まずは中の圧力が高まるまで放置するんですな。これが5分くらいかな?そんでおもりが幾ばくか持ち上がって蒸気が噴き出す=圧力を逃す状態になったら、弱火にしてタイマーを仕掛けて放置。この状況を「加圧」というそうです。

んで、時間が経ったら火を止めて、そのまま放置しながら中の圧力を抜くわけです。まだ内部の圧力は高いので沸騰したままになるわけです。この状況を「減圧・余熱調理」というわけですが、これを長い時間とると味が染みこむというお話。毛布とかバスタオルとかでくるむと「保温調理」になるわけですな、博士鍋とかと同じ原理です。


まぁそこまで手間をかけるのは面倒だったので、火を止めた後は20分ほど放置して、火傷しないようにタオルで手を保護しておもりを解除&蓋オープン。するとどーよ、うっすら緑がかった綺麗なコンソメキャベツスープ(ちょっと脂浮きすぎー)が出来上がってるじゃないですか。

で、その後は蓋をハズした状態で少し煮詰めるように塩こしょうで味を調えて完成。いやーキャベツのやわらかいこと、バラ肉のやわらかいこと、スープのキャベツと豚の旨味がしっかりでていることといったらないですよ。超絶うまい。

出来上がるまでは約1時間かかったけれども、この間に僕がやったのは材料を切ること、火を弱火にすること、まな板と包丁を洗って余った材料をしまうことだけ。楽すぎます。


んで「むまーい!むまーい!」と大満足で食べていたのですが、米がないことに気がつき、今度は昼食に米を2合ほどといで、スープを足して加圧&減圧してリゾットにして食べました。仕上げにパルメザンチーズをふるのがミソですな。あ、そうそうサメタスープに浮いた脂を取り除くのも忘れませんでした、ちょっとリゾットにするには脂っこ過ぎますからね。

そんなわけで「圧力鍋最高ー!」と吠えつつ結局キャベツ半玉を食べてしまったわけですが、ほんとすごいっすね。圧力鍋。扱いには気をつけなくてはいけないけれども、面倒がないし非常にいい感じです。

腹一杯食ったくせに、次々とレシピが思い浮かんでいるんですが、次は鶏の手羽元をオリーブオイルとガーリックでかるく焼き色を付けて圧力鍋に敷き詰めて、ホールトマトと水と白ワインとローリエと塩こしょうでひたひたにしたところに、ニンニクを2片いれて15分くらい加圧・10分減圧、なんてのはどーかなーとか思ってます。

まぁ色々考えては「むまそーむまそー」と自画自賛気味なんですが。あと牛のスネ肉とかすじ肉とかも調理したいですね。モツは質がいいものでないと圧力鍋では匂いがでそうなので、ちょっと考えてます。


とまぁ、そんなこんなで圧力鍋スレッドをたててみました。オススメ料理とか使用上のアドバイスとか、今日のテキストで「圧力鍋に目覚めた」とか「圧力鍋欲しい」とか思ってくれた人がいたりしたら、どんどん書き込むと好いと思います。どんどん作るぞモルァー。

【お前鍋の】“最強”圧力鍋でお料理万歳【中の鍋だ】



[ 2003年11月29日-06:36 ]