じーらぼ!言戯道場 (G-LABO Gengi-DOJO) 管理人:みやもと春九堂(しゅんきゅうどう)


【過去のつぶやき】
 2009年04月の【家元のつぶやき】のバックナンバーです。

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2009年04月のバックナンバー

上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -1-(2009年04月07日-01:17)
上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -2-(2009年04月07日-19:57)
上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -3-(2009年04月08日-11:08)
まぁ俺のことなんだけどね(2009年04月11日-05:25)


上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -1-


【はじめに】
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
 ――電車に乗るってのは相当な覚悟がいる。
 それが『ここ』で人間観察をし続けている俺の出した、ある種の結論だ。
 そもそも駅というのは様々な年齢・職業・性別・人種が集まり、行き来するという、ある意味不思議な空間だろ?
行き先も違えば、縁もゆかりもない人間同士が居合わせるわけだからな。
 その上、車両に乗り込めば運転されている間は密室になるわけで、その瞬間は赤の他人同士が一つの運命共同体になったりもする。
 なにせ脱線事故でも起こって車両が転倒したり脱線したり……まぁそうそうある話じゃあないとは思うが、車両同士がどういうわけか正面衝突なんかしようものなら、ほぼ確実に全員が仲良くあの世行きか、少なくとも大怪我確定だ。
 実際、こないだ覗き見したスポーツ新聞の見出しにも、どこの路線かまではわからなかったが、脱線事故で被害がどうこうとかいう大見出しがあったりしたしな。
 俺の被害妄想が暴走した考え過ぎなんかじゃなく、実際に起こりうる話なんだから、現実というヤツも、世の中というヤツも油断がならない。
 油断がならない上に怖ろしい、と、きたもんだ。
 だからこそ「電車に乗るってのは相当な覚悟がいる」――それが『ここ』で人間観察をし続けている俺の出した、ある種の結論ってわけだ。限りなくシンプルだろ?
 だから、普段は意識しないようなことでも、なんとなく覚悟を決めた顔をして電車に乗り込むヤツを見つけたりすると、俺としては「おっ?」なーんて思ってしまったりもするわけだ。だが別にそう思う程度で終わってしまうし、それ以上の興味を持つことはないんだがね。
 そもそも、ナニに対してどんな覚悟を決めた顔をして乗り込んで行くのかもわからないしな。
「今日も一日頑張るぞ」かもしれないし「あのエロオヤジ、今日こそ警察につきだしてやる!」かもしれないし、逆に「今日こそあの女のケツを揉みしだいてやる!」なのかもしれない。
 そんなパーソナルなことまでは、あまり興味の持ちようがないってもんだろ?

 ――春。
 といっても、まだ肌寒さが残るこの季節になると、小・中・高を問わず、制服を着ているというよりも、着られているといった『新一年生』の姿を多く眼にすることになる。
 もちろんサラリーマンというか会社員『一年生』の姿も多く見かけるわけだが、俺としては正直な話、あんまり興味はない。
 やっぱりピカピカ光るような『新一年生』的女子学生達の制服姿に視線を奪われてしまうのは悲しい男の性ってヤツなんだろうし、まぁ健全な男子としても当たり前のことなんだろう。
 さて『ここ』からは様々な人々の姿が見える。
 上り下りの単線しかない、都心から少し離れたベッドタウンのローカル線。その中でもマイナーな駅。そして、そんな駅の中でもかなり地味なポジション、上りホーム下り側の端から二番目に設置されたベンチ。
 つまり『ここ』ってのは、そのベンチなんだが、そこからは電車を乗り降りする人々の姿だけでなく、表情まで見えるのが面白い。だから俺は飽きもせず『ここ』で人間観察をしては、人生についてちょっとした考察を加えたりしているのだ。
 
 ――だけど、この春は違った。
 乗り降りする人々よりも気になるヤツ……というよりも一人の女の子が、この駅を利用するようになったんだ。
 名前はわからない、突然近寄っていって名前を聞くような輩は、かつての顔見知りか、宗教関係か、電波関係か、ナンパ関係くらいしかいないし、そして俺はそのどれでもないわけだから、当たり前だ。
 ただ年齢はわかる。憶測だがね。
 転校や編入といった形で「まだ慣れない制服に着られている」可能性も否定はできないわけだが、それでもやっぱり「制服に着られている」あたり、十五・六歳くらいって感じだろう。
 見た目は地味だ。確か二駅か三駅向こうの私立女子高の制服だと思うんだが、春先の肌寒さから身を守るために、学校指定らしいコートを羽織って、ベージュ色のマフラーをしていることが多い。どうやら今年の春は、どうにも寒い日々が続いているようだな。
 それにしても、同じ高校の制服と思しき格好ではあるものの「校則や学校指定なんか知ったことか」といわんばかりに派手なコートに派手なマフラーを着けて、チャラチャラとしている連中が多い中で、その子は指定コート以外にも「学校そのもの」に着られている感がある。
 そんなわけで、俺はその子が気になったってわけだ。加えてもう一つ理由をつけるならば、その子はいつも自分の乗る電車の数本前の時間帯に駅に来ては、俺のいる逆側、つまり下りホーム下り側の端から二番目のベンチに座って本を読むのが習慣になっているようで、それもまた、その子が気になる最初のキッカケになったと言っても間違いじゃないだろう。
 そして、電車が来ると本を閉じて「よし」とでも言うように、顔をきっつと上げて……『覚悟を決めた』顔で車両に乗り込むもんだから、そんな仕草も気になってしまう。
 なにしろ他のチャラけた同級生だか先輩達だかは、彼女の乗る電車の二本三本後に平気な顔で乗ってくるんだからな。
 簡単に推測してみるとこうだ、チャラ女共が乗る電車の時間が遅刻スレスレだか余裕で間に合うんだかどうかはわからんが、それが平均時間帯だとすると、彼女はその二本か三本か前の電車に乗っているということになる。
 しかも、その前にベンチに座って二・三本逃しているのだから――。
 えーと、ここの駅は大体八分ごとに一本だから、自分の乗る電車の一時間くらい前にこの駅に来ていることになる。
 新入生だから遅刻をするわけにもいかない、と気を遣っているのかもしれないが、それにしちゃ早すぎる「ご出勤」だ。
 それに電車を二・三本見送る理由もわからない。
 本を読みたいだけなら、早い時間帯の電車にそのまま乗って、学校についてから思う存分読んだってかまわないわけだしな。
 色々な人間を『ここ』から見てきてはいるが、正直な話、彼女みたいな行動を取るタイプの人間は初めてだったわけだ。
 何しろこっちは暇なもんだから、人間観察くらいしかすることがないんでね。それでまぁ気になったっていうわけだ。
 あとはまぁ、その、なんだ。ぶっちゃけた話、結構好みなんだよね。
 彼女のこう、大人しそうな雰囲気がさ。守ってあげたくなるタイプってあるだろ? そんな感じだよ。うん。
 
 ◇ ◆ ◇

「なに? またあの娘のこと見てるの?」
 不意に声をかけてきた女に、俺はちらとも視線を動かさずに応えた。
「人の勝手だろ。別に向こうからこっちは見えてないんだしさ」
「でも、それってちょっとストーカーチックじゃない?」
 痛いところを突きやがる。確かに向こうからは見えていない状況で、じっくりと相手を観察するなんてのは、ストーカーっぽいといえばストーカーっぽい。
 だが、ストーカーってのは、そもそもストーク、英語表記なら「stalk」。獲物に対して忍び寄ったり、こっそり追いかけたりするという意味の動詞に「er」を付けたものであって、ここから動かず、追い回したり忍び寄ったりもしない俺はストーカーじゃあないのだ。
 断言するぜ。俺はストーカーなんかじゃあない。
「冗談じゃねえ、勝手に人のことストーカー扱いすんなよ、大体だな」
 そんな風に一見理論的な主張をもって反論しようと口を開いたのを遮るように、
「色々な言い訳を考えて自己正当化しようとしているみたいだけどねー……」
 あっさりとこちらの目論み先読みをしたうえで、女は皮肉たっぷりの口調で続けた。
「じゃあ言い方を変えれば、あなたがやってることは覗き見。それも常習犯だから『覗き魔』ってとこなんじゃない?」
 フフンなんていうような書き文字さえ見えるほど、得意げに鼻を鳴らして言う女は、ついでのように俺の立っているベンチに、座り込みやがった。
 図々しいことこの上ないぜ。ここは俺の占有地なんだぞ?
 しかし、この女に言われたことに対して、ぐうの音も出ない俺である。だが、かといって犯罪者呼ばわりされるのも不愉快だ。なにか反論を、反論をしなければ。
「あのな、俺はヒマなんだよ。退屈してんだよ。人間観察くらいしかすることがねーんだよ。それで気に入った特定の子を見てる。見ているだけだぜ?」
 そこまで一気にまくし立てて一息吐き、さらに続きをまくし立てる。
「近寄ることも出来ないし、例えばあの子が読んでいる本。その本の内容はおろかタイトルだって見ることができねーんだぞ。それでも俺を覗き魔扱いするってのか?」
 どうだと言わんばかりに開き直った俺は、言い終わるや、頭上から女を睨み付けてやった。
 第三者視点で俺の行為を俯瞰してみれば、手っ取り早い話が、痛いところを突かれて逆ギレしただけという、極めて恥ずかしい状態なんだが、そうでもせずにはいられなかった。
 多分、今の俺の顔は真っ赤なんだろうな。血が巡ってりゃだけど。
「ベタな表現だけど、やれやれ、ね」
 さも頭痛を感じているかのように、わざとらしく右手の人差し指を眉間に当てながら首を振ってそう言った女は、続けて、
「逆ギレするくらいなら、さっさと向こう側に行けばいいじゃない。行って、正々堂々と彼女に声をかけてみたりしたらどうなの?」
 などと、全く無茶なことを言いやがった。
 全く人の事情などお構いなしに自分勝手なことばかりを上から目線で言う女だ。全くいけすかないったらありゃあしない。
 動けるもんならとっくに動いてるっつーんだよ。実際、何度試したかわかりゃしない。
 でも、俺は『ここ』にいる限り『ここ』から動けないことを身をもって……身がありゃだけどな、とにかくまぁ知っているんだ。ベンチから一メートルでも離れようものなら、どういうわけかそれ以上は進めずに、ぐいっとベンチに引き寄せられちまう。
 そりゃ動けるもんなら、下りホームに渡って、こっそりとベンチ越しに彼女の背後に回り込み、読んでる本がマンガなのか、小説なのか、実用書なのか、はたまた学校の参考書なのか、それ以外のなにかなのかくらいのことは確認したいとは思うさ。
 ついて行けるもんなら、一緒に電車に乗り込んで、電車の中での表情や過ごし方、どんな学校生活を送っているのかとか――ああ、せめて名前くらい知りたいさ。
 んでもって、帰りの電車も一緒に乗って、改札を抜けた後をこっそりついて行って、どこに住んでいるかとかも知りた……。
「って、これじゃリアルにストーカーじゃねえかよ! そーじゃねーんだって!」
 俺は自分の想像……もとい妄想特急の進行具合にツッコミをセルフサービスした。
 続けて言い訳を重ねようと、図々しくも『俺のベンチ』に座り込んでいる女の正面に回り込んで、自らの無実を訴えようと、その姿を改めて見る。
 相変わらず墨で染めたというよりは、墨そのもののように黒いセーラー服姿に、長く細くゆったりと腰近くまで届くような艶やかな黒い髪。
 ベンチに座った膝をきっちりと隠す丈の黒のプリーツスカートに、これまた黒のニーソックスと黒のローファー。学校指定なのか、その服装は、なにもかもが黒に染められている。
 そしてその襟や膝下から覗くのは、制服や髪の黒に反比例したかのような青く感じるまでに白い、白磁のように白い肌。
 そしてそんな黒と白のコントラストの中で目を惹かれる、胸元の鮮血で染めたような紅いセーラースカーフ。同じ紅色で袖先やセーラーカラーにも二本のラインが走っている。
 極めつけに印象的なのは、その瞳だ。
 黒曜石の凸面を球面になるまで磨き上げたような、その目は『なんでもわかっているのよ』とでも言うかのように、なにもかもを見透かして射貫くような、そんな眼をしていやがる。
 実際、この駅の利用者で、俺が『ここ』にいることに気づいた唯一の人間……かもしれない。まぁ、見えていても、見て見ぬふりをするヤツも多そうだから、一概に『唯一』とは言えないかもしれないけどな。
 ま、とにもかくにも謎の女だ。まぁ制服を着ている年齢から察するに「謎の少女」ってくらいなもんかな。ちなみに意地でも「謎の美少女」などとは呼んでやらん。
 見栄えは……その、悪くない方だと思う。日本人形にセーラー服を着せたような感じではあるが、恐らく人目も惹くであろう容姿をしていることも認めてやらんでもない。が、そもそもが俺の好みのタイプじゃないのだ。
 第一性格が気に入らん。なにもかも見透かしたようなモノの言い方も、溜め息交じりで言葉を吐き出すような喋り方もだ。ああ、全く好みじゃない。
 よってあくまでも「謎の少女」であって「謎の美少女」ではないのだ。うむ。
「人の容姿について、ごちゃごちゃ一人問答するの、やめてくれない? いやらしい……」
 ずばり。ぐさり。だ。
 それにしても「いやらしい」とはなんと酷い言いぐさだ。別にスリーサイズがどうだとかプロポーションがどうだとか、そんなところまで言及したわけでもないのに。
 しかし図星を指されたことは間違いない。俺は少々わたつきながら、それでも反論せずにはいられなかった。
「あ、あのなー。お前こそ、そうやって勝手に人の思考を覗きこんでんじゃねーよ。お前がナニモノなのかナニサマなのかなんてのは、どうでもいいし、お前がなんで俺の思考を覗き見できるのかも知ったこっちゃねーがな。人間にはプライバシーというものがあって、それを不当に侵害するのは、法的にも人道的にも社会道義的にもどうかと思うぜ?」
「あの子のことストーキングしてる、あなたに言われるのもどうかと思うけど? 大体、あたしだって別にあなたの心の中なんか見たくて見てるわけじゃないわ。あたしから言わせれば、あなたが心の中で考えてるって思い込んでることは、隣で独り言を大声で叫ばれてるようなもんなのよ」
 俺は思わず両掌で自分の口を押さえ込んだ。知らず知らずの間に思考が独り言になって出ていたというわけじゃないことはわかっていたんだが、なんとなくそうせざるを得なかったのだ。
「そういうポーズのお猿さんの人形とか像があるわよね。次は耳を塞いで、ついでに目も塞いでみる?」
 からかうように言ってから「謎のイヤミな少女(クラスチェンジだ)」は続けた。
「まぁ目を塞いでる間に、あの子、そろそろ行っちゃうかもだけど。それでもいいんならね」
 慌てて口を塞いだまま対面側のホームへと向き直ると、電光掲示板には彼女がいつも乗り込む電車がホームに入ってくるという表示がされており、彼女も本を畳んでベンチから腰を上げるところだった。
 あーあ、これで今日もお別れか。
 そんな風に脳内で独りごちつつホームに滑り込んできた電車に乗り込む彼女を見送って、溜め息を吐く俺である。
 だが恐らく、こういう俺の繊細な、そう、土足厳禁・天地無用・絶対安静なくらいに触れて欲しくない繊細な部分も、この「謎のイヤミな女」にはお見通しってことなんだろうな。
 はぁ、全くやれやれだぜ。
「やれやれ、はこっちのセリフよ。いい歳した男が、そんな夢見るオトメみたいな感情さらけ出しても、気持ち悪いだけよ。さっさと行動すればいいのに、バッカみたい」
 案の定ってやつだ。
「だーかーらーなー!」
 俺は憤然と「謎のイヤミで辛辣な言葉を次々と吐き散らす少女」に向き直ると、怒鳴りつけるように言ってやった。
「いいか? そもそもそれくらい人のこと覗き込めんなら、お前にももうわかってんだろ? 俺はどういうわけだか『ここ』から動けねーんだよ! 日がな一日こーやってベンチの上に立ったり座ったりすることしかできねーんだよ! 行動しろだって? 俺だって出来るもんならそうしてーよ!」
 言い終えてから、ふんっと鼻を鳴らして、どっかとばかりにベンチに腰を降ろす。
 ――まぁ音はしないわけだが。
 ……それでもちょっとスッキリしたな。うん。
 そんな風に考えてから、ふうと溜め息を吐くと、隣の「謎のイヤミで辛辣な言葉を次々と吐き散らし人のプライバシーを侵害しまくる少女」も、ほぼ同時に溜め息を吐いた。
「はぁ……全く、やれやれ、ね」
「お前のその『やれやれ』ってのは口癖なのか? 聞く方はそれが出る度にバカにされた気分になるぜ?」
「あら、そう聞こえたのなら、耳の方は確かなのね」
「いっちいち、イライラさせてくれるな、お前の発言は……。大体お前何者なんだよ? それになんで俺が見えるんだ? 制服着てるってことは学生なんだろ? 今日は何時の電車に乗るつもりなんだよ? っていうかさっさとどっか行けよ!」
 一気にまくし立てる俺。
「今のあなたが、ついさっき自分が言ったことと矛盾している質問を、あたしにぶつけてるってこともわからないくらい混乱してるなら、あたしもこれ以上あなたに付き合うつもりはないけれど――そうではなく、さっきの言葉は勢いで出てしまっただけで、本当はあたしのことを、そして……ひいてはあなた自身のこと、それを知りたい、あたしに教えて欲しい――そう認めた上で、答えが欲しいというなら、応えてあげないでもないわ。ただし、一つ一つね」
 ぐむっ……。
 なんとも余裕綽々の表情でそう応える女に、俺は言葉を失ってしまう。
 そりゃそうだ、女としては好みのタイプじゃあないが、その存在と、その話に興味がないというのは嘘になる。なにしろ誰にも見えていないはずの俺の姿を見て、必要もないのに言葉や(思考まで!)聞こえるというのは、あまりにもレアな存在だからだ。
 だが「教えて欲しい」だと? この高飛車な女に対して「お願いします」などと頭を下げるのか? いやいや、そいつはちょっと悩みどころだぞ……。
「あと、そうそう。もう一つ、最後の一言は取り消すことが大前提よ? あたしを追い払うんなら話もできないでしょ?」
 再び言葉を失う俺。
 くそ、なんでこう、今日に限って、この女はいちいちイヤミったらしく理詰めで人を翻弄するんだ。いつもみたいに、さっさと上り電車に乗って学校にでもどこにでも行っちまえばいいのに。
 ――待てよ?
 今、この女はなんて言った?
『……あたしのことを、そして……ひいてはあなた自身のこと……』
 俺は数十秒前の記憶を反芻して、驚いた。
 俺、俺自身だって?
 俺、俺、オレ、おレ、おれ――。
 頭の中が真っ白になった。
 そんな『俺』の目の前を、上り電車がゆっくりと通り過ぎていった。
 そろそろ遅刻ギリギリだかなんだかのチャラけた学生連中が、ぞろぞろと集まり出す時間帯でもあるのだが、向かいには人影もまばらな下り側ホームがあるだけだ。当然「あの子」はもういない。
「……で?」
 どこに視線を向けるでもなく、同じく下り側ホームを見つめたまま「謎の少女」は俺からの返答を促すように言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……今とんでもないことに気がついちまったような気がするんだが……えっと……お、おれは……俺は、誰なんだ? っていうか、俺はなんなんだ?」
「……言ったでしょ? 応えても構わない、その代わり前言を撤回しなさいって。あたしの話を殊勝に聞く気になったのなら、あなたが求めている答えを出してあげないこともないわ。それに……そうね……混乱しているのも十分にわかるから、一つだけ意思表示をしなさい。それくらいなら出来るでしょう?」
 俺の方に向き直った「謎の少女」は、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべると、その右手の白い指を俺の眉間に差し向けると、すうっと上に挙げて――それからくいっと下を指差した。
「頭を下げて『お願いします』。それで勘弁してあげるわ」
 ……自分が一体何者なのかわからないというほどの大混乱状態で、その疑問に回答を出してくれるという存在がいる。そんな状況下で、この指示に抗い、なおかつ答えを引っ張り出せる方法があるのならば、誰でもいいから、是非今すぐ教えて欲しいもんだ。
 まぁ……とどのつまりが、俺は『その通り』にしたわけなんだけどな……。
 ◇ ◆ ◇

