【過去のつぶやき】
2006年03月の【家元のつぶやき】のバックナンバーです。
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2003年
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● シェルダンな森 おいでよ どうぶつの森日記 −1−(2006年03月02日-10:03)
● シェルダンな森 おいでよ どうぶつの森日記 −2−(2006年03月03日-12:52)
● 試作ができた!(2006年03月10日-21:01)
● おじぞうさん(2006年03月16日-02:53)
● 池田屋事件。(2006年03月27日-06:39)
● うずまきイズム。(2006年03月28日-14:04)
● あの日ぼくはアーチストへの道を歩きはじめた(2006年03月29日-09:23)
この記事はニンテンドーDSのゲームソフト『おいでよ どうぶつの森』をプレイした筆者の視点から、その村での生活を描いたプレイレビューです。あくまでもフィクションと独自の解釈に基づいた文章であり、一般的なプレイの解釈とはかけ離れたところも多々あると思われます。なお、レビュー対象であるゲームがフィクションである以上、本記事もフィクションであることをご了承下さい。「被害妄想が酷い」とか「まともにプレイしろ」だとか愉快すぎるご意見は無用です(笑)。
【プロローグ・回想】 もう数ヶ月前の事だ。私はとある村に訪れた。いや、正確に云えば入村したと云った方がいいのだろう。都会の生活に厭いた私は、少しだけ、そう少しだけ夢を見たくなったのだ。自然溢れる山村に暮らし、花と果樹を育てる。釣りや昆虫採集を趣味とする、穏やかな住人達との穏やかな時間。それが私の夢見た生活だった。
だが今も目を閉じれば、脳裏に鮮明に蘇る風景がある。私の好意を嘲笑ったワニ顔の女。私を貶めたネズミ顔の男。悪魔のような顔をしていたが優しく穏やかであった釣り好きの友人。そして…諸悪の根源であったカエルヅラの男。
私は村にとって最初から最後まで「部外者」であったのだ。夢見た生活は何一つ適うことなく、私はそこでの生活を破壊した。私の夢とともに、そして――村ごと。
そして、あの月が満ちた夜に、私は復讐を成した。カエルヅラの男は姿を消し、その後ネズミ顔の男も姿を消した。ワニ顔の女は脅え、私に媚びへつらうようになった。
やがて新しい住人達が訪れ、村は姿を変えていった。ワニ顔の女も姿を消し、私は公共機関や商売をしている連中以外の「最古の住人」となった。古く悪しき因習は断ち切られ、村は栄えた…のだと思う。しかしながら私はただ淡々と日々を過ごしていた。
果樹を思い通りに育て、花を育てても心は動かない。海釣りをしているところに引っ越してきた住人が声をかけてくるが、顔は笑って応対しても虚しさを含んだ海風が私の心を撫でるばかりだった。
復讐という名の劇薬。それは甘美な果実でもあったのかもしれない。
今や村中に計画整備された果樹園を持ち、株式投資で利益を上げ、村一番の豪邸を構えている私に対して、誰も害意を持ち得ようはずもない。仮に誰かしらが害意を持とうとも、今の私にはそうした不穏分子を排除する手段も力もあるのだから。
安穏な日々。穏やかに過ぎる時間。しかしそれは禁断の果実の味を知ってしまった私にとっては、ただただ、つまらない日々だった。
海でシーラカンスが釣れた、ある雪の日。海岸に流れ着いた一通のメッセージボトル。そこには「どこか遠くへ行きたい」とだけ書かれていた。どこの誰が書いたともしれない、いびつな文字で書かれた文章。だがそれは私の心の深奥に刺さっていた棘を強く刺激した。
――新しい土地へ。私のことを、いや僕のことを誰も知らない新しい場所へ。
その想いに取り憑かれると、私はいてもたってもいられなくなってしまった。釣り上げたシーラカンスを博物館に寄贈した私は、全ての資産を整理すると、遠く離れた地にいる友人に手紙を書き始めた。「今いる村を離れたい。ついてはしばしの間、身を寄せさせて欲しい」と。
全ての家具調度や美術品を売り払い、保持していた株式も売却した。果樹園も最後の収穫をして、その全てを出荷した。マンネリ化していた日常の中では苦痛でしかなかった作業が、今ではこれほどまでに心躍らせるものになろうとは思いもよらなかった。
おそらくこの村に住む誰もが目にしたことも、いや想像すらし得ないであろう金額が私の手元に残った。資産を整理すべく役場に向かうと、保存しておいた郵便が目に止まった。それは数日の間だけではあったが、唯一心安まる時を与えてくれた友人からの最後の手紙。
君とは色々なところで遊んだね。本当に楽しかった。僕の事を忘れないでね。また、いつかどこかで――。
浅黒い肌をした友人の姿を思い出す。独特なのんびりとした口調と優しく低い声で、その文章は私の聴覚にしっかりと再現された。「いつかどこかで」。今こそその時なのだ。何処とも知れない場所へと消えてしまった友人。彼にもう一度会いたい。私はその手紙を保存箱から取り出すと、しっかりと荷物へとしまいこんだ。
新しい人生にもう一つの目標が出来た。
程なく友人から居候を快諾してくれるとの連絡が入った。新しい入村先が決まるまでの間のほんのひとときの間ではあるが、こうして受け入れてくれる友人がいるのはありがたいことだった。
既に準備を終えていた私は、役場のペリカン似の女に引っ越しの手続きを頼むと関所へと向かった。誰も見送りに来はしない。当たり前の事だ、私は最初から最後まで「部外者」であったのだから。
