

【過去のつぶやき】
2007年11月の【家元のつぶやき】のバックナンバーです。
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2003年
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● 右手が不便であるといふこと(2007年11月12日-00:12)
● 水とコーヒー #1(2007年11月15日-09:08)
● 水とコーヒー #2(2007年11月16日-04:05)
● 水とコーヒー #3(2007年11月17日-06:05)
● 水とコーヒー #4(2007年11月17日-06:06)
● 水とコーヒー #5(2007年11月18日-19:07)
● 水とコーヒー #6(終)(2007年11月19日-02:41)
    
いやまぁ今の世の中には色々なインスタントラーメンがありますよね。「お湯をかけるだけ」から始まり「お湯をいれるだけ」になり、今じゃ「あとのせ」だとか「食べる直前入れ」だとか、まぁ色々進化しているわけですよ。
そんな中最近増えてきたのが「お湯をカップに注いで出来上がるまでの間に、この調味料をフタの上に載せておいてください」というヤツ。いわゆる「食べる直前入れ」の亜種になるわけなんですが、この手の調味料は油脂分が含まれているので、それをカップからの熱で溶かしておいて混ぜやすくしようというメカニズムなわけなんですよね。
まぁそれはいい。それはいいんです。やや固形もしくはゲル状になっていた調味料が、温められることで液体化し、箸でしごいたりして絞らずとも、パッケージから一滴残らずしっかり出せるとか、そういう利点もあるわけですから。
でも、でもですね。しかしですよ。今の僕の様に手が不自由な人間には、思わぬハプニングを巻き起こす火種になるんですよね。これが。
先日のことなんですけど、どこぞのカップ担々麺を食べようと支度をしていたわけです。お湯を沸かしてカップ麺を開封し、先入れの調味料とかやくを乾麺に振りかけ、お湯を注ぐ。そしてフタをした後、あといれのピリ辛調味油をフタの上に載せて温める。まぁここまでは全く問題なかったんです。
3分経過を告げるキッチンタイマーの音と共にフタをあけて、よーくかき混ぜ、いよいよピリ辛調味油を追加せんと「こちら側のどこからでもあけられます」ラインを見定め、若干利かない右手でピリっとあけたわけです。こう、人差し指と親指でつまんだ状態でね。
中身はカップからの熱で、ちゃーんと液状になっているんですが、それでもまだ若干とろみが残っています。これをスープに混ぜるわけなんですが、その直前に「これはちょっと中身が残りそうだな」と思った僕は、右手に調味料、左手に箸を持って調味油をパッケージから絞りだそうとしたんですよね。
ところが、利かない右手で調味油の開け口を上向きにしたまま持っているもんですから、これをひっくり返して中身をカップに空けるのがうまくいきそうにない。左手に持ち替えればどうということもないのですが、既に左手には箸を持ってしまっている。つまり利き手と逆。
まーなんでしょうね、ここでちょっとしたパニックが僕の身体に訪れたとでもいうんでしょうかねえ。ここで僕が何を考えたかといいますと、一旦左手の箸を右手に渡して、その後右手の調味油のみを左手に渡そうとしたんですよ。つまり左右で持っているモノを入れ替えよう、と。
だって開封済みですから「ちょっと置いて」なんて出来ないじゃないですか。いや、先に調味油のパッケージを左手に渡してから、右手で箸を持ち直すなんていう選択肢は僕の中になかったんですよ。多分お腹がすいて頭に血が回ってなかったんでしょうねえ。
で、まず第1段階として右手の人差し指と親指でつまんでいたパッケージを、右手・中指・親指でつまみ、さらに中指・親指のみでつまみ、最終的に中指と人差し指で挟む形に持ち替えたんです。皆さんもやってみてください。こうすると人差し指と親指の間がフリーになるでしょ?
それから第2段階として、そこに左手に持っていた割り箸を右手に渡そうとしたんですが、悲しいかな握力と巧緻性の落ちた右手には、この一連の動作がキャパシティーオーバーだったようなんですよね。まぁまともな状態でも若干難しかったかもしれませんが。
どうなったかといいますと、持っていたモノ、つまり調味油(開封済み)が落ちそうになってしまったんですよ。ええ、つるっと滑ったという感じですね。で、落としちゃうとさすがにマズいわけじゃないですか。ピリ辛調味油がテーブル一面に広がっちゃったりしてね、おまけにカップの中の担々麺も一味足りない未完成品になってしまうわけですよ。それは避けなくちゃあいけないじゃないですか。
ほんの刹那の出来事です。この瞬時の行動判断、皆さんならどういう行動をチョイスするでしょうか?僕?僕はもう至って簡単な行動をチョイスしましたね。
『調味油(開封済み)が落ちない様に握る』
もうねー握りましたね。「おっと」とか云いながら。でもね、なにしろ開封済みですから、さすがに思いっきり握るわけにはいかないってのは分かっていたんですよ。だから加減をしてね。軽く握ったつもりだったんですよ。でも、箸持っちゃってるじゃないですか、右手に。だから軽く握ったつもりが、箸ごと握りこんじゃったもんだから大変ですよ。
うぴゅっ
って。うぴゅってね。中身がね。担々麺のピリ辛味噌調味料がね、若干というのは憚られるくらいの量でちゃったんですよ。丁度子どもの頃お風呂でやった手握り水鉄砲みたいにね。割と勢いよく、喩えるならば多感で健康な男子中学生の何かっくらいの勢いでね。こう、うぴゅっと勢いよく。
キーボードのテンキーの上に。
なんていうかなあ、ものすごいジャストミートっぷりとでも云えばいいんでしょうかねえ、テンキーの5・6を中心にびちゃっといったわけですよ。満遍なく。そしてキーの間にじんわりと浸食。おいおい、お前が満遍なくなじむべきなのはカップの中の麺とスープなんであって、間違ってもテンキーじゃねえよとツッコミをいれる間もなく、すっかり満遍なくなじんじゃったわけですよ、テンキーと。
もうね「おっと」じゃねえよと、なにやってんだ自分とため息を吐きながら、次に僕の取った行動は、残りのピリ辛調味油をカップの中に入れて、予定通りにしっかりと箸でしごいて絞り出してよく混ぜること。どれだけ食欲優先させてるんだって感じですが、ほら、ラーメン伸びちゃうしね?