「……夢?」
「そう、これは夢なのよ。あなたが見ている、ね」
 冗談は、さっき聞いた名前だけにしてくれと思った。
 ホホなりケツなりをツネって痛みを感じるというベタな方法で確認をしようかと逡巡していると、彼女は続けた。
「正確には夢と現実の間ね。夢現(ゆめうつつ)なんて言葉があるけど、文字通り今はそういう状態ってこと。ここは現実であり、そしてあなたが見ている夢なのよ」
 ますますもって理解できん。
 夢、夢ねぇ。にわかには信じがたいが、仮に信じるのならば、つまりここは現実でありながら、俺の『本体』はどっかで高いびきでもかいてるってわけか?
 なんでまた? 第一、それにしちゃ時間の感覚が……。
 そこまで思い当たって、俺は、はたと自分の記憶を振り返り、思わぬ発見にベンチから飛び上がって、頭を抱えた。
 そうだ、俺はいつから『ここ』にいるんだ?
 俺はいつまで『ここ』にいるんだ?
 あの子が来るのを待って、あの子を見送って。
 動こうとして、やっぱり動けないとわかって溜め息を吐いて――。
 その後、俺は何をしていた?
 次にあの子が来るまで、俺はなにをしていたんだ?
 そもそも何日が経っているんだ? その間の飯は? 排泄は? 俺の家は?
 ――俺は『誰』なんだ?!
「混乱するのはわかっていたけど、あまりにもステレオタイプ過ぎる混乱の仕方ね。一つ一つ応える、そう言ったでしょ。落ち着きなさい。どうせ『今は』このベンチから動けないんでしょうから」
 傍らからそう声をかけられた俺は、ぐったりとした体でベンチに腰を下ろすと、思い切り項垂れて、深呼吸だか溜め息だかわからない吐息を吐いてから、隣にいる女の顔を見た。
 そこにあったのは。こちら側を覗き込む白く小さな顔に、黒炭を丹念に磨き上げたような黒い輝きを持つ瞳。眉は心なしか、怪訝そうにというか心配そうにというべきか……哀れみすら感じるような形に、ほんの少しだけ歪められていた。
「……大丈夫?」
「あ、ああ、なんとかな。夢なら夢で、別にショックを受けようが記憶喪失になっていようが、脳に異常があろうが、目が醒めれば問題ないはずだろ?」
 肯定を求めるかのような俺の問いに、彼女は残念そうに頭を振って応えた。
「言ったでしょ。ここは夢現、夢と現実が混濁している場所なのよ。ここであなたがどうにかなってしまったとしたら、現実の方にも影響を及ぼしてしまう可能性がないとは言い切れないわ。人間の精神と肉体は、肉体が死ぬまで切り離せないものなのだから」
 妙に悟りきった口調ではあるが、そこには明らかに哀れみに似た何かの感情が含まれているように俺は感じた。それが俺の無知に対する傲慢からくるものなのか、境遇に対する憐憫からくるものなのかは定かではなかったが。
 そして、息継ぎをするように、ゆっくりと呼吸を一つすると、彼女は続けた、
「その逆も同じことなの。今のあなたは夢の中の存在、だから現実的に考えれば多少の不自由や不条理は勿論あるわ。他の人にあなたの存在が見えなかったり、あなたの声が聞こえなかったりなんてのがそういうこと。でも、記憶と現実の輪……あたし達の言葉でいうと『夢現の世界の輪』の中に閉じこもっているという現状は、あなたの現実の肉体の方になんらかの問題があるってことでしょうね」
 まるで不治の病の可能性を宣告する医師のような口調(少なくとも俺にはそう聞こえた)で、空恐ろしいことを言いやがる。
「例えば……それは、現実の方の俺が死にかけているとか、そういうことなのか?」
 最悪の応えを想定して、おそるおそると問いかけてみたが、彼女は表情を和らげるように苦笑して応えた。
「それは一概には言えないわ。意識不明の大重体になっている……その可能性がないとは言い切れないけれど、ただただひたすらに眠り込んでいるだけかもしれないし、なにしろ夢なのだから、ひょっとしたら起きて普通に生活していて『ここ』での出来事をまるきり忘れているなんていう、おとぼけも否定できないからね」
 希望を持っていいんだかいけないんだか、さっぱりわからないことを、彼女は肯定も否定もせずにさらりと言ってのけてから、
「まぁ、そんなのは珍しいケースではあるけどね」
 と、事も無げに繋げた。
 それじゃあやっぱり安心していいわけでもねえってことじゃないか。俺は大きく嘆息してから、項垂れていた身体をぐいっとベンチの背もたれに寄りかからせて、次の質問をした。
「……で、そんなわけのわからんことを、俺に説明してくれているお前は……一体何者なんだ?」