関所前に植えた花々は、やがて訪れるであろう春を待ち焦がれながらも、雪の中で力強く咲いていた。この花々も私が去った後は枯れゆく運命なのだろうか。そう考えると、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
我ながら感傷的だとは思ったが、私はそこに咲いていた白い薔薇を一輪だけ丁寧に抜き取って手荷物に加えると、私は新しい人生へと向けて関所を通り抜けた。
――こうして私は最初の村を棄てた。
【要約】 それまで運営していた村に飽きたので、友人のDSとソフトを使って引っ越し。全財産と保存されていた手紙などは全て移行されるので、家財道具やそれまでに揃えていたものを全て売り払って全て貯金し、移動。その後自分のソフトで新しい村を作り、最初のタヌ吉アルバイトを終えた時点で、そちらの村へ引っ越し予定。目標はロデオ(黒い牛)との再会。カブで儲けた金が相当あるので、新しい村では相当な富豪暮らしの予定。
たったこれだけの事で 2000文字近く書いている自分が バカバカしくって大好きです。 (多分、しばらく続きます)
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2006年03月02日-10:03
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第0日目 『王子と乞食』という童話がある。詳しい話は忘れてしまったが、瓜二つの乞食の少年と王子がお互いの立場を入れ替えて、互いの生活を体験するというものだ。私がこれからやろうとしていることは、まさにそれなのかもしれない。
株式投資と果樹園の運営、美術品の収集や他村への輸出入事業で一財を築き上げた私が、これから身分を隠し、全く無名の人間として、いずこかの寒村へと入村しようというのだから。
そこでの生活が刺激あるものになるとは限らない。だがそれはそれで構わないのだ。いずこへかと姿を消してしまった友との再会。彼があの村に戻ってくる可能性は限りなく低いであろう今となっては、新しい舞台を設定する他に術はないのだ。
つまりこれは友との再会の為だけに行われる「遠大な寸劇」に過ぎないのだ。いつあえるかはわからない。だが必ず再会出来るものと私、否、僕は信じているのだ。
入村先が決まった。既に子飼いの人間を使って入村手続きは済んだようだ。私によく似た風貌を持つ人間を送り込んだので、あとは入れ替わればいいだけだ。単純で素朴な村の先住民達はまるで気づかないだろう。
新しい村の名前は『ネオくま村』という。友との再会の舞台としてはお誂え向きではないか。
第1日目 深夜のうちにタクシーでネオくま村を訪れ影武者と入れ替わる。服装はといえばBBと書かれた小汚いTシャツ。念のため眼鏡をかけて、しばらくの間は人相を隠すことにした。ダンボールの上にロウソクが燃える。他に調度といえば古びたラジカセと屋根裏のベッドだけだ。
懐かしい。あの村でも私、否、僕はこんな部屋から全てをスタートさせたのだ。今とは違い、新しい生活への期待と希望に胸をふくらませて。だが今の僕の胸にあるのは、かつての希望や期待とは少々趣を異にしている。その感情をなんと呼ぶべきか、今はまだわからない。
住人達が寝静まっている間を狙って、少しだけ散策してみた。指定通り商店や博物館、役場からはほどよく離れた位置に自宅は建てられている。目立ってはいけない。少しずつ、そう、じわりじわりとこの村を「舞台」にすべく侵食していかなければならないのだ。
先住者達の住居は三軒ほどあるようだ。どんな人間が住んでいるかはわからないが、文字通りの寒村といったところだ。秩序無く伸びた樹を見上げるとリンゴが生っているようだ。これもいずれはどうにかしなければなるまい。
第2日目 朝、周辺を散策していると先住者が話しかけてきた。ゾウの様に大きな女だ、軽々しく私…いや、僕の名を「ちゃん」付けで呼ぶ。影武者は一体どんな応対をしてきたのだ。少々不安になったものの、脳天気な性格らしく何も問題はなかった。
傑作なことに、決して愛らしいとは言い難い外見に似合わず、ファッションに凝っているらしい。隣村で見かけたヒョウ柄のシャツが欲しかったのだが持ち合わせがなく買えなかったと嘆いていた。
「その図体でヒョウ柄を着込もうモノなら伸びてキリン柄にでもなるんじゃないか」という台詞が喉まで出かかったが、かろうじて抑えた。
見かけたら教えて欲しいといいつつも、自分で手に入れるよりプレゼントでもらえたらもっと嬉しいなどと媚びた目配せをしてきた。全く女というやつは、どいつもこいつも度し難いものがある。だがそれもいいだろう。欲しいものは手に入れればいいのだ。そうして少しずつ僕の手中に堕ちていけば、いい。
驚いたことに、この村の商店主もタヌキそっくりの風貌をしている。村の規模なりに小さい商店ではあるが、どうやらチェーン店というよりは一族経営の店舗といったところなのだろう。しかし店主の名も同じというのは疑問だ。役職名のようなものなのだろうか。衣料品店にも出向き、在庫を確認したがヒョウ柄の服は置いていなかった。
やむなくオフィスに連絡を入れ、ヒョウ柄の服を届けるように指示を出した。
他の住人とも少しだけ言葉を交わした。あまり一度に事を進めては目立ってしまう。ここは挨拶程度に済ませるべきだろう。一人の住人は興奮した犬のように息の荒い男で、ジョンと名乗った。化石を掘るのが趣味だという、見るからにがさつそうな男だった。
もう一人は正体不明の顔色の悪い男。クワトロと名乗った。少しだけあのカエルヅラの男を思い出す風貌をしているが、性格は大人しく時折意味不明の言葉を並べる。非常にスローモーなしゃべり方が気になったが、害のない人間のようだ。どんなことを趣味にしているのかはわからなかった。