まぁその間にもテンキーの奥深くまでピリ辛調味料が、しっかりしみこんでいき、若干というか、かなり取り返しのつかないことになってしまっていたわけなんですが。うわーキー全部外しても拭き取りきれねー、みたいなね。そんなわけで、この文章は若干ピリ辛風味なキーボードで書いております。
…いつもと一味違う文章になったかな…。 (遠くを見つめながら)
[
2007年11月12日-00:12
] ▲
    
「思い出せる?」
「うーん、なんとなくは」
「誘導してあげるわよ。そうすれば簡単に思い出せるはずだから」
「…そういうもんですか?」
「人間は本質的に忘れることができないイキモノだからね。忘れたのは忘れたふりをしているだけなのよ。まぁそう信じなさい。貴方の生きてきた時間、それは全て貴方の脳にしっかりと刻まれているわ。貴方が望むと望まないに関わらず、ね」
「ふうん…」
そんな会話をしてから先輩は、じゃあゆっくりはじめましょうか、といって僕にまぶたを閉じさせた。市内のファミレス、深夜0時前。一番奥まった4人がけの席で2人の男女がする会話にしては、若干奇妙ではある。しかも1人は差し向かいに座った女性を前に目を閉じているのだから。
「最初に思い出すのはやっぱり天井の色ね。何色だった?」
「そりゃ白ですよ。なにしろ団地ですからね。タバコも当時は吸わなかったし、真っ白です」
「そう。じゃあ次は電気ね。どんな電灯だった?」
「えーと木枠で作られたやつで白い樹脂の覆いで…なんていうんでしょ丸い蛍光灯。サークル状の。あれですね」
「うんうん、なんとなくわかるわ。随分鮮明に覚えてるじゃない。もう少し詳しく思い出せる?」
「んーと…ええ。思い出せますよ。なんていうんだろう、常夜灯?赤いオレンジのヤツ。あれが一個で、サークル状の蛍光灯は二つだったと思います。あとはあれ、なんでしょうねえ。十角形くらいのやつが、スイッチをはさんで常夜灯の向かいにあって」
「スイッチはヒモを引くタイプ?」
「そうそう。今あんまり見かけませんけどね…。ヒモ、ヒモの先端のアレ。そうあれが蓄光だったんですよね。電気消してもしばらくぼやっとしてるの。あーあれ長くしたんですよ、横になってても電気つけたり消したりできるように」
「そのころから横着だったのね(笑)。なにか他に思い出せることは?」
「余計なお世話ですよ。他に…他に、あーそれで、そうだ。いつだったかなあ、えーと小学校のなんかの旅行ですね。土産にかったキーホルダーについてた鈴、小さいヤツ。あれがとれちゃったんで、それをスイッチのヒモにつけたんですよね」
「なんか少女趣味っぽいわね(笑)。それじゃ電気を点けたり消したりするたびにチリンチリンうるさかったでしょうに」
「いやまぁそれがそうでもなくってですね。しばらくチリンチリンって2度3度鳴るんですけど、まぁ鈴の重量があるからそうでもないんですよね。本当に2度3度っくらいで」
「ふぅん…その音、今でも思い出せる?」
「ええ、何年もそのままでしたからね。結構鮮明に思い出せますよ」
「そう…それは結構大事なファクターになるかもしれないわね。思い出し方を忘れないでね」
「思い出し方…っていわれても…」
「まぁいいから。それじゃ次に進みましょ。貴方が今思い出したのは天井と電灯。だから貴方は今、貴方が幼かった頃に見ていた床からの風景を思い出せたの。そこからなら簡単よ。そのままお布団に寝ている姿勢で思い出してみましょう。右手にはなにがあって、左手にはなにがあって、足の方向には?頭の方には?窓はどっちにあって、他の部屋への扉はどっちに…?という感じにね」
「なるほど…なんだろ、随分色々鮮明に思い出してきましたよ。へぇ…不思議なもんだなぁ…」
「感心するのは後でいいわ。さ、続けましょ」
こうして僕は先輩に導かれるがままに、昔(といっても20年ほど前だ)住んでいた団地の風景を思い出していった。つまり当時の記憶というのは中学にあがるまでの記憶。大学に上がるまでの僕は転勤の多い父について引っ越しを繰り返したので、先輩の指定した「一番長く住んだ家の間取り」というと、あの団地になるのだ。
「…とまぁ、そんな感じですね。いやーびっくりした。結構覚えてるもんですねえ」
「そういうものなんだって云ったでしょ?もっと深く探っていけば、多分貴方の生まれた家の記憶も呼び出せるわよ」
「えー?そりゃさすがに無理でしょう。1歳までしか住んでいなかったんだから」
「1歳なら十分目は見えているわよ?赤ちゃんだからってずっとベビーベッドにいたとは限らないでしょう?お母さんの背中に背負われて、お父さんに抱っこされて、色々な部屋を見て回ったはずよ」
「うーん…でもさすがにそれは自信がないなあ」
「まぁ、それはまた別の機会にでも、ね。今は必要ないから」
「それもそうですね。で、これからどうするんですか?」
僕がそう問うと、先輩は少し居住まいを正す様にしてから、僕の目をまっすぐ見据えて云った。
「記憶が鮮明になっているうちに、貴方にツいているものを突き止めるのよ」
「…いよいよですか…」
僕の乾いた喉を唾液が滑り落ちる。妙に不自然なまでにゴクリと音を鳴らしながら。
先輩が『ツいている』という言葉を発した瞬間から、僕の背中にはじんわりとした不快感が訪れていた。
ここ数ヶ月の間、ずっと感じ続けている漠然とした『いつもの』不安感。深夜、脂汗と動悸にまみれてに目が覚めることもしばしばだった。誰もいないはずの部屋で奇妙な音が響く。ときどき電灯がチカチカとなる(何度蛍光灯を交換しても、だ)。
だからといって、こういう話につきものの諸症状、つまり悪夢を見るとか、原因不明の高熱を出すとか、人の気配を感じるとかそういうことでもないのだ。なんとも漠然としている。漠然としすぎているのだ。
もちろん“ヒト”の仕業であることも考えたが、それならばそれで無言電話だとかサイコさんじみた手紙だとかが来てもおかしくないはずだろう。なにしろ何ヶ月もなのだから。人間相手ならもう少し積極的な行動に出てもおかしくないはずだ。ところがそうしたことはまるでなかった。
結局僕は段々と憔悴していってしまっていた。なんとか仕事には出ているものの、いつでも顔色が悪く、常に倒れそうだと周りに心配されていた。たまたま会議で一緒になった別部署の先輩に、会議後「あなた、すぐにミてもらったほうがいいわよ」と云われ「いやー病院の先生はどこも異常ないっていうんですよねえ」などと応えたところ「お医者さんじゃ無理でしょ。そういう類のものじゃないから」と返されたのがキッカケで、今ここでこうしているのだ。
そういう類のものじゃない、じゃあどういう類のものだっていうんだと、そのときの僕は思い切り首を傾げたものだ。なにしろ生まれてこの方二十数年間、まるで霊だの祟りだのと無縁に生きてきたのだから当たり前といえば当たり前だ。そりゃあ人並みにそうしたものに興味はあったし、なにしろオカルトブーム直撃の頃に少年時代を過ごしたから、ひょっとしたら普通以上に知識はあったかもしれないが、あくまでも知識の話だ。
信じる信じないで云えば「あってもいいんでない?」程度のものだし、だからといって盲信するわけもない。なにしろ霊感というものがまるでないのだから、それ以上進むまでもなかったし、大人になるにつれ、そういう話は夏の風物詩以外の何者でもなくなっていた。
それが突然、それこそ降ってわいたかの様にそんなことを云われたのだから面食らった。自分のデスクに戻って、先輩の話を女子社員に聞いてみると、どうもやはり“そういう人”らしいということはわかった。ただ進んでそういう話をする人ではないし、別に脅したり見返りをとったりとかそういう事でもないらしい。
女子社員の中には彼女を崇めているのもいるらしいが、先輩の方はきっぱりと「そういうのはやめてね」と云ったとかなんだとかいう事らしい。中学時代の知識を動員して、さまざまな条件を照会してみると、なんとも“ホンモノ”臭が漂う雰囲気ではある。
そして僕がどういうわけか不調なのは確かであって、次はいよいよ別の病院にいって診てもらうべきかと悩んでいたこともあって、その前に飯をおごるくらいで“ミて”もらうことができるならと、極めて軽い感じで先輩を夕飯に誘ってみたのだ。期待というよりは興味半分で。
先輩は僕の誘いを快くOKしてくれた。それまで全く繋がりのない立場だったので警戒されるかと思っていたのだが、正直に目的を告げたのがよかったらしい。「もう少し悩んでからくるかと思ってたわ」と笑われたのが若干気になったが、まあ善は急げと思ったんですよ、と返すと、先輩はまた笑いながら「その調子ならあと三年くらいは大丈夫だったかもね」と云った、
なにがあと三年くらいなのかはわからなかったが、仮にいまの状態が三年も続いていたらと思うと、とてもじゃないがまともじゃいられないと思い、一瞬にして血の気が引き、僕は返すべき言葉を失ってしまった。