 ◇ ◆ ◇

「夢使い」
「ゆめつかいぃ? なんだそりゃ?」
「そのまんまよ。人の夢にはいりこんたり、人の夢を操ったりする力を持った者の……まぁ通称ね。そう人数がいるわけでもないし、組織だったものの名前でもないし職業名でもないわね。そもそも『表の世界』では、一応暗黙の存在だから」
「へえ」
 自分で質問をふっておいてなんだが、俺はさっきまで持っていた、風船の様に膨らんだ好奇心と、藁にも縋りたいような気持ちが、空気のように抜けていってしまい、思いっ切りやる気のない返事しか返せなくなってしまった。
 そもそも俺は超能力だの魔術だのオカルトだの怪奇現象だの幽霊とは無縁の世界で生きてきたし、信じるか信じないかで言えば「まぁいてもいいんじゃね?」程度にしか考えてこなかった。
 それでも興味はあるにはあったし、ガキの頃なんかはいわゆるオカルトブームだったもんだから、学級文庫だか当時のダチに借りたもんだかで、ある程度の知識は記憶の片隅にある。
 だから実際、自分がこんな風に駅のベンチから動けず、周りには俺の声は聞こえず、俺の姿は見えず――なんて状態になった時には、
「俺ってひょっとして自分が死んだの気づいてないだけで、いわゆる地縛霊かなんかになんちまったんじゃねえか?」
 なんて考えたこともないわけじゃあなかったが……。
 ここが夢と現実が混濁した世界で? 俺の肉体自身はどこかで眠っている? まぁそこまではいいとしよう。
 だが『夢使い』ってのはねえ。これまで聞いたこともなければ目にしたこともない名前だ。
 確かにこの女が俺の姿を見て、俺の声が聞こえる(聞いて欲しくないことまでだ)というのは事実なんだろうが、こいつから聞いた話から先走って想像すると、夢使いってのは表の世界では暗黙、つまり裏の世界で暗躍する超能力者の秘密結社だか血族だかみたいなものってことなわけだろ。
 こんな科学万能の時代にそんなマンガ的というかアニメ的というかなオカルト集団がいるってのは、ちょっとにわかには信じ難いというか……正直に言えばこうだ、
「こっちから頼んで説明してもらってスマンが、イマイチ……こう、胡散臭ぇな」
 俺は髪ごと頭をぼりぼりと掻きながら、頭を下げるようにして言った。
「まぁそれもそうよね。あたしだって信じろって押しつけるつもりはないわ。でもね……あたし達『夢使い』には、この夢現の世界や夢の世界では、できないことがないのよ。まぁ能力の程度に差はあるし、やり方はそれぞれだけどね」
「できないことがない、だって? ははっ、それじゃあ、この『夢現』の世界とやらでは、お前らは神さまみたいなもんってことなのか」
「信じられないのはわかるけど、バカにしているんなら、もうお仕舞いにしてもいいのよ?」
 印象的なすらりとした眉を、くいっとばかりに吊り上げて表情を変えると、彼女はそう言って俺の眼を睨め付けるように覗き込んだ。
「……悪かった」
「ならいいわ」
 どうにもこうにも、やっぱりこの女は苦手だ。自分ペースというかなんというか……まぁ俺が不安定過ぎるから、強気に出られると弱いっていうのもあるんだろうけどな。
「で、その、なんだ。俺はどうしたらいいんだ?」
「どう、って?」
「おいおい、お前自身がさっき説明してくれたんじゃないか。えーと、なんだ、夢現の世界の輪の中にいるって。閉じこもっているって。肉体っていうか、本体っていうのか? それは現実世界で寝ているって」
「ああ、そのことね。簡単よ。あなたがするべきことと、この夢現の世界で本当にしたいことをちゃんと果たして……そうね、これは最初の質問の応えにもなるけど、あなたが何者なのかを自分自身で気がつけば、それでいいのよ。つまり抜け落ちてしまった記憶探しってことになるのかしら」
 そうすれば自然と、夢現の輪から抜け出して目が覚めるわ。現実の肉体が生きているってことは、まだあなたは現実の世界ですべきこともしたいこともあるんでしょうからね。
 そんな風に続けて、彼女はさらりと顔にこぼれ落ちてきた長い髪を、指で梳るようにして耳にかけ、少し遠い目をした。
「まぁ、あたし達『夢使い』の存在や力なんかに、疑い半分なのはわかるけどね。今、これだけの時間話していて気づかない?」
「は? なにをだ?」
 彼女はベンチからゆっくり立ち上がってスカートの皺を払うようにすると、すいっと指を上りホームの電光掲示板に指してみせた。そして次に外へと向かう改札口、そして夕方過ぎになればホームを薄暗く照らす蛍光灯を。
「……」
 絶句。
 そうとしか言えないほど、驚くべき光景がそこにはあった。
 そうだ。ここは駅のホームのはずだ。そのはずだった。
 しかも朝の時間帯のはずだ。そのはずだった。
 『あの子』が乗る電車は、他の学生達が乗る電車より少し速い時間。
 そしてその後には他の学生達が、サラリーマン達が、さらにその後は遅刻ギリギリなんだろう、ホームに駆け込んで飛び込み乗車を注意されるような連中がやってくる――そんな時間帯のはずだった。
 それがどうしたことか、今、この上り下り単線なローカル線の駅には、上り下りともにホームは無人だ。遠くに見える駅員室の駅員までもいない。勿論ホームにもだ。
 それに、いつからそうなのかはわからないが、上りにせよ下りにせよ一本の電車も入ってきていない。道理で静かなわけだ。
 さらにそれだけじゃない。電車の到着を予告する電光掲示板の灯りは消えているし、いつのまにか日も暮れて……いや、よくわからない曇天のような暗さの中で、切れかけの蛍光灯が、忙し気なモールス信号を発信しているかのように明滅を繰り返している。
「おい、こりゃ一体……」
「今のここは、夢現の比率で言えば、ほぼ夢の世界。現実なのはここにあったモノだけに留めておいたわ。この方が落ち着いて話ができると思ったから、ね」
「……偶然どっかで電車が止まってとか……」
「それならアナウンスが流れるわよね」
「じゃあ停電でだな……」
「駅員室の電気も、そこの蛍光灯も点いてるわよ」
「……」
 返す言葉がなかった。
 もう一度確認しておこう。確かに俺がベンチから離れられず、人間観察を繰り返していたのは、通勤通学のラッシュアワーの時間帯だったはずだ。
 それがいつのまにか人っ子一人いなくなってしまっている上に、空模様まで変わっている。
 異常だ。異常以外のなにものでもない。夢か幻を見せられているような気分で、俺は呟いた。
「夢……なんだよな?」
「そう、夢。だからどんなことでもできる。それがあたし達『夢使い』の力」
 確かに納得せざるを得ない状況がそこにはあった。



<つづく>


[ 2009年04月07日-01:17 ]  



上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -2-


【はじめに】
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
<前回まで>

 だが、猜疑心と好奇心と期待感を綯い交ぜにした感情が、俺の中に二次発酵中のパン生地のように膨れあがってきて、俺はまた余計なことを言った。
「なんでもできる、なんでもできるんだよな?」
「そうね。例えば……」
 そう言うと彼女は通学鞄にしては妙に洒脱な黒い革バッグから一冊のメモ帳を取り出すと、手際よく空きページを開いて、そこにボールペンで何かを描きだした。
 描いていたものが仕上がったのか、満足げに肯くと、今度はそのページをメモ帳から引きちぎって、くしゃり、と握りしめる。
 と、次の瞬間、唐突に、まさに唐突に、彼女の手には妙にアンティークじみた装飾が施された手鏡が握られていた。まるで中世の欧州貴族の令嬢あたりか、西洋おとぎ話のお姫様が使うような、そんな感じのデザインのものだ。
 そんなものが、絵本やキッズアニメのそれのように『ボン!』と煙が出て、それが晴れたら出てきた――というわけでも、目くらましのような強烈な光の中から出てきたわけでもなく、ただただ、唐突に現れた。
 思わずタネやシカケを探そうと目を見開いたが、明らかに徒労だった。なにしろ本当に一瞬のことだったのだ。
「……まるで手品だな」
「ご期待に添えなくて残念だけど手品じゃないわ。夢の中では、これが現実なのよ。あたしが手鏡の絵を描いてイメージして、そしてそれが実体化する。これも『夢使い』の力の一つ」
 彼女は手鏡を覗き込んで、自分の前髪や耳にかかった長く黒い髪を整えながらそう言うと、今度はくるりと鏡面を俺の方へと向けて言った。
「これが第一歩。見える? 自分の顔」
 確かに見える。驚いたままの表情で固まってしまっている、学生服を着た若い男の顔がそこには映っていた。
 だが、自分の顔かどうかと問われると、若干自信がない。見覚えがあるかないかと言われれば、見覚えはあるとハッキリ言えるのだが……。
「やれやれ、重症ね……。うん、それでも第一歩目であることには変わりないわ。あなたがここに居着いてしまった理由、そして『あの子』が気になる理由。それを自分自身で洗い出せば、抜け落ちてしまった記憶も、あなた自身がどこの何者なのかも、きっとわかるわ」
 彼女はそう言い切ったものの、俺はどうにも腑に落ちなかった。
 確かに、俺がこのベンチに居続けている時間帯(そして気がついたら、またベンチに座っているのだが……)は、確かにあの子が下りホームに訪れて電車に乗るまでの時間帯だ。
 そしてそれを延々と繰り返しているというのならば、おそらく、こいつが言うとおり『あの子』と俺の現状にはなんらかの関係があるのだろう。
 だが、それを関連づけてしまうのは、あまりにも性急に過ぎないだろうか。
 『あの子』は確かに俺の好みだ。守ってあげたくなるような感じもするし、その、なんだ、あの子を見ていると胸が締めつけられるような感じさえする。
 だから、ずっと『あの子』を見ていたのだが……。
「ああもう、じれったいわねえ。あなた自分自身が何者なのか、どうしてここにいるのかわからないんでしょ? そしてどうしてここから動けないのかも。ここで何をしたかったのか何をすべきなのかもわからないんでしょ? それなのに『あの子』だけには強く関心を惹かれる……そしたらそんなの簡単じゃない『あの子』を知る以外に解決の糸口はないのよ。それでもまだグダグダ言うつもり? 一生ここ動けずに夢を見続けて、現の肉体を衰弱させていくだけでいいわけ?」
 彼女は形のいい両の眉をきゅいっと吊り上げて、そう一気にまくし立てた。
 それから今度は、そんな自分を落ち着かせるように、一呼吸をおくと言い聞かせるかのように、ゆっくりと語り出した。
「思い出してみて。あなたはこのベンチから駅を行く人々を見続けてきた。特に下り側ホームのあの子を。これは間違いないわね? そして気がつくとまた、同じ時間に同じ事をしている。その間の記憶はない……。そしてその前後の記憶もない。でもね、あの子の事以外にも憶えていることがあるんじゃないかしら。たとえば、たまたま覗き込んだ新聞の見出しとか、このあたしの存在とか、ね」
 ……言われてみれば確かにそうだ。この女には何度も出会っている。といっても今日ほど長く話したことはないが。最初はちらりとこっちを見ただけで、こっちも視線を感じて見返したという程度だったのだが、その後は視線があったり、今日の朝一番みたいに軽口を叩くような真似をしてきたりするようになったんだ。
 それに駅の風景や電車の時間帯、新聞の見出しなんかのこともいくつかは憶えていた。
 そうだ、こいつの言うとおりなのだとすれば、夢と現、記憶と現実の輪の中に囚われているにも関わらず「あの子」と「こいつ」だけは、いつだって記憶に残っている。
「それら全てがヒントなの。夢に顕れる暗示なのよ。あなたが目を覚ますのに必要な、ね。まぁあたしの場合は、勝手に介入してきたって部分もあるんだけれどね。でもあたしがあなたに気づき、あなたがあたしに気づかなければ、今日こうして話をしていることもなかったはずよ。それはわかるでしょう?」
 それから、ふうと気を抜くような吐息を口から出すと、彼女は続けた。
「こんな能力を持ってはいるけど、あたしは現実主義者なの。でも敢えて言うわ。これらは全て必然なんだって。使いたくない言葉だけど、そうすべき運命なんだってね……。そうでなきゃこんな面倒くさいこと、あたしだってしたくないわよ」
 そう言い終わると、彼女はベンチの背もたれに思い切り身体を預けて、蛍光灯が明滅する天井を見上げてから、今度は逆に身体を折りたたんで、全身の力が抜けたような大きな溜め息を吐くと、下から覗き込むように言った。印象的な眉毛の右側だけを、ゆるりと挙げて。
「――で、あなたはどうするの? どうしたいの?」
 躊躇はなかった。説得されたとか言いくるめられたとか、そういうことではなく、それしか縋るものがなかったというものではなく、彼女の言葉の一つ一つが、すとんすとん、と俺の中に吸い込まれていったから……理由をつけるとしたら、そんな感じだろう。
「……そう、だよな。お前の言う通りにしてみるよ。俺にも他に方法とか思いつかねえし……」
 俺がそう応えると、今度は左右の眉を水平よりちょっと上に、くっと挙げて目を細めると、
「ふんっ。そうやって最初っから素直に言うこと聞いてればいいのよ。全く男のクセにグダグダグダグダしてるんだから……」
 そう言いながら彼女は再びメモ帳に何かを走り書きしはじめた。
 一枚、二枚、三枚。
「よし、準備完了っと。じゃあまずは……」
 彼女が一枚目のメモをくしゃりと握りしめると、今度はその両手には巨大な、それこそ巨大な、マンガやアニメでしか見たことがないようなハンマーが握られていた。黒光りする鎚の横腹には、ご丁寧に重量まで書いてある。
 もしこれが書いてある通りの重量なのだとしたら、絶対に持ち上げることなんかできやしないだろう。なにしろ『1t』と書いてあるんだからな。
「別に危なくはないと思うけど、一応出来るだけ離れてなさい」
 そう言いながら彼女はいとも簡単に超巨大ハンマーを振り上げると、俺が可能な限りベンチから離れたのを確認する余裕すら見せて、一気にそいつをベンチに振り下ろした。
 どう考えたって普通の女子高生(?)の白く細い腕が、そんなものを振り回せるわけがない。よしんば振り回すことができたとしたって、そんなものでベンチが一撃のもとに、文字通り粉砕されるわけがない――。
 そんな現実離れした光景が実際に目の前に繰り広げられたら、きっと誰もが口をあんぐりと開けた後、心を落ち着けようと努力しながら、こう思うだろう。
『ああ、これは夢なんだ』ってな。
 おまけにハンマーで粉砕されたベンチは跡形もなく消え去っちまったんだぜ。夢か手品か、タチの悪いジョークショーかってところだ。
 試しに歩いてみると、いつもならベンチから一メートルくらいしか動けずに、それ以上離れようとすると、まるでゴムで引っ張られるかのようにベンチに戻されていた現象が、嘘みたいになくなっている。
「ふう、これでとりあえずはOKね。ま、ベンチはあとできちんと直すとして……次はっと……」
 そんなわけで、あんぐりと口を開けたままの俺を尻目に、超巨大ハンマーを放り投げると、二枚目のメモを取り出して下りホーム側に向かって投げ捨てた。
 夢、なにしろ夢だからな。もうなんだってありなんだ。
 線路上に投げ捨てられた二枚目のメモは次の瞬間、上りと下りのホームを水平一直線に結ぶ臨時通路になっていた。
「なにしてんの、彼女の学校、下り方面なんでしょ? 陸橋渡って行くの面倒くさいから、さっさと来て」
 俺の顎と口は、最早「閉じる」という動作を忘れてしまったんじゃなかろうか。
 言われるがままに『臨時通路』を渡って下りホームに辿り着くと、彼女は三枚目のメモを通路に放った。と、次の瞬間その通路は、まるで手品に使われるフラッシュペーパーのように一瞬にして燃え上がって消えてしまった。
 いよいよ手品や奇術の類にしか思えなくなってきたが、やはり夢なんだから、なんでもありってことなんだろう。そう考えて受け止めるぐらいしか、今の俺にはできなくなっていた。
「えーと、今の時間はっと……うん、一〜二時間ってとこね」
「すまんが、あまりにも立て続けに色々なことが起こり過ぎて、混乱しているんだが」
「まぁそれでいいんじゃない? 別に無理に理解することはないの。『これは夢なんだ』って思えば大抵のことはスルーできるでしょ?」
 この女は一体俺をどうさせたいんだろうか――そんな基本的な疑問に立ち返らなくてはいけないほど、俺は衝撃と疑問と混乱とが三竦みになって、すっかり思考停止してしまっていた。
 