第3日目 村の測量を始めることにする。少しずつ計画的に樹木を植え替えていくのだ。野生の樹木が生えているところは養分の高い土地なのだろう、そこを中心に計画農園を築く。僕のノウハウがあれば、数ヶ月でこの村は生まれ変わるだろう。
とりあえず斧とスコップを購入し、持参した果樹を野生樹の元に植えた。ついでに役場で最初の家のローンを一度に完済する。受付の女が驚いた顔をしていたが、気にすることもなかろう。
タヌ吉の店に花の苗を購入しにいくと、媚びた笑みを浮かべながら改築を勧められた。実に商売人らしい対応だ。金さえ入れば、その出所など気にしない。新入りの住人が金を持っていることになんの不信感も持たない。だがそれは僕にとっては却って好都合だ。
先住者達に対して「力」をアピールするのに家屋の大きさは、わかりやすいアピールとなる。一度に豪邸にするだけの財力もあるが、目立たぬよう少しだけ広くすることにした。
帰路の途中、ゾウのような巨体を揺すりながら女が近づいてきて声をかけてきた。ゾウ女(オパールという名のようだ、宝石と同じ名前に笑いがこみ上げて仕方がない!)は、未だにヒョウ柄の服を欲しがっているようだ。この村にとっては「大金」が動く改築の話を終えたばかりだったので、僕から金の匂いでも嗅ぎつけたのかと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
この女の物欲は、先住者達の間では既に相手にされていない様子だ。そこで新参者である僕なら組み易しと、しつこく話題に上げては強請るような素振りを見せているのだ。要は誰でもいいのだろう。こういう強欲な人間は御しやすい。あのワニ顔の女がそうであったように。
その場は適当に愛想笑いを浮かべて流したが、オパールの眼は僕が彼女にそれを与えるであろう確信に満ちていた。ならば応えてやろう。堕ちるのはお前だから。
帰宅するとオフィスからヒョウ柄の服が届いていた。これでいいのだ。僕は服の入った包みを抱えると、それまで抑えていた笑いの衝動を解放した。ここから僕の新しい生活が始まるのだ。
【要約】 自分のDSとソフトに新しい村を建ててタヌ吉バイトも終了させた後に引っ越し完了。手荷物に入れてきた果実を植えて栽培開始。環境を「サイコー」にする為に測量を開始。ゾウのオパールから「ヒョウ柄の服」をねだられる。他の住人は犬のジョンと、カエルのクワトロ。ジョンは化石掘りが趣味で、クワトロはこの時点での趣味は不明。第一回の住宅ローンを完済し、ヒョウ柄の服を注文し入手。
最近確信を持ってきたんですが このゲームはこういう遊び方した方が 多分面白いです(笑)。 (ドラマチックにね、うん)
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2006年03月03日-12:52
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というわけで、この記事はpushuboyさんの『Darts製作請負人の詩 -ダーツ製作の日々-』にトラックバックさせていただいておりますです。はい。
もう随分前になるような気がするのですが、数週間前に図面を引っ張った理想のバレルをpushuboyさんにお願いして試作していただけまして、実は既に相当投げ込んでいます。一本だけですが(笑)。そのバレルが本日pushuboyさんのところで公開されたということで、完成品が非常に楽しみです。
こんな感じになりました。
そして今の仕事の山が明けたら、多分近々旋盤の講習を受けに行ってきます。やっぱ自分でもある程度作れる様にならないとね。面白くないですから。川口市にある産業技術総合センターでは旋盤とか簡易NC旋盤とかを時間貸ししてくれるらしいので。趣味としちゃこういうのも面白いでしょう(笑)。
これからもちまちまとバレルを作っていきたいと思うのですが、僕が拘りたいのは真鍮(ブラス)製や洋白製、またアルミ製のダーツです。芯材を入れれば重量確保も出来ますし、なによりもソフトダーツにタングステンを使って細くするという必要はないと思っていますから。
僕はまだまだAフラの下手くそですが、それでも「太い太い」といわれるブラスダーツでもハットでもBEDでもTON80でもブラックでも出せます。勿論技術的には未熟なので、いつでも出せるというわけではありませんが(笑)。
つまり技術面の問題ではなく、例えば「太いからグルーピングに邪魔」ということはないという話です。ましてやソフトダーツのセグメントは一つ一つがハードに比べて遙かに大きいです。ハードの世界でこそTON80を出すのには太いダーツは邪魔になるかもしれませんが、ソフトの世界では細さはあまり必要ありません。
そもそも既に刺さっている一本目二本目に当たってしまって弾かれてしまうほどのスローイング精度なんてAAフライト以上の上級者です(笑)。そのくらいになってはじめて「同じ重さでもっと細く」という方向に考えを持って行けばいいんじゃないかなぁと思うわけです。
鉛筆やボールペンといった持ちなれた太さ、そして人間工学を採用したという各種のペン達の太さ。そういうところから考えても、これまでの経験的に考えてもグリップが安定させるにはある程度の太さが必要だと考えています。
そしてもう一つ、ブラスバレルのいいところは材質が柔らかいので「傷つき、朽ちていく」ところです。これは勿論だめなことでもあるんですが、反面バレルが傷つく=それだけバレル同士が擦れている=グルーピング出来ているってことにもなるので、それこそ「使い潰す」実感が出来るはずなんですよね。