そんな様子を見て心情を察したのか、先輩は「軽率だったわ、本当にごめんなさい」と、かえってこちらが恐縮するくらいに詫びてから「詳しい話を聞かせてくれる?」と、僕の目を真っ直ぐ見つめた。その目には霊感など全くないはずの僕でも感じるほどの、なにか強い力があって、僕は自分の決断が間違っていなかったことを、どこかで確信していた。
[
2007年11月15日-09:08
] ▲
    
詳しい話、といっても僕が語るべき事というのはあまりなかった。というか、なにをどう語ったらいいのかわからないのだ。いや、細かく事を挙げればキリがないのだが、そうした気になる全てを語ろうと、思い当たることを様々思い浮かべると、言葉にしようとする前に恐怖がやってきてしまうのだ。
その“恐怖”は、別に先輩のいう「ツいている」モノやら得体のしれない何かについてのものじゃあない。もっと単純なことだ。「ただ神経質になっているだけじゃないか?」「少し疲れているんだよ。休みなよ」「俺の知り合いで同じようになってたヤツがいたけど、しっかり薬飲んでいれば治ってたよ」という、彼らの思う“心配”や“思いやり”だの“優しさ”だのといったオブラートに包まれた、哀れみと異常者を見る目に対する“恐怖”だった。
正直に云ってしまえば、霊だのなんだのよりも、そういう形で正常と異常の境界の向こう側に追いやられてしまうことの方が万倍も怖い。怖いのだ。いつのまにこんな風に怯える様になってしまったのかはわからないのだが、とにかくそれがなによりも怖いのだ。心配の言葉をかけられればかけられるほど平気だと軽口で応えてしまう。鏡を見れば自分でも呆れるほどに青ざめた顔で、無理矢理に笑顔を組み立ててしまう。だけどその裏には「俺は正常なんだ!!」という叫びを押し殺していた。
だから先輩に促されても、とてもじゃないが言葉が出てこなかった。なにかを云おうと喉元まで言葉を運ぶが、口から出そうになるのは「いや、大丈夫ですよ」という会話を成立しえないような意味不明の強がりになりそうになってしまう。僕は喘ぐ様に口をまごつかせながら、自分の目を見つめる先輩の目をただ見返すことしかできなかった。
「これは…ちょっと大変そうね…」
先輩は少しだけ困った様な表情を浮かべてから「でも大丈夫よ。そんなに悪いものではないみたいだから」と云うと僕の右肩を指輪もなにもしていない白い左手でぽんぽんと二度叩くと、手を肩においたまま「今日、この後は?」と聞いた。金曜日だったが、特に残業の予定も飲みにいく予定もないので、家に帰るだけだとやっとのことで応えると「じゃあ、早速ご飯に連れて行ってもらおうかな」と、年上らしい笑顔で云った。
肩に添えられた掌は温かくて、どういうわけか僕はひどく安心したように大きく「はい」と応えてから、思わず周りを見回してしまった。幸いなことに誰もこちらに注目している者はおらず、ほっと一息吐くと先輩は面白そうに「大丈夫だよ。大丈夫」と云い、また僕の肩をぽんぽんと二度叩いた。
それから3時間後の夜9時。僕は先輩に指示された通り一旦家に帰ってシャワーを浴び、私服に着替えてから待ち合わせ場所に立っていた。同じ市内にある、先輩の自宅最寄りの駅。そのタクシープール近くでケータイから到着した旨をメールで送る。ほどなく先輩がオレンジ色の軽自動車に乗って現れた。
「OK。キレイにしてきたね。さ、乗って乗って」
と助手席越しに僕に話しかける先輩は、化粧もすっかり落として(いや、しているのかもしれないが、昼の顔とは違った)、ざっくりとしたTシャツにジーパンという姿に着替えていた。
「なんかあべこべっすね」
「ん?なにが?」
「や、食事に誘ったの僕なのに。先輩に車出してもらって迎えに来てもらってって」
「あはは!そういえばそうねえ。でもまぁ必要なことだから」
「そうなんですか?」
「そうよー。それにほらちょっと時間かかるかもしれないからね」
「時間が…?」
「うん。だから車。心配しなくても帰りは送っていくから。B町でしょ?」
「え、いやいいっすよ。タクシー拾いますし」
「まーまーいいから。その代わりご飯頼むわよー」
「あ、任せてください。コンビニでおろして来ましたから」
「あははは!どんだけ食べると思ってるのよー?」
「あ、いや、そんな意味じゃ…」
「まぁまぁ。で、何食べたい?それとも任せてもらっていい?」
「あー…もちろん、お任せします。ここいら土地勘ないですし。先輩の食べたいものでいいっすよ」
「そう?それじゃあそこにしようかなー」
そんな会話や会社での四方山話をしながら車は見覚えのある番号をつけた国道へと進んでいった。十五分も走っただろうか。ついたのはどこにでもあるイタリアンチェーンのファミレスだった。
「え?ここでいいんですか?」
「そうよー。あら、イヤだった?」
「や、そんなわけじゃないすけど。結構よく来ますし」
「じゃ、いいじゃない。さーいくよー」
先輩はさっさとキーを抜いて車をおりてしまう。慌てて後を追う様に車を出ると、追いかけるようにファミレスへ入っていった。出迎えた店員に喫煙席か禁煙席かをきかれると、先輩は迷うことなく喫煙席の一番奥の席を指さして「あそこがいいな」と指定した。ちょっと強引なくらいの口調で。
「それではこちらへどうぞー」と案内されるままに、僕らはその奥まった席に陣取った。座ると早速先輩はメニューを広げて「なににしようかなー」などと暢気に云っている。僕はこれから始まる“なにか”に、ちょっとした怯えにもにた感情があったし、そもそもあまりよくしらない女性と食卓を囲む事も、これまで多くなかったので、そうした意味での緊張もあって、灰皿に手を伸ばした。
「ん?吸うの?」
先輩がメニューから顔を上げて訊ねたので、僕は躊躇して「あ、いや、いいすか?」と訳のわからない受け答えをした。
「どうぞー。あたしも吸うときあるから気にしないでいいわよ。でも食事中はNGね」
と笑いながら灰皿を勧めてくれる先輩に会釈しながら「もちろんですよ。俺も飯の間に吸われるのはイヤなんで」と返す。これだけで少し緊張がほどけた。ちょっとした共通点を見いだしただけで我ながら容易いもんだなと、少し自嘲気味の笑みが口元に浮かびかけた。
食事の間は他愛もない世間話に終始した。車に乗っていた間にカーステで流れていた音楽の話から、僕の契約している音楽専門チャンネルでそのアーティストのPVの特集を今度やるといった話になり、できればそれを録画しておいて欲しいなんていう頼みを受けたり、先輩の話を教えてくれた女子社員の話題から、食事を終える頃には、先輩自身の過去の話になっていた。
「別にそんなに特別なことじゃないのよね」
「や、十分特別だと思いますけどねぇ」
「そんな風に云うけど、100パーセント信じてる?」
「うーん…そういわれると…恐縮ですけど」
「そうよねえ。すごく普通の応えよ、それ(笑)。十分まとも」
「すみません…」
「謝ることじゃなわよー。気にしないでいいよ」
「でも、なんというか、信じることは出来るって感じがあります。これも正直なところです」
「そうね。君もそうだけど、私達の世代ってやっぱり中高あたりでそういうブームがあったじゃない?だから下知識として受け入れることができる素地はあるのよね」
「ええ。自分もなんとなく知識だけはあります」
「だから、あたしもその頃ようやく受け入れることが出来たのよね。なんていうか、自分の個性に名前がついたとか、そんな感じ。原因不明の病気に名前がつくと安心するっていうのあるじゃない。あれみたいなものね」
「なるほど…」
「特殊な能力とか、特別とかじゃないのよ。ただの個性だと思ってる。あたしからしたら、100mを10秒で走るとかの方がよっぽど特殊な能力よ(笑)。それどころか100m泳げるってだけでもね(笑)」
「お、先輩泳げないんですか?」
「珍しいイキモノでも見る様な目でいわないでよー。一応泳げたわよ。中学の25mプールはね」
「往復?」
「…片道よ」
「そりゃあ…」
拗ねた様な表情でポツリと小さく云った先輩の言葉に、思わず吹き出しそうになってしまった。顔を背けて口元の笑いを隠そうとしたが、先輩はめざとく「なかなかにひどいよねぇ…まぁいいから飲み物とってきてよ。オレンジジュース」と、姉が弟を使い走りさせるような口調で、ドリンクバーを指さすと僕を追い立てる様に手をふった。
先輩ご注文のオレンジジュースと、自分の分のジンジャーエールを持って席に戻ると、先輩はまだ少し拗ねた様な表情で「ありがと」と云ってから「人のことバカにしたけど、そういうキミはどうだったのよ?」と責め立てる様な口調で聞いてきた。
「一応普通に泳げますよ。今でも多分」
「どれくらい?」
「んー…その気になれば、まだ400くらいいけるんじゃないですかね。遠泳はしたことないんでわかんないですけど」
「足つかないで?!」