 ◇ ◆ ◇

「ねぇ、大体でいいんだけど、彼女がホームに来てから見送るまでどれくらいの時間、あの子のこと見てたの?」
 急な質問に思わず考え込んでしまったが、大体一時間ぐらいだと告げると、彼女は得心したように、
「うん、やっぱり一時間……いや、一時間半くらいってとこかな」
 と言いながら、メモ帳にまた何かを描きあげると、メモ帳からそのページを引きちぎり、俺の目を下から覗き込むようにして、真剣な顔をして続けた。
「少し難しい話をするわ。理解しなくてもいいから、頭に入れておいて頂戴。人間の睡眠にはどんな状態であっても周期があるの。そして夢使いといえども、その周期をコントロールすることはできないわ。そしてその周期によって夢使いの力も変動するの。そしてその周期は三時間単位。今朝はたまたまなのか……必然なのか、あたしの力が強く使える周期と、あなたの周期とが重なっているから、ここまでのことが出来るの」
 彼女の真剣な眼差しと口調に、俺も神妙に肯く。
「でも、その周期を外れてしまったら、全てはおしまい。あなたはまた夢現の輪の中へ戻されて、いつものように夢の中のあなたの記憶はリセットされるわ。カケラくらいは残るかもしれないけれど……。で、あたしはあなたに話しかけることくらいしかできなくなるでしょうね。つまり、また次に周期が重なるときまで、なにもできなくなるってこと。よくそれを覚えておいてね」
「今の時間ってのはかなり貴重なタイミングなんだってことはよくわかった。でも、その周期とやらが、次に重なることがあるのなら、今回失敗しても次があるんじゃないのか?」
「楽観的過ぎるし、自分本位過ぎる考え方ね。今日はたまたま周期が合ったし、あたしの気が向いたから、ここまでしているだけのことなのよ。それにあなたが記憶をリセットされ続けているだけで、あたしの方はあなたに、この説明をこれまでも何度かしているのよ」
 全く驚きだった。ここまで十数分程は話し込んでいるはずだが「今の俺」には全て初耳なことばかりだった。記憶がリセットされるというのは、こういうことなのか……。
 俺が愕然としている間に彼女は自分の腕時計を確認しながら言った。
「今は『夢』に比重をおいているから時間の流れが少し違うのだけれど、『現』の時間でいうと、今は午前十時四十五……今、四十六分になったわ。あたしがあなたの『夢』で力を強く行使できるのは、あなたが『あの子』を見ていた一時間を周期である三時間から引いた時間だけなの」
「すると二時間はまだ何でもありってことか?」
「そうね。さっきから話している間で十分か十五分はロスしているけど、やっぱり一時間半くらいかしら。それでも余裕をみて九十九分以上はまだあるわね。その間に、あなたはあなたのできることをして、あなた自身が何者なのか、抜け落ちてしまっている記憶のヒントだけでもいいから探さなくちゃいけない。いいわね?」
「……参考までに聞かせてもらいたいんだが、その時間を過ぎるとどうなる?」
「別に。強制的にここに戻ってくるだけね。そして何も掴んで来ることができなかったとしたら……ついでに『朝』に戻るわ。あなたは今日の『今』までの記憶をリセットされてね。夢現の輪に囚われているっていうのは、そういうことなの。そして最初からやり直し……ができればいいんだけどね」
「できないのか?」
 俺は深刻な眼差しで彼女の瞳を見返した。
「できないことはないだろうけど、次の周期がいつになるかわからないし、またイチからあなたを説得してどうこうっていうのは、正直面倒くさいからやりたくないわ。そもそも勘違いして欲しくないんだけど、あたしたち「夢使い」は別にボランティアで通りすがりの『夢現の住人』の手助けをしているわけじゃないんだからね。ちゃんと現実の世界にも自分の生活があるし、あなたみたいな存在に、そうそういつまでも関わっていられないわけ」
 随分辛辣な言い方ではあるが、今日という日が、彼女の言う『夢現の輪』から抜け出せるチャンスならば、できる限りのことをすべきなんだろう。
 俺はそう思って、ゆっくりと肯いた。
「OK? じゃ、左手出して」
 言われるがままに左手を出すと、彼女は先ほど何かを描いていたメモを握りつぶしてから、妙に古臭いというか、骨董品屋のガラクタ箱の片隅から引っ張り出したような、見たこともないデザインの腕時計(?)を取りだして、俺の左手首に巻き付けた。
 文字盤のあるべきところには漢数字で「九十九」とあり、その周りを秒針が回っている。秒針の回転に合わせて一桁目の「九」が「八」へと変わろうとしているところから察するに、時計というよりはタイマーといったところだろうか。
「今、あなたが身につけた瞬間からカウントダウンは始まっているわ。一応余裕はあるはずだけど、できればここが零になる前に、自分自身を取り戻す何かを掴んで戻ってらっしゃい。それとこれ」
 そう言って渡されたのは五枚目のメモ用紙だった。
「零になる前に、戻って来たくなったら使うための札よ。使い方は簡単、あのベンチ……って、今は粉砕しちゃったけど。あのベンチをよく思いうかべて、それを手に握りしめて一言唱えればいいの『我を彼の地へ』ってね」
「便利なもんだな」
 俺は驚きに若干の皮肉というスパイスを隠し味に加えながら言った。まぁ夢ならなんでもありなんだろうが、ここまでくるとさすがに苦笑の一つもしたくなる。
「そ、夢だからね。でも行き道はそうはいかないわよ。だってあたし『あの子』がどこの学校に通っているのか知らないもの」
「確か二つか三つ先の駅近くの女子高だったと思うんだが……」
「そう、それならまぁなんとかなるわね。でもクラスとかわかるの? 現の世界での時間なら、向こうは確実に授業中よ?」
 そう言われりゃその通りだ。白昼堂々女子校に学生服の男が侵入するのは、明らかに不審だし、そもそも入れるかどうかもわからない。警備員がいるだろうしな。
「ああ、そういうことじゃなくて、探している時間があるかってこと。現の世界では、あなたの姿は誰からも見えないわ。あたしみたいな夢使いか、その素質のある人でもいない限りはね」
 思考を先読みされたようで面食らったが、それなら安心だ。彼女を信用するなら、だがね。
 抜け落ちる前の記憶が確かなら、そんなマンモス校ってわけでもなさそうだし、予想通り一年生なのだとしたら、あっても一学年数クラス分を探すだけで見つけられるだろう。
 それに……他の生徒達に紛れていても一目でわかるはずだ。他の誰かと見間違えることはない。それだけは自信があった。
「ロマンチックな賭けにでるのもいいけど、カウントダウンを忘れないでね。こんな面倒なこと、本当に二度としたくないんだから」
 また思考の先読みだ。耳まで赤くなるような恥ずかしさに口をぱくぱくとさせて、なにか反論しようと思ったものの、彼女は再びメモ帳に向かって何かを描いているようで、全くこちらを気にしていない。ちっ、放置プレイかよ。
 やがて描き終えたのか、千切ったメモ用紙を線路に投げ込んでから両掌をパンと叩き合わせると、唐突に周囲の風景が様々な色を取り戻し、そして場内アナウンスが流れた。
『間もなく、二番線に武蔵徳山行き下り電車が参ります――』
 そして間もなく下り電車がホームに滑り込んできて、電動油圧式の扉を俺の目の前で開けた。
 ここから先は後戻りなんかできない――さぁ『覚悟』を決めようぜ、俺。
「さ、行きなさい。降りる駅を間違えるとタイムロスになるから気をつけてね。それじゃ九十九分後か……それより前に、また会いましょ」
 そんな言葉を聞き終えるか終えないかの内に扉は閉まり、俺の人生を賭けた無賃乗車は、大型の草食動物が唸るような低いモーター音を響かせながら、ゆっくりと動き始めた。
 俺と、俺自身の『覚悟』を乗せて。
 
 タイムリミットまで、あと九十六分十三秒――。
 
 ◇ ◆ ◇

車内はごく普通の見慣れた……というか、記憶のどこかで見覚えのあるものだった。
 そりゃそうだ。同じ鉄道会社で上りと下りで内装が全然違っていたら笑ってしまう。一体どんな差別だよってな。
 ここはあいつの言う『夢』と『現』の比率で言うならば、『現』側なのだろう。他にも何人かの乗客がいる。だが、彼らには俺の姿は見えていないのだろう。
 いや、都会(というほど都会でもないことは言うまでもないローカル線なんだけどな)特有の無関心というヤツなのかもしれない。見えていても気づかないフリをしているとか、寝たふりをしているとかな。
 試しに、優先席でウタタ寝をしていやがる営業廻り中と思しき不埒なサラリーマンの膝小僧でも蹴飛ばしてみようかと思ったが、熟考の末にやめておくことにした。
 よしんば俺の蹴りがスカっと通り抜けたのならそれはそれでOK。そして当たりはしたものの俺の姿が見えないならば半分OKだが、当たった上に姿まで見られたらケンカを売られるのは確実だからな、リスクが大き過ぎる。
 そういうわけで、俺は彼女に言われた『周りの人からは見えないはずよ』という言葉に半信半疑の気持ちを持ったまま、ごく普通の乗客として振る舞うことにした。無賃乗車だがね。
 一駅を通り過ぎ、二駅目が近づいたとき、俺は車内アナウンスに耳を澄ませた。
『次は桜富士前、次は桜富士前でございます』
 駅名には確かに聞き覚えがあったが、車内アナウンスでは近くにどんな施設があるかまでは紹介してくれない。バスならば聞きたくもないスポンサーのアナウンスも流れるんだがな。
 ゆっくりと減速しつつホームに滑り込む車窓から、俺は目を凝らして案内板を見ようとした。
 どの方面の出口から出れば、どこの施設のある方面に出られるというくらいの表示はあるだろうと思ったからだ。
 しかし、残念ながら高校名が書かれた表示は見つけることができなかった。
 一応ホームにも降りてみて、数秒間を捜索に費やしたのだが、俺の視力が落ちているか、とんでもない見落としをしていない限り、目標物にその文字は見つけられず空振りに終わったので、俺は大急ぎで車内へと戻った。
 ならば残る可能性は次の駅だ。俺の抜け落ちまくった記憶の中でも『二つか三つ先の駅の女子高』という部分には不思議と自信があった。
 左腕のタイマーを見ると、既に残りは八十三分四十六秒となっていた。
 電車の中じゃどうしたって急ぎようもないが、急がなくてはと気持ちは急くばかりだ。
 目的地により近い降り口は進行方向側なのか、それとも逆方向側なのかも駅に着いてみなければ判断がつかない。
 どうにも所在なくなった俺は、ちょうど中央の車両のドア前に移動し、気持ちだけはスタート前のスプリンター状態で佇んで、列車が駅に着くのをジリジリしながら待った。
 やがて列車は次第に減速し、次の駅名をアナウンスする。どこかで聞き覚えのあるような駅名、そしてどういうわけか見覚えがあるような風景が車窓の後方に流れていく。
 ――間違いない。この駅で間違いないはずだ。
 動体視力を駆使して、まだ停まりきらない車内から施設案内の掲示板を睨め付け……あった。
『西側出口 本城寺学園女子高等学校』
 確かに、間違いない。
(よし……)。
 俺は気分だけではなく身体もスプリンターモードに切り替え、扉が開くのを待った。西側出口はホームを左方向だ。
 残り時間は七十八分と少し。七ゾロ目でダッシュスタートとは縁起もいいじゃないか。
 いや、全く関係ないことはわかっているのだが、そんなものにでも縋ってゲンを担ぎたいような気分だったのだ。今の俺は増援や応援もないまま孤軍奮闘するに等しい状態だからな。
 俺は扉が完全に開き終える油圧音を聞き終わるよりも速く、ドアの隙間から車両を飛び出すと、西側出口目がけて一気に駆け出した。
 会うんだ。
『あの子』に。
 会えるんだ。
『あの子』に。
 取り戻すんだ、抜け落ちてしまった自分の記憶を。
 そして戻るんだ。現の世界へ――。
 息を荒げながら改札に辿り着くと、俺ははたと疑問にぶち当たってしまった。
 あの女が言うには、今の俺は『他の人からは見えない存在』だという。だが電車に乗れたと言うことは物質には触ることができるわけで(実際手すりに掴まることもできた)……無賃乗車をクリアするには強敵が一つ待っていた。
 ヤツの名は自動改札。
 コイツをクリアするにはアクション映画なみに助走をつけ、片手をついて飛び越えるか、誰か他の人が通る後ろをピタリとついて通り抜けるかの二択ってことになるのだろう。
 圧倒的にカッコよく、そして時間短縮もできるのは前者だが、ヘタにどこかに引っかかろうモノなら警報ブザーが鳴ったりしかねないのではないだろうか。
 だが、この時間帯のローカル線の下りは利用者も少なく、ダッシュで駆けてきてしまったために、今、改札前には俺一人だ。そして時間は少しでも無駄にしたくない。
 結局、俺は意を決すると、助走をつけて自動改札本体に手をついて、バーの上を飛び越した。
「やべー今の俺ちょっとかっこよくね?」なんて心の中で少し思ったりもしたが、やっていることが無賃乗車ってのが情けない。まぁそこはすぐに忘れることにしたけどな。
 