真鍮なんて安い素材ですから、ダメになったらダメになったでまた新しいのを買えばいい。そしてその度に少しずつ改良していけばいい。バットとかラケットとかシューズみたいに。そんな風に考えています。
楽に持てるダーツ、楽に飛ばせるダーツ。楽=楽しい、そんなダーツをこれからも考えていきたいと思います。押忍。
「どうしても一本目二本目に当たって弾かれてしまうような上級者になってから細いの使えばいいじゃん」といった矢先から余談ですが、先日、日本を代表するスーパープレイヤーの一人である伊林亜記さんのお店「カフェトリップ」に行ってきたんですが、亜記さんはHarrows Club Brass 16gK2で、ガンガンハットもBEDも馬も出しまくっていました(笑)。まぁ直訳するとボコボコにやられたって話なんですけどね?いやーヒドイ目に遭いましたよ(笑)。
また、さらに余談ですが、勢い余って卓上旋盤の購入を考えていたら家主たる父母からさすがに止められました(笑)。
最近は夢にまで旋盤が出てきます。 (誰か読者さんで卓上旋盤とか持ってる人いませんか…)
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2006年03月10日-21:01
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僕は幼少時は埼玉県の草加市というところに住んでいました。通っていたのは「みどり幼稚園」というところ。近くにはスーパーのマルエツと線路と踏切がありました。
今でも鮮やかに思い出せる風景。団地を出て国道沿いの歩道を右に曲がってまっすぐ。綾瀬川の支流の側の饅頭屋さん(?)を過ぎて橋を渡ったら、もう一度右へ。団地の裏側になる住宅街を真っ直ぐ真っ直ぐ進んで、その先を左へ。マルエツへと続く道を真っ直ぐ進んで、マルエツの駐車場と踏切前を通り過ぎれば幼稚園でした。いや覚えているもんですねえ。
気になるのは、そのマルエツの駐車場。今思えば搬入口の方だったと思うのですが、そこにはトタン板で作られたお地蔵さんのお社(?)がありました。どういうわけだか、そのお地蔵さんは僕の記憶の中では銀色のイメージが強いのですが、そんな色をしているわけもなく、少し不思議なイメージが残っています。
そして、亡くなった母方の祖母さまがよく寝物語に話してくれた昔話の「かさじぞう」のイメージからか、僕はそのお地蔵さんが妙に気に入っており、前を通るたびに道路から拝んでいた記憶があるのです。
歩道から駐車場奥の搬入口までは距離にして30〜50mほどの距離があったと思うのですが、そんな距離の向こう側にあるお地蔵さんの姿を見ては、割と毎日拝んでいたようなのです。
特に仏教教育に熱心であったわけでもない家庭で育ったわけですし、3歳〜5歳児が「拝む」という行為を知っているというのも珍妙な話ではありますが、確かに僕は拝んでいた記憶があるんですよね。
しかしながら、そんな時期にお地蔵さんを拝んでいたというのも不思議ならば、そんなところにお地蔵さんがあること自体も不思議といえば不思議。浅薄な知識ながらも記憶が正しければ、お地蔵さんつまり地蔵菩薩は、徳高く慈悲深いインドの王様の一人が神になれる力を持ちながらも人の身で地獄へ向かい、地獄をさまよい苦悩する衆生の魂を救う道を選んだというエピソードの持ち主だったはずです。
そしてそんな伝承からか、お地蔵さんは無縁仏を供養する為に置かれたりすることもあるらしいんですよね。昔からの街道沿いにぽつりぽつりとお地蔵さんが置かれているのは、街道で亡くなった身元不明の無縁仏を供養する為のものだったりする、なんて話も聞いたことがあります。
もちろん元から地蔵信仰があるところで、そこにスーパーが建ったのでお地蔵さんとお社を残したということも十分にあり得るわけですが、それにしちゃ粗末なトタン造りだったような記憶があるわけで、そう考えるとやはり「あのお地蔵さんは無縁仏供養のものだったのかなぁ」なんていう結論になってしまうわけです。
そう考えると、知らないながらもなんでそんなものを拝んでいたのやらという疑問がまた浮かんできますし、幼児故の無知とはいえども、なんとなく不気味な感覚さえおぼえてしまうわけですよ。親父殿に手を引かれて幼稚園に通っていたわけですから、親父殿もなんらか策を講じてくれてもよさそうなもんですのにねえ(苦笑)。今になって親父殿に聞いてみても、さすがに「よく覚えていないなぁ」の一点張りですしね(笑)。
あの銀色のお地蔵さんはなんだったのか、「かさじぞう」のイメージがあったとはいえ、なんでそんなものが「気になって」いたのか――。幼児の内は経験や知識がない分、大人とは全く違う感性と感覚を持っているといいますから、その感覚が何かを感じていたのかもしれませんね。
なんにせよ、さすがに既に25年以上前の話ですから、事の真相は忘却と時代の波の遙か彼方にいってしまっているのでしょうね。十年くらい前に聞いた話では、あたり一帯は再開発されてしまって、昔の面影はまるでないそうですから。
と、ここまで書いて、はたと気づいたのですがグーグル先生のサービスの一つに「グーグルマップ」という地図と衛星写真を融合したマップサービスがあるんですよね。衛星写真はさすがに数年前のものらしいのですが、僕の記憶がどの程度正しいのか、数年前とはいえどんな風に変化しているのかを確認してみたくなったので、早速幼稚園の住所を調べて入力してみたんですよ。
で、結果がこちらなんですが、マーカーのついている道路を挟んだ向かい側が今のマルエツで、その左側にある道が僕が通っていた道なんですよね。さらにその左側はマンションらしきものが二棟建っていますが、ここは背の高い枯れ葦の茂る空き地だったと思います。手前側はグラウンドになっていたんだっけなあ?