「足つかないで…って(笑)。そりゃそうでしょ、その為にターンとか練習するわけで」
「ちょっとなによー。経験者?水泳部かなんかだったの?」
「や、中高は別にやってなかったですよ。ただガキの頃肌が弱かったんで、水泳に通わされてたんですよ。スイミングスクールってやつです」
「なるほどねー。でもそんなの随分昔のことじゃない」
「あーいや、大学の頃ジムに通ってたりして、そこのプールでも泳いでたりしたんですよ。で、そのときも普通に流す感じで200くらいはイケたんで」
「しまったなぁ…なんかどんどん墓穴掘ってる気がする…」
「まぁ別に、どうということもないですよ。ガキの頃からやってたら、身体が覚えてるっていうか…そんな感じで」
そう宥める様に云うと、先輩はそれまでの少し拗ねた様な表情を変えて云った。
「そう、なのよね」
「え?」
僕は頭の上にクエスチョンマークを浮かべた様な顔で聞き返す。
「そうなのよ。そんなもんなの。あたしのも」
「…ああ!」
なるほど、そういうことなのか。僕は先輩の言葉の意味を理解して、深く頷いた。特殊な能力や特別なことじゃない。僕が泳げるように、先輩も“ミえる”のだ。僕はようやく先輩のもつ“個性”へのスタンスを理解した。先輩がこの会話の流れを意図したものなのかかどうかはわからなかったが、先輩はそんな僕の心情を見透かした様に、にっこりと笑った。
[
2007年11月16日-04:05
] ▲
    
「でも、なんていうかその、霊ですか。そういうのってどういう風に見えるんですか?」
「見えるっていうかねえ。まぁなんだろう。普通の人と変わらないわよ。ただ明らかに、他の人には見えていないってだけ」
「へえ…?」
「んー。例えばさ、雑踏の中でキミは普通にまっすぐ歩く?」
「まぁそうですね」
「色々人が歩いているのに?」
「ああ、そりゃ避けて歩きますよ」
「そうよね。向こうもそうしているわけ。見えているから避けて歩く。だから不注意だったり滅多なことがない限り、雑踏でもぶつかったりしないわけ」
「そうですね」
「でも、周りに見えてない人がいたらどう?」
「…ああ…」
「そういう風に見えるのよ。見えてない人が見えるって感じ」
「なんかすごく、今納得しました」
「そういう人が多い場所でなら、キミも見てるかもしれないんだよ?」
「えー?それはないでしょう」
「どうかしらね。だって例えば渋谷のスクランブル交差点とかあるじゃない。信号が青になったら一斉に歩き出すよね。すごい雑踏が。あれが“生きている人”だけだって確証がある?証明できる?」
「それは…」
「まぁそういうことなのよ。その程度のものなの」
先輩は僕の持ってきたオレンジジュースを飲み干してから、そう云った。あくまでも軽い口調で。
「なんか、その、例えば苦しそうな表情をしていたりとか、そういうのはないんですか?」
「んーそうね。あるよ。そういう人も沢山いるわよ」
「そういうのこう、寄ってこないんですか?」
「どうなのかなあ?あたしには滅多にないよ。なんていうか、そういう人って大概が一人で同じ行動繰り返しちゃってるのよね」
「…例えば?」
「食後に話すことでもないかもなんだけど…飛び降り自殺をした人って、何度も飛び降りるのよ。飛んだ直前の意識しか残ってないから、それがなんていうんだろう焼き付いちゃってるのよね。だから何度も飛び降りてる。学生時代の通学路にね、そういう現場があって、それは結構参っちゃったわね」
「うわぁ…そりゃあ…」
「そういうのは、やっぱりちょっとショッキングよね。でも意識して見ていない限り、どうこうっていうのはないわよ」
「意識して見る…ってどういうことですか?」
「んーと…例えば毎日キミが通勤してくる道があるわよね。そこでいつも同じ時間に電車に乗る人がいたとするじゃない。その人のことじーっと見つめたりする?」
「や、そんなことはしないですよ」
「じゃ、逆に見られていたら?毎日じーっと、ね」
先輩は僕の目を覗き込む様に目を大きくして見つめた。なんだか気恥ずかしくなって視線をそらす。
「そりゃ、なんかこうあんまりいい気はしないし、気になりますよね」
「同じ事。だから意識して見たりしない限り、向こうもこっちにアプローチをかけてきたりはしないわ」
「…なるほど」
他にもいくつかの質問をしたが、先輩の応えはいつでも的確で、僕はバカの一つ覚えのように「なるほど」や「へぇ…!」という感嘆の声を返し続けることになった。そしてその度に僕の彼女に対する、そして彼女の“個性”に対する信頼度は増していった。
なんだかんだでケータイの時計表示をみると、既に時間は11時近くになっていた。天使が通るタイミングというやつだろうか。会話も一段落して、2人とも飲み物を口に運んでいた。先輩は僕が持ってきた3杯目のオレンジジュース、俺はジンジャーエールから烏龍茶に変えていた。
コトリ、とテーブルにグラスをおいて一息吐くと、先輩は「さて…」と一言おいてから、再び会話の口火を切った。店内に流れている白々しいカンツォーネや他の客の話し声や食器の音などが、妙に遠くに聞こえた。なんとなく緊張してしまう。
「水泳教室。楽しかった?」
スカされたような話のフリに、思わず僕は少し面食らいながら質問の意図を読み込もうとしていた。
「ええっと…そうですね。楽しかったと思いますよ。友達もいましたし」
「そう。小学生の頃っていったわよね。ずっとこっちに住んでいたの?」
「いや、違います。こっちには会社入ってからですね。先輩はご実家でしたっけ」
「そうよー。大学は下宿してたけどね。会社に通うのが楽で戻っちゃったの。じゃあ小学校の頃はどこに?」
「あ、S県です。そこの県庁所在地のU市ですね。その前はS市です」
「あら、引っ越ししたんだ」
「親父の転勤が多かったもんで。結構転々としてましたね。一番長かったのはU市ですけど」
「じゃあ転校生経験ありなのね」
「あーそれがないんですよ。生まれてすぐ、幼稚園卒業、中学卒業、高校卒業、大学卒業で引っ越ししてたんで」
「区切り区切りで引っ越ししてたのね」
「そうですね。親父が単身赴任状態になってた時期もありましたよ(笑)」
「そうかそうか。じゃあ貴方が一番長く住んでいたのはどこになるのかな。U市?」
「そうですね…小・中と9年間ですから、一番長いです」
「うん、そしたら、そこまで辿ってみましょうか」
「え?辿るって?」
「んーと…簡単な催眠術みたいなものよ。あ、大丈夫よ、別に無意識の間にどうこうとかそういうことじゃないから。っていうか、そんなのできないしね(笑)」
「はぁ…」
訝しげに首を傾げながら生返事をする僕に対して、先輩は少し困った様な表情をしながら説明する方法を考えているようだった。
「えーとね…占いっていうか…なんだろうな。私の一つの方法なのよね。うーん、なんだろう。私って、見えるけれど、底の方まで見透かして見えるわけじゃないのよ。だから相手の協力が必要になるのよね」
「はぁ…」
「例えば今の貴方だけど、見えるのは見えるんだけど、それがなんなのかはわからないの。わかるのは貴方にあまりよくない影響を及ぼしているっていうことだけ。宗教とかやってるわけじゃないから、いわゆるお祓いみたいなのを期待されても、それはできないのよ。ご供養とかそういうのもよくわからないし」
“私”、“貴方”。いままで“あたし”と“キミ”だったものが変わっていた。今まで僕の目を正面から見て話をしていた先輩は、今は僕の目を見てはいるモノの「その向こう側」をも見ている様な表情をしていた。
ああ、始まっているんだ――僕は直感的にそれを悟った。
「だから辿っていくの。これは一つの方法。貴方の一番長く住んでいた“家”。それは貴方という存在を構成している大きな要素になるの。だからそれを辿って、今の貴方に現れている変化を探すわけ」
「よく…わからないなりに、なんとなくわかりました。はい」
ごくり、と喉を鳴らして唾液を飲み下す。
「あの…」
「ん、なあに?」
「やっぱり、なんかツいてるんですか?」
「あ、うん。そうね」
随分軽く云ってくれる。
「えと、その…どんな…人が?ってか、人なんですか?」
「ああ、それは間違いなくヒトよ。女の人。結構若い」
「女の人?!」
記憶を一気に検索する。いや、知りうる限り取り憑かれるほどの恨みをもたれたり、というか今既に死んでいたりする過去の恋人や友人は存在しない…はずだ。
「えと…心当たりがないんですけど…」
「でしょうね。貴方には心当たりがまるでないと思う。だから私もちょっと困っているのよ。私はこの人から何も聞くことができないから」
「え…と、それって?」
「あー…うん、あのね、例えばこの人が貴方の親類縁者だとか、ご先祖さまだとか、そういうのなら、なんとかわかるのよ。メッセージっていうか、なにをして欲しいのかとか、貴方がなにをすべきなのか、とかね。あとは恨みを持っている場合とか」