 タイムリミットまで、あと七十五分〇三秒――。
 
 ◇ ◆ ◇

 学校はすぐに見つかった。駅を出て左に続く緩やかな坂。その上には、やはりどこかで見覚えのある茶色い校舎があった。
 あそこだ。俺は再び駆け足で緩やかな坂道を駆け上りはじめた。左右に広がる風景にもやはりどこか覚えがある。多分、俺はここに来たことがあるんだ。
 でもいつ? なんで学生服を着ている男である俺が女子高に? そこまではさすがにまだ思い出すことはできなかった。
 校門前に辿り着くと警備員らしきおっさんが立ってはいるが、校門横の通用口は開いていた。
 俺は(おそらく)気配を消す必要もないのに、そーっとそこを通り抜けると、本城寺学園女子高等学校内の敷地へと足を踏み入れることに成功した。
 校門から続くポプラ並木。ここにも見覚えがあった。何故か妙に胸が躍るような、それでいて締めつけられるような、相反した感覚が胸中に甦る。
 その感覚は一歩一歩と歩みを進めるたびに強まるようだった。
 俺は一体ここでなにをしたんだろう? それとも『女子高』という禁断の園に足を踏み入れたことに、昂揚したり不安になったりしているのだろうか。
 わからない。全くわからない。
 だが、一つだけわかることがあった。
 それは、ここには確実に『あの子』がいて、俺は『あの子』に会うことで、現状を抜け出す糸口を掴むことができるという『確信』が強くなっているということだった。
 掲示板などが立ち並ぶ校舎前のエントランスに辿り着くと、先ほどの相反した奇妙な感覚はピークに達した。そしてどういうわけか安堵感と喜びに似たような感覚に取って代わる。
 
『――ったな! ――でと――! これで――やくそ――』

 フラッシュバックの様に耳の奥の、さらに奥に小さく響いたのは自分の声だった。
 合わせて何人もの女子のざわめきが重なる。一体これはなんなんだろう。これから一つ一つ手がかりを拾う度に、こんな感覚が重なっていくのだろうか。
 少し不安にはなったものの、俺は意を新たにして校舎内へと足を踏み入れた。
 清潔に保たれ、ワックスがかけられたリノリウムの床を土足で駆け回るというのは、若干気が咎めないでもなかったが、どうやら足跡が着くようなこともなければ足音がすることもないようだとわかると、俺はさっそく『あの子』の教室を探そうと、生徒玄関周辺を歩き始めた。
 だが、デパートじゃあるまいに、ご丁寧に各階の案内板があるわけもない。
 そんな当たり前のことに気づかないあたり、相当気が急いているのだな、と、改めて左腕のタイマーを見ると、残り時間は六十八分ちょうどになるところだった。急がなくてはならない。
 ――考えろ。普通の高校ならば、一年生の教室は最上階にあるはずだ。多分。少なくとも俺の記憶ではそうだ。この学校が特別でもない限り間違いはないだろう。
 いずれにせよ、一番上からしらみ潰しに探していけばなんとかなるはずだ。
 そう考えた俺は、中央階段と思しき階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
 一階踊り場には大きな鏡がおいてある、二階、教室が居並び生徒の声は聞こえない。教室の扉の上には『2―A』と書かれている。ここは二年生の教室階という解釈で間違いなさそうだ。
 二階踊り場、さまざまな部活やら委員会かなんかの勧誘ポスターが生徒会許可の印章付きで奇妙なまでにきっちり整理されて貼られていた。他に気になるものはない。
 そして三階。外から見たときに最上階だと思っていた場所に、俺はようやく辿り着いた。
 一気に駆け上がって来た割りには、不思議と激しい息切れはなかった。どうやら俺はそこそこ運動ができるヤツだったようだ。それとも、これも夢だからなのだろうか?
 しかしここまでの間に、あのポプラ並木やエントランス前で感じたような感覚は皆無だった。ただひたすらに見知らぬ校舎を駆け回っている。そのまんま、そんな感じしかしない。
 中央階段から見るに、三階の一般教室は六つのようだ。廊下側の窓はありがたいごとに磨りガラスでもなんでもなく、教室内を覗き込める。扉上の表示は『1―A』。BINGOだ。
 が、一番最初の教室にはどうも彼女の姿はないようだった。
 二番目の教室、ここにもいない。
 三番目の教室はちょっと様子が違った。生徒も教師も誰もいないのだ。
 ガランとした教室を覗き込んでみると、黒板に丸っこい文字で『C・D合同体育! グラウンドにて』と書いてある。
 念のため『1―D』と書かれた四番目の教室を覗き込んでみたのだが、こっちも同じような状況だった。つまりここの二つのクラスは現在グラウンドにいるということなのだろう。
 なんとなく「いないだろうな」という予感を感じながら、五番目と六番目の教室も一応覗いてみたのだが、やはり『あの子』はいなかった。
 となると答えは簡単だ。
 『あの子』はC組かD組で、現在は体育の授業中ってことなんだろう。D組の半端に開いていた扉を音を立てないようにそっと開けて中に入ってみる。
 いや、別に置き引きをしようだとか、無人の女子高生の教室というシチュエイションを利用して変態的犯罪行為をしようとかそういうわけではなく、教室からグラウンドが見えないものかと考えたのだ。
 窓際の席に近づき、窓から外を見る。二色のジャージがグラウンドで動き回っているのが見えたが、さすがにこの距離からでは、どれが『あの子』かまではわからない。
 やはり行くしかないか。いや、最初からそのつもりだったのだが。
 出がけに黒板上の時計を見上げると、長針と短針は十一時三十五分前後を示していた。そして俺の左腕のタイマーは残り五十三分四十五秒。
『あの子』を探す余裕は十分にあるだろうが、全てを知り、記憶を取り戻すことができるのかは、まだまだわからない。
 顔を見るだけで全てを思い出すことが出来るなら、今朝でもできたはずだ。
 すっぽりと抜け落ちてしまっている俺の何か。そして俺の全て。それを取り戻すのに、いやヒントだけでも手に入れるのに、この時間は短いのだろうか、それとも長いのだろうか。
 ただただ不安にかき立てられて、俺は校舎を飛び出した。
 
 タイムリミットまで、あと五十二分十一秒――。
 
 ◇ ◆ ◇

 女子更衣室。
 それは禁断の花園だ。しかも女子高の女子更衣室ともなれば、秘中の秘。禁断の花園中の禁断の花園だ。
 無論のこと男子禁制であり、覗きたい気持ちはあれども、二つの理由で覗いてはいけないという場所でもある。
 一つは社会道徳的なものであり、一つは女の本性を見るのが怖いという男性特有の気持ちからくるものであることは、今更言うまでもないだろう。
 で、今の俺はというと、その扉の前にしゃがみ込んで聞き耳を立てるという、なんとも不格好というか情けないというか、そんな姿勢で、中から聞き漏れてくる会話をなんとか拾おうとしていた。
「ったくさー。メシ前にバレーとかやってらんないよねー」
「ホントだよー。部活の連中とかマジになり過ぎだっての。ヒザ擦りむいちゃってソンガイバイショー請求しちゃおっかなー」
 そんなやりとりの後に、派手でけたたましい笑い声がかぶる。
 女の園の実態は大声で無遠慮だという人生の真理を一つ知った気分だったが、そんなことは今はどうでもよかった。
 体育の授業に出ているはずの『あの子』を探しにグラウンドに出た俺だったが、見つけることはできたものの、彼女の名前を知ることはできなかったのだ。これには面食らった。
 さすがは私立高校といったとこだろうか。彼女らが着ていたジャージは、中学やそこいらの公立とはワケが違った。
 遠くからでも判別できるような、クラスとネーム入りのゼッケンを貼り付けたものなどではなく、胸元にネーム刺繍が施してあるものだったのだ。
 あれではかなり近距離まで接近しなければ読み取ることができない。姿が見えないとはいえ、ボールや人が飛び交うバレーボールの授業中に特攻をかける気には、さすがになれなかった。
 それでも一応、彼女の名字だけは、おおよそ知ることができた。
「コーサカ! サクマ! コート入れ!」
 と、ガタイだけでなく声まで野太い体育教師が指示を出したときに先に立ち上がったのが『あの子』だったのだ。
 だから恐らく八割から九割の確率で彼女の姓は『コーサカ』で間違いないはずだ。
 そしてそれは、コーサカという名前と彼女の顔が、俺の脳内で一致したときに沸き上がってきた感覚、朝下り側ホームのベンチに座る彼女を見ているときの思いを数十倍に濃縮したような感覚が証明してくれた。
 コーサカ、コーサカ。どんな字なのか、そして下の名前がなんなのか。
 それがわかれば、また一つ俺はヒントを掴むことができるのだろうという、ほぼ確信に近い思いを沸き上がらせて、俺は今、この女子更衣室前にいるのだった。
 誰かが彼女と話をすれば、もしくは彼女の話をすれば、他にもヒントが拾えるかもしれない。そんなわけで、扉の下に着けられた換気口の横格子越しに耳をそばだてているのだ。
「昼飯どーするー?」
「あたしめんどくさいから着替えたらそのまま学食行くわー」
「サクマはー?」
「あたしもそーするー。今日A定トンカツだっけ? まーた体重増えんなー」
「じゃあ、あたしも弁当持ってそっち行くわー。席確保よろしくねー」
「コーサカはどうすんの?」
「……あ、あたしは……」
 これが彼女の声だ。ドア越しなのでで、くぐもって聞こえてはいるが、それでも聞き間違いようのない声。どういうわけか懐かしささえ感じる声だ。
「バッカ! コーサカはいつものとこに決まってんじゃん!」
「そ、そっか、ごめんコーサカ。あたしそゆとこまだ気がまわんなくってさ……」
「ううん、気にしないで。あたしこそ、付き合い悪くってごめんね……」
「もう二週間だっけ……カレシ」
「うん……」
「今日は晴れてるしさ、屋上も開放されてるし、きっといつもより届くよ……早くよくなるといいね……」
「うん……ありがとう……」
「ちょっ……! 泣かないでよコーサカぁ!」
「ごめ、ごめん……」
 しばらくの間、重苦しくなるような沈黙が換気口から漏れてきた。
 カレシ? 二週間? 早くよくなるといいね? 一体どういうことだろう。
『あの子』、コーサカにはカレシ、つまり恋人がいるってことなんだろうか。
 そしてそのカレシとやらは病かなんかに倒れているのだろうか。で、そのために友人達と昼食を共にしない? 一体どういうことなんだろう。
 そしてそんな会話を聞いた俺もなにかがおかしかった。
「気になる好みの子」、それが最初に彼女に抱いた感情だったし、彼女を見続けるキッカケになったはずだった。
 それは言い換えれば恋慕にも似た想いであったことは否定しない。むしろ、その想いはこうして動き始めてから今に至るまでの間、彼女の姿をグラウンドで見つけたときにも高まる一方だった。
 にも関わらず。にも関わらずだ。その相手にカレシがいるという情報を得ても、俺は全く傷ついていないのだ。普通ならショックを受けたり、諦めにも似た感情でガックリとなるべきところなんだろうが、全くそういった感情が沸かない。
 それどころか、胸が締めつけられるような途方もない切なさと、申し訳ないというような、罪の意識や焦燥感。そんな感情ばかりが溢れかえって、俺はいてもたってもいられなくなり、ドアの前から身体を起き上がらせると、自分の制服の胸を掴んで廊下の壁にもたれかかった。
 胸が苦しい。苦しくてどうしようもなかった。これもまたヒントなのだろうか。
 だが、いずれにせよまだ動かなくてはならない。
『あの子』、コーサカは一旦教室に帰って持参した弁当を持って屋上に行くらしい。ならば先回りして教室に戻っておくのがベストだろう。
 姿が見えなくなっているとはいえ、中の誰かが扉を開けた瞬間に女子更衣室を見てしまうようなことは避けたいし、今はとてもじゃないがそんな心境じゃなかった。
 俺は四時間目終了のチャイムを聞きながら、更衣室前を後にした。
 
 タイムリミットまで、あと二十九分四十二秒――。


[ 2009年04月07日-19:57 ]  



上りホームのエクストラ 〜明日、また駅で〜 -3-


【はじめに】
これは、某出版社のテーマ別大賞に応募した短編小説の原稿です。テーマは「駅」「謎の少女」でジャンルが「ラブコメ」だったかな?一応ライターは名乗っていますが、コラムやエッセイを書くライターと小説家とは全く別モノ。創作の難しさを思い知らされた結果に終わった作品です(笑)。「ヒトコト」の方で「読みたいですか?」という質問に対して一応リクエストがありましたので掲載します。まぁ赤面モノの内容ですが、文字通り生暖かくご笑覧下さい。
<前回まで>

 私立本城寺学園女子高等学校の校舎屋上は、昼休みの間は解放されているようだった。
 転落事故防止のためだろう、ベージュ色のフェンスは高く張り巡らされているが、バドミントンかバレーボールかなにかのコートラインが敷かれていたり、各所に植え込みがあったりと、なかなかに洒落た感じだ。そしてベンチもいくつか設置されていた。
 そのベンチの内の一つに、コーサカはちょこんと座ると、しばらくそこから見える風景を、じっと見つめてから、手の甲でごしごしと涙を拭った。
 膝の上には水色のナプキンに仕舞い込まれた弁当。どちらかといえば細身の彼女が食べるには大きいような気がしないでもない。
 膝の上でナプキンの包みを解いて、弁当箱の蓋を外すと、まごうことなき弁当がそこに現れた。彼女自身が作ったものなのか、彼女の母親が作ったものなのかはまではわからなかったが、それでもしっかりとした「てづくりのおべんとう」だ。
 が、やはり彼女が食べるには少々多いように感じる。
 彼女は箸箱から箸を取り出すと、きっちりと合掌して「いただきます」と言ってから弁当に箸を伸ばそうとしたが、思い起こしたように箸をおくと、胸ポケットをまさぐって生徒手帳を取りだして、その表紙を開いた。
 俺はそんな彼女の動作を彼女の正面に立って至近距離から見ていたのだが、手帳の中身が気になって、慌ててベンチの後ろへと回り込んで中を覗き込んだ。
 
 私立本城寺学園女子高等学校
 1―C
 香坂紗香

 生徒手帳の一ページ目には所属証明として彼女の名前とクラス番号が丁寧な字で、そう書かれていた。
 コーサカ……サヤカ……?
 なんとも違和感があった。
 違う、サヤカじゃない。
 