で、問題のマルエツ駐車場ですが、配置自体は変わっていないようです。こんなに大きな店舗ではなかったと思うので、そのあたりは変わっているのでしょうけれども。位置的にはマルエツの建物とマンションの間にある青い屋根の建物の右斜め下方の、マルエツの棟のすぐ側にあった様な気がします。まぁさすがに衛星写真では捉えられませんね(笑)。
とまぁ取り留めもないことを書いたわけですが、この頃の記憶というのは不思議なことが一杯なんですよね。もちろん、何分幼児の記憶ですから現実と空想や当時得たテレビや本などの情報などもごちゃごちゃになっているのかもしれませんが。
それでも、同じ学区であったはずなのに幼稚園では決して会うことのなかった「ともだち」や、「ここから向こうにはいっちゃいけないんだ」と頑なにフェンスを越えた空き地に来てくれなかった子、将来の約束をした顔も名前も覚えていない大好きだった女の子の記憶や、夕暮れ時に踏切が開けども渡るでもなく立ちつくしていた長い髪の女の人の悲しそうな後ろ姿など、その記憶に思考の指を伸ばすと、さまざまな「不思議」が浮かんでは消えて行きます。
そして件の「お地蔵さん」も、そんな記憶の一つなんです。別に怖い思いをしたということがあるわけでもなんでもないと思うのですが、細かいところまで記憶を掘り下げようとすると、どうにもストッパーがかかってしまう様なふしがあるんですよね。触れたい様な触れたくない様な…そんな、なんとも奇妙な感覚です。
ただ、決してその「お地蔵さん」には近寄りたいとは思わなかった事だけは覚えています。車が行き来する駐車場ですから、親が入らせなかったのかもしれませんが。引っ越しをするとなったときにも、お地蔵さんにお別れを告げたのは遠く道向かいからでした。これもまた不思議ですよね。それだけ拝んでいたり気に入っていたのならば、なぜ近寄らなかったのか…。
どうにも気になるので、車も手に入れた事ですしヒマを見つけてドライブがてら昔の記憶巡りをしてみようかな、なんて考えています。まぁそれはそれで「不思議」を現実に塗り潰してしまう様で、なんとなくためらいもあるんですけどね。
皆さんにも、そんな幼い頃の「不思議な記憶」はありませんか?それはどんな記憶ですか?よかったら皆さんの不思議な記憶の話も聞かせて下さい。
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2006年03月16日-02:53
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史実での池田屋事件といえば、時は幕末元治元年(1864年)6月5日に、武装蜂起をせんと京都は三条小橋の旅館旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩の尊王攘夷派を、かの土方歳三や沖田総司を擁した「新撰組」が襲撃したという事件であります。
とまぁ、そんな歴史的な事とはあんまり関係なくですね、先日の事なんですが自宅の階段から落ちちゃいました(てへ)。
いやーなんなんでしょうね一体。極度肥満という成人病予備軍っぷりと椎間板ヘルニア。ダーツのやりすぎでの足底筋膜炎くらいしか疾病障害をもっていない無事是名馬を地でいく様な平穏っぷりの僕の日常(割と身体ズタボロだとかいわない)に、さりげなく滑り込んできたバイオレンシブアクシデント。
転落した瞬間、思わず「いいとも」のテレフォンショッキングでタモリさんが「じゃ、お友達の紹介を」って言い放ったときの観客の如く「えー?!」とか云っちゃいましたからね。表情的にも「ナイスキョトン!」って感じですよ。本当に驚きました。
人間っておかしなもんで、自分がこう「やらかしちゃった」と思ったときって、なんか脳内でそれをフォローしようと「よかったさがし」的なことをするんですよね。「お前はタイトルだけ聞くとちょっと誤解受けそうな名作アニメ『愛少女ポリアンナ』か!」っていうようなツッコミを貰えちゃいそうな行為ではあるんですが、割と一般的な人間の機能らしいんですよ。
誰のせいにも出来ないアクシデントであったり自業自得な事であったりすると、なんらか理由をつけて、どうにかプラスに、もしくはプラスマイナスゼロっくらいにしようとするっていうね。そうやって人間はいつでも前を向いて生きていこうとするわけですよ。お、ちょっとイイコト云った気分になっちゃいましたけど、この後に続く話はデブが階段から落ちたってなだけの話ですからね?感動するのはお門違いですよ?