後半の言葉は僕を十分に脅かしつつ、安心を与えるものだった。そうではない、ということは、どうやら僕にツいている人に僕は恨まれているわけではないらしい。
「だから、私も貴方も、というかむしろ貴方が、この人をシる必要があるの。そうすれば私もこの人をシることができるから。そうすればなんとかできると思うのよね」
安心していいのだか、困惑していいのだかわからない。理解していいのか、理解できるのかもわからない。ただ、そうすべきなのだというならばそうするべきなのだと、僕は自分の理性やら理解やらを放置して、先輩の言葉に頷いた。
「でも、それでなんで昔の家を?」
「うん。さっきもいったけど長く住んだ家って、その人の存在を構成する大きな要素なのよ。宗教じみた言い方をすれば『魂を作り上げた場所』なの。だからそこを辿って、この人との繋がりを探すのよ」
「え、でもじゃあそんな昔からのことなんですか?」
「そういうわけじゃないわ。こういうのにはあんまり時間的な縁って関係ないから。ただ相手―今は貴方ね、それが無自覚な場合、探すのには一番適した方法というだけ。多分、貴方はその記憶とイメージを辿ることで、この人に会えるわ。その中でね」
「うーん…まぁやってみます…」
「ええ、そうそう。まぁ、やってみましょ、でいいのよ。そんなに重苦しく考えないでいいから。貴方は私と普通に会話していればいいだけ。ただ、なるべくでいいから、その中で見たもの見えたものは隠さず話してね。そうでないと私も何も出来ないから」
最後の一言を云うとき、先輩は確実に僕の目だけを見つめていた。それだけ大事なことなんだろう。そう認識すると、途端に恐怖感がこみあげてきたが、先輩はこれまでの会話の中で、ここ数ヶ月の間中、僕の身の回りに起きていた様々な奇妙な事や、漠然とした不安感だの恐怖感だのに、全く触れなかった。
だからこそ、僕は先輩の言葉を信じて従おうと思った。本当に必要なこと、本当に根本的なことだけを、先輩は僕の口から話させようとしているのだ。そしてそれだけでなんとか出来ると思う、そう云ってくれている。それだけでいいのならば、僕も恐怖感を抑え込むことが出来るだろう。
先輩の目を見つめながら、僕は黙って大きく頷いた。
「――それじゃ、始めましょうか」
[
2007年11月17日-06:05
] ▲
    
「昔の家の中で捜し物をするのよ」
「捜し物、ですか…でも何を?」
「死体」
あっさりととんでもないことを云ってくれる。僕は唖然として先輩の目を見つめたが、そこには全くからかう表情もなにもない。真剣そのものの表情だった。
「死体、かもしくは、それに類するものね」
「いや、でも先輩。うちには死体なんかないですよ。殺人事件がおきたとかそういう部屋でもなかったし、葬式もうちじゃあげてないですし」
「うん。そうでしょうね。だけどこれは貴方の精神の中のことだから。現実はあんまり関係ないのよ。死体っていうのもイメージなのよね。私が貴方を誘導して、貴方の頭の中にある家を探せば、きっとどこかに死体か死に直結するイメージの何かを見つけるわ」
「じゃあ、その死体っていうのは…」
「うん、貴方にツいてる女性のよ」
背中が途端に寒くなり、全身から冷や汗が吹き出すのがわかる。多分シャツに隠れた部分は鳥肌になっているだろう。
「正直…怖いです」
「そうよね。でも大丈夫よ。私も一緒にいくから」
「え?」
「んー…なんかトンデモっぽいけど、まぁ事が事だしね。出来るだけ信じてちょうだいね。意識を同調させて、貴方が見ている光景を私も見るのよ。そうすれば私にもそれが見えるから。私が誘導して貴方の家の中を明確にしていくから、その中では貴方が私を誘導するっていう感じね」
「なんか…また、わかったようなわからないような…」
「うん、でも別に危険があるわけじゃないから。試してみる感じでね」
「はい。でもどうやって?」
「えーと、まぁ簡単な方法だと普通にリズムをあわせればいいんだけどね」
そういうと先輩は右手の人差し指でテーブルをコツコツと叩き始めた。
とんとんとーん・とんとんとんとん
とんとんとーん・とんとんとんとん
とんとんとーん・とんとんとんとん
「いちにーさぁーん、ごーろくしちはち、いちにーさぁーん、ごーろくしちはち」
とんとんとーん・とんとんとんとん
とんとんとーん・とんとんとんとん
「わかる?」
「ええ。なんか運動部のかけ声みたいっすね」
「あはは!そうねぇ。うん、大丈夫。強がりでもそれだけ余裕があれば大丈夫よ」
そういって微笑むと、先輩は左手を差し出して僕にも手を出す様に促した。そしてテーブルにおかれた僕の手の甲に掌をかさねる。温かい。単純なようだが、それだけで僕の恐怖心は少し薄らいでいった。
「私がこうやってリズムを刻むから、貴方は心の中で『一二三・五六七八』って唱え続けてね。口では色々説明してもらうから呟かないで、心の中でね。どんなものを見ても、なるべく驚かないで、帰って強く数字を念じてね」
「はい、いちにーさぁーん、ごーろくしちはち、ですね」
「そうそう。ちょっと練習してみる?」
「いや、大丈夫です」
「それじゃ玄関前から行きましょう。目をつむってね。外からの情報は少ない方が集中しやすいから」
「…はい」
云われるがままに僕は目を閉じる。そして懐かしい団地の外観を思い出そうとしていた。
「おうちは団地の何階にあったの?今何が見える?」
「2階です。今思い出してるのは外の窓枠ですね。二階の…僕の部屋です。東側にあって、どの窓にも鉄製の柵がかかってたんですよ。多分落ちない様に」
「そう、色は?カーテンもみえるかしら」
「柵はオレンジのペンキで塗られてましたね。何度か塗り替えられたけど、大体いつもオレンジだったなぁ。カーテンは…水色のペイズリーだったと思います。網戸でよく見えないけど」
「中から見なくちゃわからないなら、そこはいいわ。階段を上がって二階に行ってね」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「扉がみえる?どんなものかしら」
「鉄製です。真ん中あたりに新聞受けの穴が空いていて…所々ペンキが剥げてます」
「鍵は?」
「持ってます」
「じゃ、開けて入りましょうか」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「はい、玄関です」
「“ただいま”は?」
「あ、はい。ただいま…」
少し気恥ずかしくなりながら、ぼそりと口に出す。先輩のクスリと笑う声が聞こえたが、おかげで少し余裕が出てきた。
「返事はない?」
「あ、そうですね。ないです。誰も帰ってないみたいです」
「そう。玄関には靴がある?」
「えーと…親父の予備の革靴と、姉貴のスニーカーと、サンダルと…僕のスニーカーもあります」
「みんなが普段履いている靴はないのね?」
「あ、はい。ないですね。みんな出かけてます」
「そう。見慣れない靴はない?」
「…ない、と思います」
「そう。靴箱はある?中を開けてみて」
「あ、はい。特にかわったことはないですね。ああ、なんか親父の靴磨きをしたときの臭いがします。靴磨きの…なんだろワックスみたいな?」
「うんうん、随分鮮明ね。変わったことがなければ靴を脱いで家に上がってね」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「はい。あがりました」
「右手と左手、なにがあるのかしら」
「えと、右手は居間への扉と両親の寝室への襖があります。左手はトイレで、その左奥が洗濯機のある洗面所で、その右側が風呂です」
「なるほどね。じゃあトイレからいきましょう。変わったことがある?」
「いえ、なんかでも懐かしいです。コンクリにペンキ塗っただけのトイレだったんですよね。冬は寒くって」
「ふふ。じゃあそのまま洗濯機の前に行ってみてね」
「はい、特になにもないですね」
「誰かの服とかある?」
「えーと、洗濯物が積まれてますけど、特に違和感はないです。玄関側との仕切りの上が棚になってるんですけど、そこにも特になにか変わったものはないですね。うわーなんか懐かしいな。思い出せるもんですね、あんまり使わなかったけど、野球のグローブがあそこにおいてあったんですよ」
「お父さんからのプレゼントね」
「そうです。よくわかりますね」
「同調してるから」
「ああ…なるほど…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「お風呂場、見てみましょうか」
「はい。あーここの扉立て付けが悪かったんですよね…懐かしいな、追い炊き釜だ。ハンドル付の…元栓がこっちで…洗面台もあって…特に異常はないです」
「お風呂の中も?フタしまってない?」
途端に僕は少しギクっとした。確かに頭の中で見ている風呂にはフタがかかっていた。三枚のパネル式のフタだ。ひょっとしたらこの中に死体が。女の死体がうずくまっているのかも知れない。