『よう新入部員。お前の名前、これなんて読むんだ?』
『え、その、えっと……なんて読むと思います?』

 再び耳の奥の奥に甦る声、今度は会話だ。片方は俺の声で、片方は彼女の声。
 随分懐かしいような記憶のような気がする。
 だが、そんなことよりも、もっと驚くべきものがそこにはあった。
 パスケースのようになっている生徒手帳のカバー。その裏に挟まれていた一枚の小さな写真……というか写真シールだろうか?
カードサイズで、ハートマークやLOVEなどのスタンプなどで賑やかに装飾されているそこに写っていたのは、最高に幸せそうな笑みを浮かべている二人の若い男女だった。
 一人は間違えようもなく香坂紗香本人で、今の悲しげな表情からは考えも着かないほど明るい笑顔で笑っている。
 そしてもう一人は……。
 
『これが第一歩。見える? 自分の顔』

 駅のホームで、あいつの言った言葉が脳内に何度も何度もリフレインされる。
 あの時認識した自分の顔、あれが自分の顔なのだとしたら(いや実際そうなんだろうが……)、信じられないことに、香坂紗香の隣で心底嬉しそうに笑っているのは――。
 誰あろう俺自身だった。
 パニックだ、混乱だ、いや大混乱だ。
 あまりの衝撃に俺は思わずへたり込んでしまった。
 奔流のように様々な会話の記憶が脳内にフラッシュバックしてくる。
 
『ん〜……サヤカ?』
『あははっ、残念でした。スズカって読むんです。よく読み間違えられますけどね』
『スズカ、か。いい名前だな、字面もいいし』
『えっ……あの、ありがとうございます……先輩の名前も、ちょっと珍しいですよね。……ステキだと思いますけど……』
『えっ……あ、ああ、爺ちゃんがつけたんだってよ』

『先輩、動かないで下さいよ。デッサンとれないじゃないですか』
『色々な角度から見て、あとは想像と好意で描きゃいいんだよ。実物より男前にな』
『中世の画家じゃないんですから、私には無理な注文はきけませんよ?』
『じゃあ後で俺が修正するわ』
『それじゃ、あたしの作品じゃなくなっちゃうじゃないですかぁ』

『先輩、卒業式もうすぐですね』
『ああ、そうだなー。卒業記念になんとか仕上げたいけど間に合うもんだかねえ』
『そしたら春休みも来て続ければいいじゃないですか』
『お前ね、受験という嵐を乗り越えて、ようやく手に入れた、ほんっの少しの自由な時間を引退した部活に注げってのかぁ?』
『でも、来てくれたら、紅茶とお菓子ぐらいなら用意しますよ。手作りですけど』
『毒入りでなけりゃ来てやるよ』

『先輩……えっとその、卒業おめでとうございます』
『ん、ああ。卒業っつっても、まだ作品描き上がってないから、ちょくちょく来るけどな』
『でも、あの、その、卒業式って今日だけなんですよね』
『まぁ、普通はそうだな』
『せ、先輩! その、えと、あの、第二ボタン下さいっ!』

『これからはスズカも受験生だな。まぁ一足先に高校行ってる俺から言わせてもらうとだな、受験は地獄だぜ? 志望校、本城寺にするんだろ?』
『うん、あそこなら通うのも、そう大変じゃないし。美術部が結構有名だから』
『スズカらしい選び方だな。でも大丈夫なのかよ判定とかどうなんだ?』
『そのあたりは一足先に受験地獄をクリアした立派な先達が助けてくれるんでしょう? ね、せ・ん・ぱ・い!』

『ちょっと判定が悪かったくらいで、そこまでヘコむなよ。大丈夫だって。これくらいなら、今からでも、いくらだって挽回できるってばよ』
『で、でも面談でも、ランク落とした方がいいって……』
『加藤かよ……気にすんな、あいつはいつもそうやって安パイ切らせようとしてるだけなんだ。今回はたまたまだって! 次であいつのでけえ鼻の穴開かしてやれよ!』
『ぐすっ……あれ以上開いたら気持ち悪いよぉ……』

『あのさ、スズカ。こういうのどうだ?』
『ん?なぁに?』
『お前本城寺受かったら、上り下りは違うけど、俺等一緒の駅使うわけじゃん』
『うん、そうだね』
『だからさ、ちょっと朝の時間合わせたりしてさ、毎日デートしようぜ』
『えー? ふふっ! 線路挟んでぇ?』
『そりゃ、その時によりけりだけどさ。俺がそっちに行ってもいいし、お前に上りホーム来てもらってもいいしさ。時間的には俺の方が少し早いのかな』
『そっかぁ、そういうのもいいかもね。帰りも時間合わせたりして』
『そっそ、名案だろ?』
『そうね。面白そう。でも寝坊しないでよ? あ、そうだ、いいこと思いついちゃった』
『ん? なんだよなんだよ』
『んー……まずは受かってからでないと、文字通り絵に描いた餅だからね。受かったら話すわよ。ね?』
『っだよ……気になるなあ……』

『やったな! スズカ! あるよ! お前の番号! おめでとう! やべー、俺まで泣きそうなんだけど!』
『あ、ありが、ありがとう! ありがとう! 見間違いじゃないよね! 本当にあるよね!』
『大丈夫だよ、俺の眼の良さ知ってんだろ? なんなら肩車してやろうか?』
『きゃっ! ちょっ……ちょっと! スカート! スカートめくれちゃうから!』

『あそこさ、下り側ホームの後ろ、桜のでっけーのがあるんだよ。満開になったら、ベンチで花見しようぜ! そ・れ・と! 例の約束、忘れんなよ?』
『大丈夫だよー! この一年間頑張ったのは受験勉強だけじゃないんだからね!』

『えっと……スズカ……本当に、本当に頑張ったな。改めて、おめでとう……な』
『うん……ありがとう……大好き……』

 記憶の奔流に押し倒されるようにへたれ込んでいた身体に鞭をいれるかのようにして起き上がったのだが、俺はまだ混乱していた。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。
 足を引きずるようにして彼女……スズカの前に回ると、彼女は弁当を半分ほど残して蓋を閉じているところだった。
 それから生徒手帳、いやその写真を胸に抱きしめると、
「……本当はこれ、あたしのお弁当じゃないんだからね……でも毎日作って待ってるから……きっと帰ってきてね……ソウ君……待ってるからね」
 そう呟いた、恐らくは、あの『駅』の方を見つめて。
 
 ――そして俺は『全て』の大半を思い出した。
 
 彼女は、中学時代俺の一つ下の後輩で、同じ美術部員だったこと。
 そして名前のことをきっかけに親しくなり、俺の卒業を機に付き合い始めたこと。
 一年間、デート代わりに彼女の受験勉強に付き合いながら過ごした日々のこと。
 落ち込んだときに提案した企画の数々。受かったらやろうと交わした約束の数々。
 そして一緒に手を繋いで、ここ、本城寺学園にやってきた合格発表の日のこと。
 
 そして……自分の名前も。
 
 だが、どうしても思い出せないことがあった、なんで俺の本体は眠りこけているのだろうか。話から察するに『何か』があって、俺は眠り続けているらしい。しかももう二週間になるという。確か、スズカのクラスメイトがそう言っていた。
 二週間前といえば……俺はさっき教室を覗き込んだときに黒板に書かれていた今日の日付を思い出し、そこから逆算した。
 四月の頭。そうだ、スズカが先に入学式を迎え、俺は数日遅れで二年度の始業式を迎えるはずだった……。
 朝、駅でスズカから弁当を受け取って……上りの電車に乗って……JRに乗り換えて……そこから先はどう頭を捻っても思い出せなかった。
 記憶の奔流の奥底に心を向けると、なにか強大な金属をひしゃげたような轟音と騒音、悲鳴が聞こえたような気がして、俺は怖ろしくなって考えるのを止めた。
 やがて、スズカはナプキンで元通りに弁当箱を包むと、ベンチから立ち上がった。
 同時に十二時半、午後の予鈴を告げるチャイムが屋上にも鳴り響く。
 左腕のタイマーを見ると、残りは僅か一分、いや五十八秒になっていた。
 未だ鳴り響き続けているチャイムの中、屋内へと続くドアに手をかけたスズカに、俺は無駄だとはわかっていても、声をかけずにはいられなかった。
「スズカ! 俺、絶対に戻ってくるから! あの『駅』に、この現実に!」
 残り時間三十秒。スズカは何かを感じたのか、ノブを回しかけた手を止めて振り返った。
 残り時間二十五秒。俺は制服の胸ポケットから、あの女にもらったメモを取り出して握りしめると呟いた。
「絶対に、絶対に帰ってくるからな。もう少しだけ、もう少しだけ待っていてくれ――『我を彼の地へ』――」
 
 タイムリミットまで、あと十二秒――。
 
 ◇ ◆ ◇ 

 空間が、というか風景が、ぐにゃり、と、ねじ曲がったような感じがして、気がつくと俺は薄暗い『あの駅』のホームにいた。まさに夢でも見ていたような気分だ。いや、夢の中で夢を見ていたような気分、の方が正確だろうか。とにかくまだ昂揚していたし、混乱もあった。
「どうやら間に合ったみたいね。おかえりなさい。それにその様子だと……どうやら成果はあったようね」
 黒い髪が風に流されるのを抑えながら、少女は今まで見せたこともないような笑みを静かに口元に浮かべて、そう言った。
「ああ、おかげさんで、自分が何者で何をすべきで何をしたいのかも取り返してきたよ」
「じゃ、もう未練はないわね?」
「未練?」
 どういうことだ? 未練、未練なら沢山あるぞ。俺はまだまだスズカと一緒にいたいし、スズカの弁当だって食べたいし、高校にはダチも待っているし、家族だって待っているし。そういう未練なら山盛りだ。
「ああ、言い方が悪かったわね。『ここ』でのことよ。夢現の夢での未練ね」
「な、なんだ。心臓に悪いような言い方するなよ。俺はなんだ、その、今までのお前の『夢使い』だのなんだのの言葉は全部嘘っぱちで、お前は実は死に神かなんかで、この世の未練を断ち切れずにいた俺を満足させて、天国やら地獄やらに送り込むのかなんてことまで思っちまったじゃねーか」
「あら、そういう演出でもよかったかもしれないわね」
 平気な顔をして、とんでもないことをいいやがる。
 夢の中でのこいつはやりたい放題なんだってことは自分自身で体験したばかりだしな。下手なことを言わない方がよさそうだ。触らぬ神に祟りなしってな。
「賢明な判断ね。さて、じゃさっさと現に戻りましょうか」
「ああ、でもその前に……一個だけどうしても思い出せないことがあるんだ」
「なんであなたが眠り続けているかってこと、でしょう?」
 もう、こいつの先読みには慣れた俺は、ただ黙って首肯した。
「そうね、それは現に戻ればわかることだし、別に今思い出す必要はないことよ。ヘタに思い出しても魂に傷がつきかねないしね」
 俺は自分が記憶の奔流の奥底を覗き込もうとしたときの恐怖を思い出して身震いし、また黙って首肯した。
「さて……じゃあ、ちょっと派手に戻りましょうか。現の世界に」
 そういうと彼女は、バッグから今度はメモ帳ではなくケータイを取りだして、誰かの番号を呼び出すと、なにがしかのやりとりをしているようだった。
「……いいからさっさと来なさい。どうせ昼寝しているんでしょ? こっちは朝から大変だったんだから、少しは手伝いなさい! いいわね!」
 最後の方は明らかに命令口調でいうと、ケータイを折りたたんでバッグに仕舞い込んで、やれやれといった素振りで長い髪をかき上げた。
 と、数秒もしないうちに、俺の背後から若干暢気な声が聞こえてきた。振り返ると、彼女と同じ制服を着た少女がこちらへ歩いてくるところだった。
「おはよーさんですー」
「おはよーさんですぅ〜、じゃないわよ。あたし今日は力使い過ぎて疲れてるの。それに午後の授業には出たいしね。最後に乗り物用意するから、あなたが彼を現へ連れて行ってあげて」
 そう一気に言われた長身でショートカットの謎の少女は、眠そうに瞼を擦ると、
「まーったく……いっつも人使いが荒いんだから……あなたも随分な目に遭わされたんじゃない?」
 と、意味ありげな視線で悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
「余計なやりとりはしないでいいの! さっさとやるわよ!」
 そう言うと彼女は再びメモ帳に何かを描き、一つは長身の少女に、一つは上り線路の上に放り投げた。
 と、次の瞬間、線路の上には妙にレトロというかなんというか、どうみても蒸気機関車にしか見えないものが現れ、長身の少女は、受け取ったメモを折りたたんで両掌でパンッと挟むと、それまでの黒いセーラー服から、藍色を基調とした別の制服に、その姿を変えていた。
 如何にも蒸気機関車の車掌らしい上下に、金モールのついた制帽まで着いている。
「……ちょっとぉ……あんまりにもシュミに走り過ぎなんじゃないのぉ……?」
 愚痴めいた感想を述べる短髪の少女だったが、長髪の少女は一切気にせず、
「るっさいわね。さっさと運転しなさいよ。で、あなたはさっさと乗る!」
 俺は、その言葉に背中を叩かれるようにして、自動ではないドアを開けると、対面四人がけの席に座り込んでガタつく窓を開け、黒髪の少女と車両越しに正対した。
 その黒曜石のような瞳と視線を重ねると、何かを言おうとした言葉が中々でてこない。まどろっこしさにむずむずしていると、彼女はなんとも不思議な微笑を口元に浮かべて言った。
「次は現で。そうね、多分またこの駅で会うことになると思うわ。その時はちゃんと本体ごと来なさいよ? 今日のことは貸しにしておくから、覚悟しておきなさい……憶えていられたらね」
 何事か言い返そうと口を開こうとした瞬間、若干空気を読まない警笛がホームに鳴り響いた。
「そんじゃー出発するよぉー」
「って、え? 出発ってどこに?」
「まーまー着けばわかるから。あーあと、トンネルに入るまでには窓閉めてねー」
 そう言い終わらない内に、蒸気機関車はスチーム音も高らかにゆっくりと動き始めた、上り路線を始発駅へ向かって――それがどこの始発駅なのかはわからなかったが。
 俺は、慌てて窓を閉めようとしながら、ホームから見送ってくれている黒い髪の少女に叫んだ、
「名前! もう一度名前教えてくれ! 帰っても忘れないように!」
 そうだ、彼女の名前を忘れてはいけない。なにしろまだ礼も言っていないのだから。
 SLの加速は鈍いとはいえ段々と距離が離れていく。おまけにスチームとピストンの音が俺の声を掻き消しそうになったが、何とか俺の声は彼女の耳に届いたようだった。
 