で、この時の僕ももちろんそうでして、自宅の階段から転落なんて、階段に誰かがロウソクをよくよく擦りつけておいたり、オイルをいばらまいておいたり、剥きたてホヤホヤのバナナの皮をスタンバイさせておかない限り、滅多にないことじゃないですか。そしてそんなシチュエイションありえないですしね。どんなトラップハウスだって感じですよ。
つまり、もう完全に自分のせい。自分のミス、四字熟語なら自業自得。英語で云えばマイミステイクなわけですよ。いやそれが正しい英語かどうかなんてことは、この際どうでもいいんです。
とまぁそんなやらかしっぷりだったものですから、僕の脳も持ち前の「ポジティブ補完機能」を全開にしましてね。刹那の瞬間に脳内の記憶データベースからポジティブになれそうな情報を引っ張り出そうとしたわけですよ。
で、出てきたのが「池田屋階段落ち」。たかだか5段くらいの階段を転げ落ちたというか、むしろ滑り落ちただけなのに、随分ご大層なものを拾って来ちゃったんですよ。もう明らかにパニック起こしちゃってるのが臨場感溢れまくりで伝わってきますよね。
この「池田屋階段落ち」ってのは、日本の名作映画「蒲田行進曲」の劇中劇『新撰組魔性剣』のクライマックスシーン。風間杜夫さん演じる「銀ちゃん」こと銀四郎の弟分であるヤス(平田満さん)が様々な事情が交錯する中で、スタントマンさえ怖れた3階分10mぶち抜きの階段を転げ落ちるシーンです。勿論映画「蒲田行進曲」のクライマックスシーンでもあるわけで、僕の大好きな映画でもあります。
そして「蒲田行進曲」といえば、同タイトルのテーマソング。松竹キネマ(現松竹株式会社)蒲田撮影所の所歌であり、JR蒲田駅の発車のミュージックでもある、あのマーチです(今でもこの曲なのかはわかりませんが)。
虹の都 光の港 キネマの天地 花の姿 春の匂い 溢るるところ カメラの目に映る かりそめの戀にさへ 青春燃ゆる 生命は躍る キネマの天地
こんな古き良き、活気に満ちていた頃の日本映画を描き出した、陽気で、でもどこか哀愁を含んだレトロなマーチソング。そんな曲が僕の脳内を駆けめぐり、件の階段落ちシーンが再生されます。平田満さんが叫び、風間杜夫さんが吠え、松坂慶子さんが泣きます。感動的なシーンです。
満身創痍になりながらもヤスは立ち上がりました。生まれてくる子供の父親として、大部屋役者としての意地と魂を見せるため、銀ちゃんのため、小夏のため。それに比べりゃあ、たかだか五段の階段落ちならぬ「階段滑り」(よかったさがしスタート)。どこで擦ったか右肘から流血してるわ、左のふくらはぎはえぐれちゃってるわ、クッション&全ての衝撃を受け止めたケツが2つどころか4つに割れた様なアナクロな傷みがあるけれど、とりあえず骨に異常はなさそうだし、どこもひねってなさそうだ。一応モノカキの命である右手右腕とダーツプレイヤーとして大事にしたい右足も大丈夫そうだし、この程度のアクシデントなんでもねぇよ!これが大部屋ライターの心意気ってもんさぁ!(よかったさがし完了)
とまぁ、こんな感じで大分パニック&妄想過多&狙ったところからアウトコースにハズレ気味な「よかったさがし」を完了させて、セルフフォローをしつつ自分の身体状況も確認しながら立ち上がって居間へと向かったんですよ。
で、居間にいた母上に「どうしたの、なんかスゴイ音したけど」と聞かれたので「階段落ちた…」と力なく応えたんですが、その返事が
「ちょっと。落ちて怪我するのはあんたの自由だけど、階段壊さなかったでしょうねえ?」
でして…。いや、三十路も越えた居候の分際ですから、別に心配して欲しかったわけじゃあないんですし、家を大事に、そして清潔に保っている母上の気持ちもわからんではないのですが…
さすがの僕の脳も「よかったさがし」を せずに、思考停止しましたね。 (素のリアクションで階段の安否を確認しに行ってしまいました…)
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2006年03月27日-06:39
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ニュース記事をさらっておりますと、こんなニュースがございました。
要約するとまぁアレなんですが、ここ数年流行の「バスに広告をいれる」というアレの発展形で、札幌市内の路線バスでは車体だけではなくタイヤホイールにも広告が入ることになり、その記念すべき第一号として市内の人気ラーメン店がタイヤホイール部分に「ナルト巻き」を入れたという話です。
確かにステレオタイプなラーメンにナルト巻きは欠かせないといえば欠かせないもの。わかりやすい広告のデザインファクターではあるかもしれません。オマケにほぼ円筒形の切り口ですからタイヤホイールという場所にあしらうには最適なのかもしれません。
しかし実際タイヤホイールに装着されたナルト巻きの画像を見ると、さすがに違和感があります。違和感というか、シュールというか、「うーん、アバンギャルド過ぎないか?」という懸念さえ浮かんでしまいます。
また「回転したらナルト巻きだかなんだかわかんねーんじゃねーの?」とも思ったのですが、このホイールキャップは走行中も回転しないという無駄な技術が駆使されているとのこと。なるほど広告ベースとしての有効活用をする上では大事なものなのかも知れませんが、回転しているはずの部分が回っていないというのも、かなり違和感がありそうです。