「…あけなきゃですか?」
「ええ。大丈夫よ。一緒にいるから」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「はい…」
僕は意を決して、意識の中で顔を背ける様にして風呂のフタをあけた。そして薄目で中を見る…とはいっても意識の中での出来事なのだが。しかしそこには水が張ってあるだけで、なにもなかった。
「なにもないわね」
「…ええ。ないです。沸かす前に水だけ張ったみたいですね」
「OK。じゃ次にいきましょうか」
「両親の部屋ですか?」
「そこは後回しね。居間に入ってみましょう」
「…わかりました」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
残された部屋は三つしかない。居間と隣接するキッチン。そして姉貴達の部屋と僕の部屋だ。その全てを僕(僕たち?)は回っていった。キッチンでは冷蔵庫を開け、流し台下の収納や食器棚まで調べた。居間は収納スペースもないので一目瞭然だった。ただ懐かしい空気が鮮明にそこにはあっただけだった。
姉貴達の部屋は二段ベッドと机が二つ。収納はないので探す場所はほとんどなかった。念のためベッドも見たがなにもない。ベッドの下の暗闇にもなにもなかった。
いよいよ自分の部屋に入る。ここには押し入れがあるので、そこに大きな可能性があった。先輩がいうには「確実に死体かそれに類するものがあるはず」なのだから、恐怖の瞬間との遭遇は確実に近づいているわけだ。僕はおそるおそる部屋中を調べたが、そこにも死体はなかった。
「残るのは…ご両親の部屋だけね」
「えと、その…行かなきゃダメですか」
「そりゃあね。ちゃんとしたいでしょう?」
「…はい」
現実の方で先輩が重ねた掌が僕の右手を少し強く握った。
「大丈夫よ。ちゃんと唱えてね」
「…はい」
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
とんとんとーん・とんとんとんとん。
両親の部屋へと続く襖の取っ手に手をかけて、僕は何度も数を唱えた。先輩の指が刻むリズムが、心なしか優しく緩やかで、僕の気持ちも少しずつ落ち着いてくる。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
とんとんとーん・とんとんとんとん。
そして僕は、襖を開けた。
[
2007年11月17日-06:06
] ▲
    
両親の寝室は、畳敷きの六畳間だった。壁際にタンスが二つ。西側のベランダに続く窓。押し入れには布団と衣装ケース。ミシンなんかも入っていたと思う。タンスの一つは和箪笥で、母の着物なんかが入っていた。
だから両親の部屋は少し変わった臭いがしていた。樟脳の臭いと、畳の臭い。そして両親の臭い。僕はこの部屋が好きだった。この部屋の臭いが好きだった。そこには懐かしい原風景の一つがあった。
そのはずだった。
先輩に導かれるままに、そして先輩を導きながら辿り着いた僕の意識の中の両親の部屋。そこの襖を開けると、そこに広がる畳のこじんまりとした部屋の中央に、見知らぬ女性が俯せに倒れていた。先輩に「死体を探す」そう云われていたからというのもあるだろうが、一目に見ても彼女、いや“それ”が死体であることは明白だった。
長い髪、青白い肌、青ざめた顔。表情は見て取れない。血が流れているわけじゃない。大きな傷があるわけでもない。どこか身体に欠損部位があるとかそういうわけでもない。だが、そこにあったのは明らかに死体だとわかった。
「…っ!」
現実の世界で思わず息を呑む。先輩に握られていた手を翻して自分も先輩の手を強く握った。これは頭の中の出来事なのだと意識するために。そして叫び声を上げたくなるのをぐっとこらえて、必死に数を数えた。
(いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!いちにぃさーん!ごーろくしちはち!)
「この人ね…」
先輩は優しく僕の手を握り返しながら呟いた。そして「…練炭かぁ…」とポツリと云った。練炭、ここ数年でよくニュースにあがる言葉だった。つまりこの人は練炭自殺したということなのだろうか。
「わかるんですか…?」
いささか驚いた口調で問うと、先輩は事も無げに「臭うからね…」と応えた。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん…そっか…」
僕は何も云っていない。先輩の独り言だった。ただ、奇妙な光景が僕の心の中には描かれていた。僕の意識の中にある僕の家。その両親の部屋に、見知らぬ女性の死体があるその部屋に、先輩が入ってきたのだ。現実の世界と同じ格好をしていたが、先輩は少し白いというか、なんというか全体的に明るい色をしていた。
そして女性の死体のそばにしゃがみ込むと、彼女の髪を指先でかきあげるようにして、頬を優しくなでるようにして、話しかけているようだった。
「うん…そうだねえ…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「ああ、そうなのか…でも、彼も困ってるからね…」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
現実の世界で先輩の指が奏でる音は、まるで語りかけの言葉のように時に緩やかに、時に強く、そして優しく繰り返される。その光景と音に包まれていると、少しずつショックと恐怖が薄らいでいくのがわかった。ああ、大丈夫だ、そう思えてくる。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
「うん。そうだね。いきかたは教えられるから大丈夫だよ」
まだ独り言は続いていた。いや、先輩は彼女と話をしているのだろう。それは僕には出来ないし聞こえないことなのだ。
ふと、意識の中の方の先輩が僕を振り返る。そして現実の世界の方の先輩が言葉を口にした。
「西側の窓ってどっちかな?」
「あ、ああそこの窓が丁度そうです。もしくは姉貴の部屋か居間か。いずれにしてもベランダ側が西のはずです」
「そっか、じゃあ中に入ってカーテンを開けてくれる?それから窓も開けてね」
躊躇した。意識の中の出来事とはいえ、死体のある部屋に入るのは怖かったのだ。それがしかも自分にツいている相手ともなれば、余計だ。だが現実の世界の先輩が僕の手を優しく握り、大丈夫だと声をかけてくれる。もう先輩の言葉を信頼するしかない。僕はありったけの勇気を振り絞って部屋に入ると、あまり死体の方を見ない様にしながら窓側に回り込む。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
先輩のリズムに合わせて、今度はまるでお経を唱えるかの様に数字を繰り返す。そうしてカーテンに手をかけると一気に開いた。
不思議な風景だった。記憶通りならば、そこは向かいの団地がみえるはずだったが、そこに見えたのは白い風景。見たこともない様なひたすら白い世界だった。いや、白いだけじゃない。その白は光の白だった。惚けた様に窓を開けると、背後から先輩が呼びかけた。
「こらこら、キミはまだいっちゃだめだよ。やることあるんでしょう?」
我に返った様に振り返る。すると、先輩の横に女性が立っていた。ああ、この人がさっきの死体の人なのだ。左右に分けられた長い髪の向こう側の顔は、うつむいていたので表情はよく見えなかったが、それでも見覚えのある顔ではないことだけは確かだった。
「さぁ、じゃあ彼女に道を空けてあげてね。これから少し長い旅になるから、見送ってあげましょう」
先輩の声に従って数歩後ずさる。
「さ、じゃああの明るい方にいってね。迷わないように。大丈夫だから」
先輩の声は優しかった。さするように死体だった彼女の背中をさわると、彼女は先輩の方へ軽く会釈をして窓に向かって歩き始めた。入れ替わる様に後ずさりのまま、僕が今度は先輩の隣に並ぶ。
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
窓の前に立った彼女は、今度は居住まいを正して顔をあげた。もう恐怖心はなかった。だがやっぱりその顔に見覚えはなかった。
彼女は先輩にまず深々と頭を下げ、それから今度は僕に向き直って頭を下げた。顔を上げると、そこには何ともいえない悲しみと複雑な感情をたっぷりと含ませた笑顔があった。窓の外からの光で表情はよくみえなかったけど、確かに彼女は微笑んでいるのだとわかった。
「さぁ。キミも彼女が明るい方にいけるように数えてね」
とんとんとーん・とんとんとんとん。
(いちにーさぁーん、ごーろくしちはち)