「私の名前は――ユメジ。コトガワユメジよ」
 
 そして列車はパワーを高め終えたのか一気に加速してホームを滑り出した。ショートカットの車掌(?)に指示されたように慌てて窓を閉め切ったが、車窓のガラス越しに見える景色は、まるで俺の知らない、全く見覚えのない奇妙な風景ばかりだった。
 美術の教科書で見た、怪しい髭のおっさんが描いたような世界とでもいえばいいのだろうか。
 ねじ曲がった樹木、室内灯がモールス信号のように光りながら溶けた飴細工の様になったビル、明滅しながら螺旋に回転する街灯。
 コートなのかマントなのかわからない漆黒の外套に身を包んだ人の群れ。雪景色のように白い風景なんかも、車窓から流れては後方へと溶けては消えていった、
 やがて車窓から見える景色は、途端に漆黒に塗りつぶされ、俺はトンネルに入ったのだと理解した。
 やがてトンネルを抜ける気配が伝わってくる。光が差し込んできたのだ。
 だが光は昼や朝のそれの光にしては強過ぎた。光と言うよりは圧倒的な『白』だ。
 目を細め、窓から顔を背けても『白』は容赦なく流れ込んできた。
「そろそろ着くよー」
 暢気な車掌のアナウンスに、心の中で「一体どこに着くんだよ」とツッコミを入れつつ、俺は『白』に飲み込まれるような感覚を感じながら、固く固く瞼を閉ざして身を任せた――。
 
 ◇ ◆ ◇

 強烈な眩しさにに目を焼かれまいと強く目を閉じた俺だったが、瞼越しにも『白』は押し寄せてきた。まるで白色LEDの懐中電灯を瞼に押し当てられているように。
 それが途端に、ふと和らぎ、俺は網膜に焼き付けられた『白』の残像を消そうと目を瞑ったまま強く瞼を閉じたり弛緩させたりを繰り返したあとで、ゆっくりを目を開けようとした。
 が、なかなか瞼が開かない、糊付けでもされているかのようだ。
 いつの間に目脂がついたのやら、と右手で瞼を擦ろうとしたのだが、右手を動かそうとした瞬間にとんでもない激痛が右手から右肘を通り、右肩から右頚部を貫通して、脳天を直撃した。
 どれだけ身体を酷使した翌日の筋肉痛でも、ここまではならないだろうというほどの痛みだ。
 仕方なく薄目を開けるようにして、ゆっくりゆっくりと目を開ける。
 視界も狭いので中々焦点が合わなかったが、それでも努力し続ける間になんとか現状の半分か三分の一程度を把握することができた。
 まず解ったこと。俺は仰向けに寝かせられているようだ。それも布団じゃなくてベッドだな。
 そして、とりあえず狭い視界の中で眼球を動かして捉えられる範囲のものを見てみると……まずこの部屋が、白系一色にまとめられていると言うことがわかった。
 それに――なんだこりゃ点滴か? 俺はぎしぎしと音を立てそうなほどゆっくりと顔を動かして、なんとか視界を広げると、ベッドの傍らには、テレビドラマなんかで見たことがある、金属製の柱とそれにぶら下がったパックが見えた。
 で、そこから管が通っていて……その先は……あ、やっぱり点滴なんだな、なんていう風に俺は変な風に納得しつつ「いやいや、そうじゃねえだろ」と、ツッコミをセルフサービスする。
 そうなのだ。さっきまで駅のホームにいて、そして妙にレトロな列車に乗せられて、トンネルを抜けて真っ白な『白』に入って行って――それが突然、見知らぬ場所のベッドに寝かされてるわけで――そりゃあ「ああ、点滴打たれて寝かされているんだー」なんて納得して終わりにしてしまっていいはずがあろうわけもない。
 よし、整理しよう。
 点滴を打たれており、ベッドに寝かされている。飾りっ気もなく、ほぼ白一色に統一された部屋に、独特の臭い。
 多分ここは病院かどっかの個室だということはなんとなくわかる。
 臭い、そうだ。臭いもある。視覚もちゃんと機能しているし(まだ半開きだが)、身体を動かそうとしたときの衣擦れの音も聞こえた。聴覚もOKだ。
 口の中はカラカラってほどではないが、舌がざらつくほど乾いているし、若干苦いような感覚がある。うん、味覚もOKってことなんだろう。つまり五感は問題なし、ってことだ。
 だが、全身が筋肉痛のように凝り固まっているし、他にも痛みがあるところが複数ある。まぁそれでも手足の感覚はあるし、布団を引っぺがしたら「うわ! 俺の下半身がねえ!」ということも無さそうだ。
 加えていうならば、周りを見渡そうと首を起こしたときに、重力も嫌というほど感じた。
 なるほどここまでは正常だ。あいつが言っていた『現』、そして『肉体』に帰ってきたってことなんだろう。
 しかし整理すべき問題はそれだけじゃない。今が何月何日の何時で(カーテンから透ける明かりから、まぁ昼間だということくらいはわかるが)、ここはどこの病院で、そもそもなんで俺がこんなところにいるのか……などなど、わからないことは大盛り山盛りてんこ盛りだ。
 そして切実な問題が一つ二つ。一つはやはり喉が渇いているということ。それと……生理的な問題が少々。えーと、つまり、トイレに行きたい。
 これ起きられるんだろうか。っていうか起きてもいいもんなんだろうか。
 全身が酷い筋肉痛のように痛むが、四肢をもそもそと動かしてみた感じでは、動けないことは無さそうだ。しかし自分の身体がどうなっているのかわからないというのは、非常に不安だ。不安だし、今はかなり切実だ。
 かといって、俺ももう十六歳。この場で禁を失するわけにもいかない。
 すっぽり抜け落ちている以前の記憶では、病院のベッドには枕元にナースコールなるものがあるはずで、それを押せば看護師さんが駆けつけて、なにくれとなく世話をしてくれることになっているはずだった。ということはトイレに行くのを介助してくれるかもしれない。
 場合によっては尿瓶に……という、十六歳・思春期真っ盛りの青少年にとっては、恥刑に他ならない結果になるかもしれない可能性は否定できないが……ええい、背に腹は代えられない。
 俺は再び全身筋肉痛のような痛みを歯を食いしばって堪えながら、ギシギシと寝返りを打つように枕元をまさぐって目的のモノと思しきスイッチを見つけると、必死の思いで手を伸ばして、そのボタンを押した。
 数秒後に聞こえたのは、頭上のスピーカー越しの応答。聞き覚えのない女性の声で「どうしましたー?」と訊かれたわけだが、さてなんと応えたモノかと考えつつ、とりあえず普通に「トイレに行きたいんですが……」と伝えた。
 いやはや、その時の自分の嗄れた声に驚いたがね。
 すると、その数秒後になにか物音が聞こえて、今度は慌てたような声で「わかりました、すぐ行きますね!」と同じ女性の声が返ってくる。
 まぁ、こっちとしても急いでくれるに越したことはないんだが、スピーカー越しの声からさえも察せられる慌てぶりには、少々戸惑いを感じた。
 それでも生理現象の方は一安心……となるはずだったのだが、それからは、そりゃあもうパニックの連続だった。
 記憶を失っていた俺に状況を説明してくれる医師やら、化粧もまともにしないですっ飛んできたらしい母ちゃんに、仕事場から直行してきたという親父、それに妹。
 みんながみんな口を揃えて「奇跡だ、奇跡だ」なんて言っているが、なんだってんだ全く。こっちは目が醒めたばっかりで、なにがなんで奇跡なのか、さっぱりわかりゃしない。
 ああ、これは全くの余談だが(本来なら、これこそが本題だったんだけどな……)俺の生理現象がどう処理されたかについては、絶対にツッコんでくれるなよ?
さて、そんなこんなで喜びに溢れまくった複数人と、一人だけ取り残されてぽかんとしている俺、という状態でも、それなりに現状を認識することはできた。
 なんでも俺は通学中の電車が脱線して起こした大事故というか大惨事の被害者の一人、ということらしい。
 病院に運び込まれたときは、全身を強く打ちつけ、擦過傷やら裂傷やらで出血はしていたものの、奇跡的に骨折や臓器などに異常はなかったそうだ。
 だが頭を強く打ったらしく、いわゆる「意識不明の重体」だった……とのことだった。
「もう二週間も意識がなかったんだよー!」
 ベッドに縋り付くようにして嗚咽しながら言う妹の言葉で、どれぐらい意識不明の重体期間が続いていたのかは理解できた。なるほど、二週間ね。
 全身打撲に二週間寝っぱなしじゃあ身体もギッシギシになるわけだ。
 周りがパニックになっている中、俺は妙に冷静にそんなことを考えていた。
「そうだ! お兄ちゃんが意識を取り戻したって連絡しないと!」
「んあ……? 誰にだよ」
「なに言ってんのよ! 香坂先輩にだよお! 自分のカノジョなんだから一番に知らせないとじゃない!」
 そうだ……スズカに、スズカに電話しなきゃな。あんなに心配させてたんだし。
 俺は『夢現』の中で見てきたスズカの行動や心境を思うと、あの『駅』を出たときのような、いてもたってもいられない気持ちを取り戻しはじめていた。
「母さん、俺のケータイって、今どこにあんの?」
 吸い飲みから水を飲ませてもらったものの、まだ嗄れが残る声で母親に尋ねる。
「えっ……多分あんたの部屋においてあると思うけど……」
「そっか……そりゃそうだよな」
 そりゃ二週間も入院してりゃ、当たり前と言えば当たり前のことだ。
 さて、どうしたものか。
 そもそも病院でのケータイの使用は禁止されているような気がするし、まぁそれはロビーあたりにあるだろう公衆電話から、あいつのケータイにかけてもいいんだが、残念なことに番号を覚えていない。いつもカバンにいれてあるメモ帳には書いてあるはずなんだが、それも今は自宅にあるんだろう。
 第一、ケータイを含め、俺の荷物が無事なのかどうかも不明だ。意識を取り戻した後、事故当時の新聞を見せられたんだが、その破壊状況にはかなりぞっとさせられたからな。
 そんなことを考えていると、一応気を利かせたつもりか、窓際に行ってケータイで誰かと話をしていた妹が振り向いて、
「香坂先輩、すぐ来るって!」
 と、嬉しそうなキンキン声を出した。その大声は、情緒的にも肉体的にもガツンと響いて、思わず顔をしかめそうになったが、それと同時に、俺はなんとなく自分の耳が赤くなっていく音を聞いたような気がした。
 
 ◇ ◆ ◇

「まだ絶対安静なことには変わりないですから。なるべく手短にお願いしますね」
 閉じかけの扉から顔を覗き込ませるようにして、看護師さんそういって少し微笑みながら個室を出て行った。
 走ってきたのだろうか、息を荒げながら文字通り病室に飛び込んできたスズカは、俺がベッドから片手を上げてみせると、ぐっと胸のあたりを抑えて、泣き顔のような笑顔のようななんともいえない表情をしてみせてから、結局溢れ出すのを抑えられないように涙を零して、床にへたり込んでしまった。
 そんなスズカを支える妹と「心配かけたねえ。でもほら帰って来たのよぅ」などと貰い泣きしながらスズカを抱きしめるマイマザー。
 おいおい、それらは全部俺の役目じゃないのか、などとツッコミたくもなったが、身体がどうにもいうことを利かないので、俺は二週間ぶりに『肉眼』で見るスズカの姿、そして部屋に入ってきた瞬間にそれとわかる彼女の匂いに、なおさら『帰ってきた』のだと実感して――目から謎の液体を少しだけ零した。
 
「……」
「……」
 
 しばらくしてスズカが落ち着きを取り戻し、医師やナースさんが部屋を出て、家族も変な気を利かせたものか(いや、ヘンでもないか)、それなりに気を利かせてくれた結果、今現在、この個室には俺とスズカの二人だけという状況が続いている。
 ベッドサイドのパイプイスに腰掛けてからというもの、二人分の無言の時間が流れていた。
 お互いなにをどう話していいものかわからないのだろう。俺は俺で、さっき『見て』きたことを突然話すわけにもいかないし、かといって「よう、久しぶり」なんて軽く言うのも不適当に思えて、結局無言を垂れ流していた。
 彼女の方も、何をどう話していいのかわからないのだろう。体調を気遣ってくれているのかもしれないし。どこかの歌手の詞じゃないが言葉にならないのだろう……俺もだが。
 それでも先に口を開いたのはスズカの方だった。
「……ソウ君、痛い?」
「ああ、痛いね。さすがに二週間も寝っぱなしだったからな、身体中がギシギシだよ」
 苦笑いを作って、それでも極力明るい声で応える。
「だよね……ホントによく頑張ったよね……帰ってきてくれて……よかっ……」
 そこまで言うとスズカは口元を両掌で押さえ込むようにして、嗚咽を漏らすまいとしながら、再び涙を零しはじめた。
 なんて言えばいいんだろう。うまい言葉がでてこない。
「ただいま」とは言ってやりたいんだが、タイミングが掴めない。
 必死に嗚咽を止めようとしているスズカに、言葉を出すキッカケを掴もうとでもするように、俺はきしむ右手をベッドから持ち上げて、スズカに差し出した。
「ソウ君……!」
 口を抑えていた手を解いて、俺の手を支えるように、大事なものを守るかのように、両手で握りしめるスズカ。
「……あったかいな」
「……うん、ソウ君の手、ちゃんと温かいよ」
「ああ、それもそうだけどさ。スズカの手が、な」
 生きているのだという実感が、彼女の手の温もりと、少しの湿り気を通じて、俺の心の奥底まで伝わってくる。それはとても幸せな感覚だった。
「スズカ」
「ん……なぁに?」
「――ただいま」
「……っ……おかえり、おかえりソウくん……っ……」
 