実際走行している姿は「タイヤが滑っているような印象」とのこと。そりゃそうですよね。ナルトの上にバスが乗っててそれが滑っている様に動いてるわけですから目立つことこの上ありません。この件に関してバス会社は「目は回りませんが、すれ違っても驚かないで」とのコメントをしているそうなのですがえーと、色々な意味で無理です。ナルトの上にバスって。普通に驚きますって。目は回さないけど目を丸くしそうですって(うまいこと云った気になりながら)。
それにしても面白いアイデアであるのは事実なんですが、ちょっと調べてみたところ、この「回らないホイールキャップ」の広告は色々問題になっている様子。やはり焦点は、走っている物に対して動いているべき部分が動いていない状態で、なおかつそこに注目を集めさせる様な機能を持たせると、特に子どもなんかがそこに注視していて車体が動き出したことに気づかず、交通事故が発生したりする可能性が高いという事らしいです。これもなるほどなぁという感じですよね。
僕なんかはバイク乗りなもんですから、特にそう感じるのかもしれませんけど、渋滞していたりするときとか信号待ちで発車のタイミングをはかっていたりするときは、隣接する車のホイールの回転を見たりすることがあるんですよね。それがこの場合は見えないというのは、ちょっと怖いなと思います。
そもそも車の構成上、車体の前方後方より内側にある場所ですから、ホイールの絵が水平方向に動いてくるのに注視していたら、少なくとも数十センチ、車のデザインや大きさによっては1mくらいの誤差があるわけで、それだけでも危険です。「あーナルトが動いてくるなーっと、危なごぶぁ(轢)」なんてこともあり得ないことじゃないわけですよ。
「ナルトに気を取られてバスに轢かれた」なんて事故は、その後の人生において背負う十字架にしては重すぎます。いや十字架を背負う間もなく天に召されてしまうかもしれません。これは本当に危ない。
皆さんもマンガなんかで「多重円や渦巻き状のものを回して目を回す」という技を使ったりするシーンを見たことがあると思うんですが、僕がこの記事を読んだ時に一番最初に考えたのはそれだったんですよね。「すわ、目が回った人達が吸い込まれて事故多発するんじゃねーか!?」と。
でもその心配はない機構になっているとの事で一安心したら、今度はその機構自体に問題があるとのこと。うーむ、新しいことをやるってのは、やっぱりなかなか難しいもんですねえ。
ちなみに全然関係ないんですが、この「多重円や渦巻き状のものを回して目を回す」技、仮に名付けるならば「グルグル渦巻き的なモノをくるくるやって目くらまし攻撃」ですが、広いプロレスの世界には、この技をリング状で使うレスラーもいたりするんですよ。
そのレスラーの名はブラック・バロン。こんな感じの風体をした人です(バストショット)。
正面ショット
Extreme Partyさんより転載
見たとおり、もうマスクがそのまんまグルグル渦巻き的なモノになっているわけですよ。リング上にそんな道具を持ち込んだら凶器攻撃になりますから5カウント以内にリリースしなければいけないところですが、マスクなら問題なし。いやいや素晴らしい発想です。
そしてこのマスクで、相手の前に仁王立ちしてコンパクトにした「ZOOのチューチュートレイン的動き」で相手の目をくらませるわけですね。このあたりを見るとその威力が確認出来ると思います(笑)。
ちなみに最強かと思われたこの技も、対戦相手が鏡的なモノ(実際はトレイでした(笑))をブラック・バロンの前に突き出して、鏡に映った自分の「グルグル渦巻き的なモノをくるくるやって目くらまし攻撃」を自分で見てしまって、ダウンするという極めて科学的な反撃で返されてしまったんですけどね。
このブラック・バロンの素晴らしい試合は埼玉プロレスという団体で見ることが出来ます。ただし一見さんやプロレス初心者の方、逆にガチガチのプロレス信者の方には、とてもじゃないですがオススメ出来る団体ではありませんので、ご注意を。
なにしろマットといったら普通のリングではなく、体育で使った床運動用の体操マットをガムテープで固定したリング。興行終了後は自主的に観客が椅子を片付けるという凄まじさですからね(笑)。
あれ?で、なんの話でしたっけ? (ブラック・バロンの画像見てたら本題忘れました…)
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2006年03月28日-14:04
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といっても別に現在アーチストなわけじゃないんですけどね。しかもアーチストってなんだ。普通「アーティスト」だろうに。
というわけで、先日幼稚園ぐらいの頃の記憶の事を書いたわけですが、どういうわけだかぼくは幼稚園時代つまり3〜6歳あたりの頃の記憶が相当色濃く残っているんですよね。
幼稚園に初めて行くということになるのが楽しみで仕方なかった日。そしていざ行ってみたら人見知りをする泣き虫だったので、速攻で幼稚園嫌いになった入園から一日目。チューリップを模した最初の名札。そして鳩を模した最後の名札。おゆうぎ会で3期連続王子をつとめ、重婚の約束をしていた輝かしきプレイボーイ時代でもありました。
「年中」の時に組で作った工作はダンボールの潜水艦だった。黄色く塗られたそれは今思えばビートルズの名曲からの引用だったのかもしれません。潜水艦の円い窓ガラスを模した青セロファンは、そこから見える景色を確かに海の色に染めていました。