それから西側の窓の光が強くなり、段々と視界を白に染めていく。彼女の姿がかき消されるように光に包まれ、それから部屋が光に染まり、最後に僕と先輩も白くなったところで、現実の先輩がそれまで数を刻んでいた左手で、強く優しく握りあっていた僕らの左手と右手の上に、その掌を重ねた。
「終わったよ」
それは目を開けていいという意味を含んだ合図だった。どれだけそうしていたのかはわからないが、現実世界は深夜のファミレスで、先輩はさっきと同じ服装で僕の目の前に座っていたし、僕の手を握る手は白く、そして温かかった。
「終わったよ」
先輩はもう一度云った。それは現実の世界での先輩の言葉で、なぜだかはわからないが、本当に終わったのだと、僕にもわかっていた。身体に取り憑いていた違和感や不安感がない。ただ全身にぐっしょりと汗をかいてはいたが、それも不快ではなかった。
僕の手を握っていた先輩の手から力が抜ける。はっとしたように僕も手を引くと、照れ隠し紛れに鼻をこすろうとした。途端にその感触に驚く。濡れているのだ。顔が。それは汗ではなかった。明らかに汗ではなく、僕はいつのまにか泣いていたのだった。
悲しいわけでも、痛みがあるわけでも、恐怖していたわけでも、感動したわけでもなかった。いや、自分の身に起きたことと先輩の“個性”という力に驚きはしていたが、それが理由ではなかった。ただ僕は泣いていたのだ。わけもなく。
そして泣いていることに気づいたとき、僕はどうしてもその感情を抑えることができなくなっていた。
「ああ…」
それだけ呟くと口元がわなわなと震えた。そして僕はそれから泣いた。大泣きに泣いた。ひたすらに涙をこぼして嗚咽した。深夜を回ったファミレス、その一番奥まった席の周りには誰もいないことが幸いだった。いや、誰かが周りにいたとしても僕は泣き続けただろう。声をあげることだけはしなかったが、それでも僕はひたすら泣き続けた。
どれだけ泣いただろうか。10分か20分か。ようやく落ち着いたが人間とは厄介なもので、涙を出せば洟もでてしまう。テーブル状のペーパータオルで洟をかもうとしたのだが、手を伸ばそうとすると先輩が「使いなさい」とポケットティッシュとハンドタオルを差し出してくれた。「別に返さなくていいからね」と笑って付け加える。その声と表情はどこまでも優しく、それがまた僕の“泣き”を延長させた。
今度こそようやく落ち着くと、先輩は「もう大丈夫かな?」と少し軽口のような口調で僕に尋ねた。
「…大丈夫です。すみません、なんかよくわかんないんですけど、取り乱しちゃって」
「うん。大丈夫よ。キミみたいなタイプは、そうなんだってわかってるから」
「…どういうことですか?」
わけがわからなかった。
「んー…その前に、もう大丈夫なら飲み物とってきてくれないかな。キミも喉乾いたでしょ?」
「あ、はい…先輩なにがいいですか?」
「あったかいコーヒーとお水をお願い。あ、いっぺんには持てないか。あたしもいくよ」
そういって先輩も席を立つ。2人でドリンクバーに向かうと、僕はコーヒーマシンの前でスイッチを操作してホットコーヒーを入れた。ガーッというミルの粉砕音を聞きながら、タンブラーからよく冷えた水をグラスに注ぐ。
「ウーロンでいいのかな?」
先輩の声に頷くと、先輩はさっきまで自分が飲んでいたオレンジジュースを左手に持って右手でドリンクバーを操作しながら烏龍茶をグラスに注いでいた。
こうして僕らは合計四つのグラスを手に一つずつもって、また奥まった四人がけの席に戻った。先輩は僕の方に烏龍茶のグラスをおき、そして自分の前にオレンジジュースをおいた。僕は自分の両手に持っていたホットコーヒーと水をどうすればいいのかわからず、とりあえず先輩と僕の真ん中に置こうと思ったのだが、先輩はそれを察したのか場所を指示した。
「ああ、それはね、窓際の方に並べておいといてね。あたしちょっとトイレにいってくるから、まぁ飲んで落ち着いてて。一服してもいいし」
なんともサバサバした態度で、先輩は席につかずポーチを持つと化粧室へと向かった。そんな先輩の背中を見送ってから、テーブルの上に置きっぱなしにしていたタバコとライターに目を落としたが、何故か吸う気にはなれず、僕はメニュー立てやら店員呼び出しボタンが置いてある前に並べられたコーヒーと水を見て、ぼうっと頬杖をついて先輩の帰りを待っていた。
[
2007年11月18日-19:07
] ▲
    
先輩が戻ってきたら聞きたいことが沢山あった。話したいことも。一番の疑問はあの人が誰なのかということ、そして何故僕にツいていたのかということ。ただ「終わった」のだということは僕が一番よくわかっていた。
コーヒーからは湯気がゆっくりと立ち上っては空気に溶けていっていた。冷たい水の入ったグラスには湿気がまとわりついて、少しずつ水滴を浮かせていた。僕はそんな風景をぼうっと眺めながら、先輩の帰りを待つ。ほどなく「ただいま」という声とともに、向かいの席に先輩が滑り込んできた。
「ん?吸わなかったの?」
「あ、はい。なんか吸う気にならなくって」
「そう…」
なんとでもとれる返事をすると、先輩はコーヒーと水を一別してからもう一度僕の目を見て、優しく微笑んだ。
「そっか、吸わなかったか…」
「えと…それがなにか…」
「んーん、なんでもないわよ。でもね、ちょっと嬉しくなったかな」
「…?」
よくわからない。だが先輩は嬉しそうだった。嫌煙家ではないといっていたのに、タバコを吸わないで待っていた事が嬉しい?まるでわからない。その疑問も含めて先輩に様々な質問をぶつけようとしたのだが、それを悟った上で遮る様に、先輩は「あーお腹すいちゃったよ。ね、甘いものとか頼んでもいい?」と聞いてきた。勿論断る理由はなく、なんでも好きなものをどうぞ、とメニューを渡しつつ、僕は一番の疑問をぶつけてみた。
「先輩、あの…あの女の人って、誰だったんですか?」
「んー…このケーキがいいかな。こんな時間に食べるとアレかもしれないけどねー」
「や、その。教えてくださいよ先輩」
少し声が上ずってしまう。追求しなければ、なんとなくそのままはぐらかされてしまいそうな気がしたのだ。
「うーん…どうしても知りたい?」
先輩は少し困った様な表情を混ぜた微笑で僕を見返した。どうしても?確かにそういわれれば「終わった」今となっては、必要のないことなのかもしれなかった。これ以上はただの好奇心だ。だけど僕は見覚えもない女性にツかれていたわけで、被害者で…彼女は光の明るい方にいって、それで終わったかも知れないけれど、僕の方はどうしてももやもやとしたものが残ってしまう。だから僕は、あまり力強くはなかったが、黙って頷いた。
「そっか…まぁでも知る権利はあるかもね…」
そういうと呼び出しボタンを押して、店員にオーダーを伝えてそれを見送ってから、ため息を一つ吐いて、先輩は語り出した。
「これから話すことは、出来ればたとえ話として聞いてね」
「…はい」
「あのね、人生がさ、なんていうか不幸の連続とかでね、どうにもこうにもならなくなって絶望したときに、誰かの優しい言葉に励まされたら、その人に対してどう思うかな」
唐突な質問だった。
「うーん…よくわからないですけど、やっぱりありがたいって思いますよね。その言葉で励まされたのなら、ですけど。余計なお世話ってな事いうヤツもいますからね」
「うん。哀れみとか同情とかね。そういうのとはちょっと違うよね」
「そう思います」
数時間前までの僕自身がそうだった。
「本当に励まされたのよ。自らの命を絶とうとしたときに、その人の言葉でね。生きてみようって思ったの」
「…はい」
「でもね、やっぱりダメだったんだなあ。前向きになってね、歩き出そうとしたときに、また躓いちゃったんだよ。意志の弱さとかさ、そういうことじゃないんだよね。どうにもならないって思いこんじゃったら、本当にもうどうにもならないんだ。前の時は大事な言葉をもらってね、励ましてもらってね、なんとかなったんだけど、今度は戻れなかったんだって」
「…は…い」
「悲しいよねえ。残念だよねえ。でも、戻れなかったんだよ。だから自分の手で人生を終わらせちゃったの。でもさ、それは自分の人生だから、あたしはあんまり否定しないの。自殺をね、逃げだっていう人は多いけど、自分の人生の終着を自分の手で決めるっていうのは、自分にしか許されない権利だからね。悩んで悩んで、それで出した結論なら仕方ないと思うんだよね」
その点は僕も理解できた。出来れば自分の大事な人達にそんな選択はして欲しくはないし、そんな権利を行使して欲しくはないが、それでもなおその人がそれを選ぶのであれば、それを否定する権利は、僕にはないからだ。
でも――。
「でね、その子は自殺するときに泣きながら謝ったのよ。両親とか友達だった人だとかにね。それと一度死のうと思ったときに言葉をくれて励ましてくれた人に。ごめんなさい、ごめんなさいって。死んじゃってごめんなさいって」