 ◇ ◆ ◇ 

 さて、それからがまたパニックの連続だった。
 意識を取り戻したものの、やはり頭を強く打っていることから検査検査の連続でへとへとになったり、二週間の寝たきり生活や打撲などで弱った身体を元に戻すべくリハビリや治療なんぞをやらされたりで、まだしばらくは入院生活が続いた。
 しかもその最中に、今度はマスコミの取材だ。
 なにしろ満員電車の脱線という大事故にして大惨事だ。負傷者は俺を含めて三桁を越えたそうだし、亡くなった方もいると後で知った。
 そんな中で『意識不明の重体』だった若者が意識を取り戻して社会復帰しようというのだから、マスコミとしても取り上げたくもなるってものなんだろう。
 そういう社会的意義やら、マスコミ側の気持ちはわからんでもないが、本調子でないところに続けざまに取材に来られるのは、やはり気疲れするというものだ。
 おまけに、それが記事になった途端、どこの誰からかも解らぬ花束やら贈り物やら「悲劇の中の奇跡で生き残った命を大事にしてください」などという若干説教がましい差出人不明の手紙やらが山と届き、俺の病室はどう考えても場違いなまでに賑やかな状態になってしまった。
 高校のクラスメイトや、中学の後輩達からの千羽鶴や寄せ書きなんかは、賑やかであっても、ありがたいものではあったが、なにを勘違いしたものか、どこぞのボランティア団体を名乗る組織から、巨大なクマのぬいぐるみまで贈られてきたときには、さすがに閉口させられた。
 そんな俺の入院生活だったが、母親とスズカが代わる代わる(というか、後半は殆どスズカだけだったが)しっかりとサポートしてくれたおかげで、俺は若干不自由になってしまった身体を元に戻す作業に集中できたし、四月の内に退院出来る運びとなった。
 そして迎えた退院当日。学校にも挨拶に行くため、久しぶりに制服に腕を通した俺は、病院玄関前まで見送りにきてくれた看護師さん達から花束を受け取った。
 傍らにはスズカがついてくれている。この後は、このまま二人で、まずは俺の自宅へ行って適当に手荷物を置き、その後『あの駅』まで行って、彼女は二限目から授業を受け、俺も学校に出向いて適当に挨拶をして早退してくるつもりだった。
 拍手と祝いとねぎらいの言葉に送られてタクシーに乗り込もうとしたとき、院内から一人のナースさんが花束をもって駆けつけてきた。
 大概の花束は既に親父に頼んで、昨日の内に持って帰ってもらったはずなのだが、置き忘れでもあったのだろうか。
「ちょっと待って! 今これ、届いたの。あなた宛よ! 時間指定でついさっき届いたの!」
 大事なことだから二度言ったのだろうか。タクシーの窓越しに受け取った花束は、墨で染めたような黒薔薇に深紅の薔薇が一輪囲まれているという、シンプルだが若干奇妙なものだ。
 だが、その奇妙な花束は、漆黒のセーラー服や鞄や靴に身を包んだ中で、鮮烈な印象的を与える血で染めたような紅いスカーフ――という、あの少女の姿を俺の脳裏に描かせるには十分過ぎるものだった、
 花束に挟み込まれるようにして入っていた小さな封筒を開けると、そこにはメッセージカードがあり、三つの言葉が書かれていた。
 
『おはよう おかえりなさい ――ユメジ』

 俺は自分の予感が的中したことに苦笑すると、そのメッセージカードを制服の胸ポケットに仕舞い込み、ぽんと掌で叩いてから、運転手に行く先の住所を告げた。
「……ところで、その花束、誰からだったの?」
「ああ、えっと……」
 どうにも説明に困ってしまって頭を掻く俺。
 夢と現の境を行き来する奇妙な力を持った人間――夢使い――そんな説明をしても、スズカにはわからないだろうし、そんな説明の仕方をするつもりもない。
 慎重に言葉を選んでいると、スズカは頭の上に小さいクエスチョンマークを浮かべたまま小首を傾げて俺の思案顔を覗き込んでいる。
 俺はそんな彼女の頭を「なにも心配することなんかないんだ」とでも言い聞かせるよう、ぽむぽむと撫でるように叩いてやってから、こう言った。
「二週間前……いや、リハビリで入院してた期間を含めなくっちゃだから四週間前かな? そのくらいのときに世話になったヤツからだよ」
「ふうん……そっか、でもさ、ソウ君。黒い薔薇って結構高いんだよ?」
「へぇ。そういうもんなのか。でもあんま趣味よくねーよな、コレ」
「ひっどーい! でも、確かにちょっと退院のお祝いの花にしてはそう……かもね」
 言いながらくすくすと笑うスズカ。
 そんななんでもない会話が、開け放したタクシーの窓から流れ落ちていくのを横目に、俺はあの「謎の少女」ことユメジが、夢の中だけでなく現実の中にちゃんといるのだということに、妙な感覚――多分ちょっとした期待感に似た何かを覚えて、そんな自分に若干驚いていた。
 やがてタクシーは俺の自宅を経由して駅前に着いた。
 久しぶりに使う定期を自動改札の読み取り機に通して、俺はそのまま上りホームへ。
 今度はちゃんとカラダごと、あのベンチへと向かった。そして後に続いたスズカは、改札を抜けると階段を昇って対面側の下りホームの同じベンチへと小走りに急ぐ。俺が『そこ』に着くのに合わせるように。
 やがて対面側のベンチに、少し息を弾ませて、頬を上気させたスズカの姿が現れた。
 その背後には、今年の春は寒かったから、少しばかり遅咲きだったのだろう。まだ八分ばかり花をつけてくれている桜が春風に揺られて、その花びらを舞い散らせていた。
 スズカはベンチ前に立っている俺に大きく手を振ってみせる。まるで嬉しくて仕方の無いように身体を跳ねさせるようにして。俺はそんなスズカに小さく手を振り返しながら、
「ああ、帰って来られて本当によかったなぁ」
 などと改めて実感していた。
 
 やがて上り列車がやってくるアナウンスと軽快な電子音がホームに鳴り響く。中途半端な時間なので、他に利用客はどうにも少ないようだ。でも、他に多くの客がいたって構わなかった。
 俺は電車がホームに近づいてくる音を聞きながら、白線のギリギリの場所まで進むと、向かい側のスズカに声をかけた。迫り来る鉄の車輪が鉄のレールを削る音に負けないくらい大きな声で。
 
「――スズカ!」
「なあに、ソウ君?」

 深呼吸を一つ、肺に溜め込んだ空気と共に様々な想いを込めて。

 そしてもっと、そう、もっと大きな声で。

「また明日、駅でな!」
 
 ◇ ◆ ◇ 

 そんな男女のやりとりを駅前喫茶店の窓越しに見ている少女達。
 ショートカットの娘が言う。
「結局タダ働きじゃないのよ。人まで呼び出しといてさ。花束代だって安くなかったんじゃないの? あんたにしちゃ珍しいじゃない、こんなの」
「まぁね、でも普段使う駅にあんなのがいたんじゃ落ち着けないでしょ。だから」
 俯いた拍子に流れるように零れた黒髪を、白皙の指で耳の裏にかき上げた長髪の少女が、自分の用意していたセリフを語り終えるのを遮るようにして、対面の一人の少女が言った。
「なに、ひょっとして惚れたわけ?」
「ばっかじゃないの? コブツキなんて真っ平ゴメンなのわかってるでしょ?」
 多少苛ついたような声で、眉をきつくして黒髪の少女は早口でまくし立てる。
「……ま、まぁね、じゃあでもなんでよ? 『あたし達』の中でも結構ガメつ……しっかりしてるあんたが、タダ働きなんてねぇ……」
 その剣幕に気圧されたかのように長身を縮めながら、ショートカットの少女は、語尾を霧の中に隠してしまうかのように、か細く呟いた。
 そんな少女の発言を無視するかのように、駅前から走り去ったタクシーを見送り終えると、ゆっくりとティーカップをソーサーに戻した少女は、再び零れた長い黒髪を指で弄びながら、長身の少女の問いに対する応えを出した。
「ねぇ……こんな話知ってる? 臨死体験をした者は、何か特別な力を持って帰ってくるっていうの」
「ああ、うん。『あたしら』の中にも、そういう子いるしね」
「そう、しかもその体験に『あたし達』が介入したら、どうなるのか……興味ない?」
「……ひっど! あんたそんな自分の興味のためだけに、あんだけのことしたの?」
 黒髪の少女はくつくつと喉を鳴らすように笑うと、言葉を続けた。
「まぁ、それはこれからのお楽しみ。でもひょっとしたら、新戦力になるかもしれないわけだからね。だから、これはタダ働きじゃないのよ。そうね……貸しイチってとこかしら……?」
 そう言いながら、さも可笑しそうに微笑んだ少女は、
「さ、行きましょ。二限目からでも出席はしておくに越したことはないわ。今後も『仕事』で潰れたら、さすがに単位とれなくなるしね。裏工作も留年なんてのも、ごめんだわ。あ、あとここの支払で、あの時の借りはチャラにしてね」
「ええーっ……やれやれ、ほんっとおっかない女だよ、あんたは」
 伝票を手にとって席を立った黒髪の少女を追うようにして、長身の少女も席を立つ。
 レジで領収書を受け取った少女が喫茶店を出ると、春風が彼女の黒く細く長い髪を嬲った。
 軽く目を細めて流れる髪を手で抑えながら、少女は誰ともなく呟く。
 口元にほんの少しの笑みを浮かべて。
「そう、お楽しみは、これから――ね……」


<了>


[ 2009年04月08日-11:08 ]  



まぁ俺のことなんだけどね


先日、友人と車運転中との会話。

「お。カップルだ。しかも高校生だぞ」
「こんな時間(※8:30pm)に制服姿とは……部活帰りか?」
「まぁ十中八九そんなところだろうな。なんか二人ともスポーツバッグ担いでたし」
「あれか、男子の方は『遅くなったし、暗い道は危ないから、送っていくよ』とか、そんな感じか? 青いなー! 青い! 青いなー!」
「春ですなー! というわけで勝手にアテレコターイム」

「話し込んでたら、すっかり暗くなっちゃったね」
「うん、まだ夜になると冷えるよな。A子、帰りあっちだろ。送っていくよ」
「え? いいよ、悪いよー」
「悪くなんかねぇよ。それにほら、春だし、暗くなると、危ないし」
「危ないってなにがよー」
「その、ほら、痴漢とか……だから送っていくって!」
「そこまでいうんなら、送らせてあ・げ・る」

「くあーーーーーーー!! ちょっとUターンしろ、あいつら殴ってくる!」
「まぁまぁ、既に2キロくらい置いてけぼりにしてから、突然激昂すんなよ」
「しかしだな!」
「まぁまぁ、同じ会話でもちょっと変化を与えれば溜飲も下がろうというものさ」
「なんだと?」
「だからー……じゃあ『危ないってなにがよー』からな?」

「危ないってなにがよー」
「えーほら、痴漢とか。あそこ立て看板とかおいてあるじゃん。痴漢注意! ってヤツ」
「あ、うん。置いてあるね−。そういわれると、ちょっと不安かもー……」
「まぁ俺のことなんだけどね」
「お前なのかよ! あぶねーよ! 一緒に帰れねーよ!」

「いやでも、でかした! でかした人だよアンタ!」
「もう台無しだろ? 所詮そんなもんなんだよ」
「他には? 他にはなんかないのか?」

「え? えーとじゃあ……『なんかまた最近物騒だよな。小学女児を狙った犯行が続発、だってさ』」
「最悪だよなー。そういうのって春になると、そういう輩増えるよなー」
「まぁ俺のことなんだけどね」

「うわー、それはだめだ。それはよろしくないよ!」
「我が儘なやつだなぁ」


――とまぁ、こんな馬鹿な会話を繰り広げてたわけなんですが、この『まぁ俺のことなんだけどね』というセリフで落とすのがなかなか面白くて、色々出してはゲラゲラ笑いながら運転しておりました。俺、元気なんじゃねーの?

ま、それはともかくですね。せっかくなんでこういう言葉遊びも募集してみようかなと。そんなわけで、御題!

「○○だよなー」(話題を振る)
「ああ、○○だなー」(相づち)
「まぁ、俺のことなんだけどね」(定型)
「○○!」(ツッコミ)

という感じで、ゆるーく考えてみてください。意外とぽろぽろ出てきたりするもんですよ。前振りの部分は定型にとらわれずに、自由にやってください。でもまぁ、前文の例に倣った方が楽なんじゃないかなーとか思います(「最近○○だよなー」から始まる感じ)。なお、非常に個人的な話ですが、ツッコミ部分は、さまぁ〜ずの三村さま風なのが好みです(笑)。

そんなわけで、思いつきましたらメールフォームより、適当に送ってください。面白いものは採用公開させていただきまっす! ガンガンカモーン!



「鬱だ不眠だとか言ってる割にアホ話ばっかしてるとかどうかと思うよなー」
「まぁいつでも鬱で死にたいとか考えてるわけじゃないとはいえ確かにな」
「まぁ俺のことなんだけどね」
「うん、みんな知ってるよ」

(実際は結構ハードな投薬治療生活なんだぜ……?)



[ 2009年04月11日-05:25 ]