それ以来僕は潜水艦が大好きになって、公務員住宅の古びた循環式の浴槽をいつでも潜水艦に見立てては遊んだものです。進水するときはもちろん蓋をする。明かりを入れるために少しだけ開けた蓋の隙間。薄暗いお湯の水面。溜まった湯気の息苦しさ。それら全てが僕の潜水艦のリアリティでした。のぼせと酸欠のダブルパンチで朦朧とする意識さえもです。
そんな時代のとある日のこと、幼稚園の工作で先生がカラー模造紙で作った大きな木にの絵に、色紙を丸めて作った柿をつけるという授業があったんですよ。
工作が大好きだった僕は、わくわくしながら先生の説明を受けていたんですが、どうにも納得のいかない事があったんです。用意された色紙はオレンジと緑。緑の紙は小さく、オレンジは少々大きめだったんですけどね。つまりこれでヘタと実を作れというわけですよ。
作り方はさすがに幼稚園児向けだけあって極めて簡単。丸くなる様に緑の紙をちぎり、オレンジ色の紙はくしゃくしゃに丸めて、それらをセロテープで付け合わせて柿の実に模すという工程です。
そして一人一人にあてがわれた色紙は柿の実5個分。つまりオレンジの色紙と緑の色紙がそれぞれ5枚ずつだったんですね。しかしここが既に僕には納得がいかなかったんですよ。実際に作ってみるとどうにも柿の実とヘタのバランスが悪い。大きさでいうと苺っくらいのバランスでしかないんです。
というのも、柿はその頃よりも小さな頃から田舎から送られてきたり、田舎の柿の木に生っているのを直接見たりしてきていたので、このサイズは僕にとって明らかにリアリティが足りなかったんですよね。
むしろ柿でもなんでもなく、周りの子ども達が「柿ー柿ー」とか云いながら作っているそれはオレンジ色のピンポン球にワカメが着いた様なモノにしか見えなかったわけです。そしてそれは指示通りの工程を辿って作った自分の手にある物体も同じでした。これは納得がいきません。まるで納得いきません。せめてもう少しのリアリティが欲しかったんです。
そこで僕は一計を案じ、もう一枚オレンジの紙を手に取るとくしゃくしゃに丸めて先ほど作ったオレンジの紙玉とあわせ、ヘタとなる緑色の紙とあわせてみたんですよね。するとどうでしょう。二つの紙玉を合わせた結果、オレンジの実の部分は横にふくらんだ扁平球となり緑のヘタ部分とのバランスもそれなりに見られるモノになったんですよ。
これこそ僕にとってのリアリティのある「柿の実」でした。出来上がった柿の実の数は、みんなが5個なのに対して2個でしたけれども、明らかにそのクオリティは僕の方が上でした。
満足げに二つの大ぶりの柿の実をもって先生が来るのを待っていたのですが、進捗を確認しに来た先生が云った言葉は、僕に取って信じられないものだったんです。
「あら、どうして5個出来てないの?一枚ずつ使ってちゃんと5個作らないとダメですよ」
僕は混乱しました。明らかにクオリティの低いモノを量産してどうなるというんでしょう。造形工作という創造性教育の面から考えても個性を尊重すべきですし、実物を模したものを作るにあたっては一定以上のリアリティを追求すべきです。
しかも僕は農家の倅ですから、柿のリアルさは直接知っているわけです。にも関わらずこの教師はそれら全てを否定し、とても柿とは云えないモノを柿であると押しつけて済まそうとしたわけですよ。
僕には先生の云っていることと、その意図がまるで理解出来ませんでした。ただ理解出来ないなりに「そんなのはおかしい、そんなモノを作るなんていやだ」という苦情を言おうと幼稚園児なりの知能で様々なことを考えたんですよね。しかしさすがに幼稚園児。そんな言葉すら出てこなかったんです。
結果として、僕は自分の作った柿の実を叩きつけるや教室を飛び出すという、盗んだバイクで走り出して校舎のガラスを割って回る系の行動に出ることしか出来なかったんです。
まぁ、もしその時の僕に今の僕の言語能力があったならば「こんなもんが柿と呼べるか!ええい貴様じゃ話にならん!!主を呼べ!!」と海原雄山のモノマネをしながら叫んだでしょうね。そのくらい僕の衝動は大きかったんです。
この後、僕はもちろんのこと先生にこってりと叱られ、一度作り上げたリアル柿の実をバラして、しわくちゃのゴテゴテになったものを、苺のようなバランスの柿の実に作り直させられました。
そして、その後先生が作った大きな木にペタペタと貼らされ、他の子達が作った柿の実モドキに紛れて、どれがどれだかまるでわからなくなってしまったまま教室の後にデカデカと掲示されてしまいました。
この事件以降、僕はこの先生に対してものすごい不信感を植え付けられ、柿という果物もあまり好きではなくなってしまいました。いわばちょっとしたトラウマになってしまったわけですよ。とはいうものの図工関係が嫌いになったということはなかったので、不幸中の幸いといえば不幸中の幸いだったんでしょうけど(笑)。
で、なんでこんなことを思い出したかっていうと、先日書いた「おじぞうさん」に、その日の帰りに復讐の誓いを立てた様な気がするからなんですけどね。といっても、先生個人にというわけではなく、個性を認めない現代教育(当時の)のありようとか、世間のありかたとかになんですけどね。いやー我ながらヤなガキだなぁ(苦笑)。
まー誓ったわりには冒頭に書いた通り 現在アーティストでもなんでもないんですけどね。 (そもそもアーティストってなんなのかわからんですしね)
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2006年03月29日-09:23
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