返事をすることができなかった。僕はあれだけ泣いた後なのに、また頬を伝う熱に気がついていた。
「意識がなくなってね、命が終わる直前まで謝り続けてたの。だからね、明るい方にいけなくなって、その言葉をくれた人の方にいっちゃったんだって。それでね、ずっと謝り続けてたみたい。でも、それじゃどうにもならなくって、でもどこにも行けなくってね。今度はどうしようどうしようって泣いてたんだって」
先輩も涙を流していた。後半は嗚咽混じりになっていた。先輩は大きく鼻をすするとハンカチを取り出してまぶたをぬぐった。それから平静を取り戻そうと何度か深呼吸をして、黙り込む。すると少し困惑した様な声で「お待たせいたしました」と店員がケーキを運んできた。
僕は店員に泣き顔を見せまいと慌てて窓の方に顔を背ける。「ご注文の品は以上でおそろいでしょうか?」という無神経だが業務上仕方のない発言に先輩が応じ、店員は去っていった。
「でも…でも、僕は彼女に見覚えがありませんでしたよ。本当に知らない人だったんです」
「そうね。彼女の方もキミの顔は知らなかったと思うわ」
「…どういうことですか?」
「言葉にはね、力があるのよ。そしてそれを生み出した人の魂が宿るの」
そして付け加える。
「どんな形であってもね」
「形…?」
「そう、直接交わす声にだす言葉であっても、電話越しであっても、手紙なんかの文章であっても…」
一旦区切って窓の外をみる、そしてそれから僕の目を見て言葉を繋げた。
「…ネットの掲示板とかブログなんかであっても、ね」
「…!」
途端に僕の記憶がフラッシュバックした。数ヶ月前のことだ。あるブログのコメント欄で、さっき先輩の話した様な自殺についての意見のやりとりをしたことがあった。話題になった記事だったので煽りや荒らしも入り交じって議論は白熱。本記事のコメント欄にいくつものレスがついて混乱状態になったので、トラックバックを貼って自分のブログにも記事を書いた。
自分のブログなんていっても、主にくだらない日記やネットゲームについて書いてあるだけのものだ。ネトゲ仲間や身内だけが見に来るだけのような場所で、コメントも身内のものばかりだったが、その記事にだけは見慣れないハンドルネームの人からコメントがついていた。
一言だけ「ありがとう」と。
「どんな言葉で励ましたのかはわからないけど、言葉には力があるからね。そのときその人には、どんなに親しい人からの言葉よりも力づけられたのよ。でも、それを…彼女の言葉を借りれば“裏切って”しまったのね…最後に自らの命を絶ってしまったことで」
「そんな…」
僕はそれきり言葉を失ってしまった。放心したかのように視線を彷徨わせる。辿り着いたのはコーヒーと水だった。コーヒーはすっかり湯気が消え、水の入ったグラスは足下に滴が伝い落ちた水たまりを作っていた。
「だから、それが未練になっちゃったのね」
そういうと先輩は、テーブルの上に置きっぱなしになっていたポケットティッシュを一枚とって「失礼」といってから洟をかみ、それから「どうぞ」と今度は僕にも勧めた。操り人形のように勧められるがままに、僕も洟をかむ。涙をぬぐう。
「以上、たとえ話終わり」
「…はい」
「さ、いただきます。泣いたら余計にお腹空いちゃったわ。キミもなんか食べれば?」
「や…僕はいいです…」
まだ抜けてしまった心が戻らなかった。全く見知らぬ男の言葉で?しかもWeb上にごまんとあるブログの、その中でもほんの小さなブログの中の、その中のさらに一つのエントリーの中の、その中のさらに1タームだかなんだかの言葉で?そんなことがあるのか?ありうるのだろうか?
僕の頭の中は、その疑問で埋め尽くされていた。
「言葉にはね、力があるから。例えば一冊の小説が世界を変えることだってあるでしょ。聖書だって神の“言葉”だし、コーランだってそうでしょ。でもその言葉の数々が出された時は、ただの“言葉”に過ぎなかったのよ。誰の、だとか、どんな、だとかはあまり関係ないの。そのときその人にとって一番大切な言葉っていうのがあるものなのよ。それこそ人生…人の生き死にに影響を与える様な、ね」
疑問を見透かした様に先輩は語った。僕に対してというよりは、独り言のように。
* * *
「それじゃ、ごちそうさまでした。まぁ土日はゆっくり休んでね。本調子にはほど遠いでしょうから」
「本当に、今日はありがとうございました」
「いいのよー。最初に声かけたのはあたしなんだし、しっかりごちそうになったしね」
「おろした分の十分の一でしたよ(笑)」
「あはは!そんなに高いものも食べないし、そんなに大食いでもないってば!」
「ええ、助かりました」
軽口を叩きながらシートベルトを外す。僕のアパート前に先輩のオレンジ色の軽が停まったとき、時間は既に夜の4時を大きく回っていた。はるか遠くの夜空が白みがかっている。あれからしばらくの間、また色々な話をした。例えば一度帰ってシャワーを浴びてから待ち合わせた理由だとか、あの国道沿いのファミレスを選んだ理由だとか。まぁそれは別の話だが、その間先輩はコーヒーと水には一切手をつけず、それは帰るまでそのまま放置されていた。
「先輩、最後にいくつか質問いいですか?」
「んー…さすがに眠いから、応えにくくないのならいいわよ」
「すみません…えと、あのコーヒーと水ってなんだったんですか?」
僕は一つめの質問をぶつけた。
「ああ…あれはキミの考えてる通りのものよ。彼女、コーヒー好きだったのよ。それとお水は、まぁご供養ね」
「ああ…なるほど」
今更ながら、先輩はそういう人なのだと、そして僕はそういう体験をしたのだと再認識した。続けてもう一つ。
「先輩がトイレにいって戻ったとき、僕がタバコ吸ってなかったのを嬉しそうにしてたのは?」
「あー…ほら、キミ云ってたじゃない『自分も食事中にタバコ吸われるのはイヤだ』って。だからよ。彼女の為に用意したいれたてのコーヒー。そのそばでタバコふかしちゃ、ね。キミは霊感なんかまるでないっていってたけど、それでもわかったんだなって思ったの」
「じゃあ…あのとき…」
「ん、大半は明るい方にいってたけど、まだ少し、ね。ああでも、未練とかじゃないのよ。お礼っていうか、感謝っていうか…そんな感じでね。あたしがケーキ食べ始めた頃には、すっかり上にあがっていたし」
「そうだったんですか…」
「うん。そうだったの」
ドアコックに手をかけ、僕は軽から降りようと身をかがめた。外にでて冷たい朝の空気を吸い込むとドアを再びしめる。先輩が窓を開けて「今日は昼過ぎまで寝てなさいね」と微笑みながら云う。
僕は「はい!」と返事をしてから、サイドブレーキを外して走り出そうとした先輩に、もう一度声をかけた。
「先輩!もう一つだけ、いいすか!」
「なーによもう。最後にしてよー?」
「はい!これで本当に最後です!あの、『いちにぃさーん・ごーろくしちはち』って、どんな意味だったんですか?」
「あー、あれはね。おまじないよー」
笑いながら応える。
「だから、どんな意味の?」
「数字に直せば簡単よー。1から9までで抜けてる数字はどれ?」
「4と9ですね」
「そうそう。4と9がない、つまり『死と苦はなし』って意味!」
「ああー…なるほど!」
「言葉にはね、力があるのよ!それじゃおやすみなさーい」
「あ、はい!ありがとうございましたー!」
ミラー越しに手を振りながら、先輩の車は交差点を曲がっていった。
(言葉には力がある…か…)
ひとりごちながらアパートの階段を登る。いままでのような絶望感も虚無感も不安感もない。疲労感はあったが、それもまたこのあとぐっすり昼過ぎ、いや夕方まで眠ればなくなるだろう。
本当はもう一つ先輩に聞きたいことがあった。
あの瞬間、彼女が光に包まれて消え去るとき。先輩と僕とに順々に頭を下げた彼女は、僕に対して、とても複雑な笑顔を見せた。そしてそのときに、口元が何かを伝えようと動いた気がしたのだ。
だけど僕には、彼女の言葉を聞き取る“個性”もなければ、読唇術が使えるわけでもない。だからそれが聞こえたであろう先輩に聞いてみたかったのだ。でも聞かなかった。なんとなくだけど、僕にもそれはわかったからだ。そしてそれでいい、そう思ったからだった。
あのとき彼女は僕に三つの言葉をいったのだと思う。
《ごめんなさい。ありがとう。さようなら》
アパートの鍵をあけると靴を脱ぎ捨て、一目散にベッドに倒れ込む。そして一気に押し寄せた眠気に身を委ねる。まどろみの中、僕は口の中で彼女と同じ三つの言葉を返すと、とても豊かな香りの温かいコーヒーの夢を見ながら、数ヶ月ぶりの深い眠りの中におちていった。
<了>
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2007年11月19日-02:41
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